古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

斉明天皇陵・大田皇女墓-本薬師寺跡-藤原宮跡(=飛鳥浄御原宮)-箸墓

2017年02月10日 13時06分24秒 | Weblog
パソコンの故障が、よくわかりませんが、(いろいろやりましたが)とりあえずなおったようです。(まだ怪しい→やっぱりいぜんとして駄目な所があります)
しかし、パソコンが故障していなくても進みそうにない段階です。

さて、藤原宮は(=飛鳥浄御原宮)だったのではないかと考えました。
672年の時点で藤原宮(=飛鳥浄御原宮)は完成していたはずです。
694年藤原宮遷都は虚偽のはずです。
ところで、藤原宮完成していた時点で、大田皇女(皇女ではありませんが、)が生存していたとしたら、どうなるでしょうか。
大田皇女は皇后だったことになるはずです。
そうしますと、本薬師寺の記述も変になります。
天武天皇が皇后の病気平癒を願って本薬師寺を建立したことになっており、この皇后は持統(鸕野讃良・うののさらら)ということになっております。
しかし、この皇后は大田皇后だったのではないでしょうか。

《辛巳、雷於西方。癸未、皇后體不豫。則爲皇后誓願之、初興藥師寺、仍度一百僧。由是、得安平。是日、赦罪。丁亥、月蝕。》

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%96%AC%E5%B8%AB%E5%AF%BA
《本薬師寺(もとやくしじ)は、奈良県橿原市の東南に位置する藤原京の薬師寺と呼ばれた寺院[1]。後に持統天皇となる皇后の病気平癒を祈って天武天皇が建立を誓願した官寺である。平城京遷都で薬師寺が西ノ京に移ると、西ノ京の「薬師寺」と区別するために「本薬師寺」と称されるようになった》
天武天皇9年(680年)11月、天武天皇により発願される[4]。
『日本書紀』天武天皇9年11月12日条に、病気になった皇后(鵜野讚良皇女、後の持統天皇)のために誓願をたて、薬師寺を建立することとなり、百人の僧を得度(出家)させたところ、病気は平癒されたとあり[9]、「薬師寺東塔檫銘」(薬師寺東塔の相輪の檫管〈さつかん〉に刻まれた銘文)にも同じ内容の記述が見られる[3][10]。
天武天皇11年(682年)頃までに着工されたという。)

ただ、本薬師寺が大田皇后のために造られ、大田皇后の病気が治ったとすると、亡くなったのは、いつになるのか、特定が難しくなります。
もしかすると、686年天武崩御の時にも生存していたとしてもおかしくなくなってしまいます。
そして、大津皇子が皇太子にあたることになります。
ですから「686年皇子大津・謀反」は虚偽です。逆になります。
以上は信じがたいかもしれませんが、以下の写真で見ると、可能性はでてきます。

大田皇女墓は斉明天皇陵の前にあることになっています。

箸墓は卑弥呼・臺与(とよ)の墓だと考えています。
そして、「魏志倭人伝」は卑弥呼・臺与(とよ)が殺されて、箸墓に葬られ後で、臺与(とよ)が現れたことにしてしまいました。要するに卑弥呼は復活したことになったわけです。以上はしつこくいってきました。
ところで、大田皇女もそうでした。
以下でも書きましたが、大田皇女は斉明天皇陵の前に葬られたと書かれた後で、両親(天智天皇・遠智娘)が結婚したと書かれているのです。無茶です。

http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/df9f8ebc6e4d59a79715da358222f165
天智の皇女、そして天武の正妃・大田皇女について 2006年09月28日
《六年春二月壬辰朔戊午、合葬天豐財重日足姬天皇與間人皇女於小市岡上陵、是日以皇孫大田皇女葬於陵前之墓。》

大田皇女が卑弥呼になぞられていることになりますが、「魏志倭人伝」は臺与も卑弥呼と呼ばれていたことに気がつかないために、二人の卑弥呼を一人と勘違いしました。
しかし、大田皇女は一人でしょうから、日本書紀の記述はおかしい気がします。
また、藤原宮が実は飛鳥浄御原宮だとすると、その時の天武の皇后は大田皇女であったはずです。
さらにまた、薬師寺が天武発願で持統(鸕野讃良・うののさらら)のために造られたとされていますが、書紀では皇后と書かれていて大田皇女の可能性を否定できません。
第一、体が弱い、というイメージは持統よりも大田皇女の方ではないでしょうか。
(しかし、欽明=天智、敏達=天武という式からすると敏達皇后広姫には大田皇女が投影されることになります。広姫が亡くなったのが敏達4年(575年)ということは大田皇女が亡くなったのは天武4年(675年)ということになります。
すると、本薬師寺の建立はもっと以前でならなければならなくなります。

ともかく、これらを結んでみると一直線になります。
意味があるのだろうと思いますが、・・・・。

斉明天皇陵ー藤原宮(=飛鳥浄御原宮)ー箸墓
斉明天皇陵→箸墓
 ①36°26′07.58″ ②216°28′36.25″ ③11,269.277(m)
斉明天皇陵→藤原宮(=飛鳥浄御原宮)跡
 ①35°53′24.58″ ②215°54′44.35″ ③6,131.804(m)
箸墓→藤原宮(=飛鳥浄御原宮)跡
 ①217°07′38.92 ②37°06′30.03″ ③5,138.081(m)

6,131.804(m)+ 5,138.081(m)=11,269.885(m)
11,269.885(m)-11,269.277(m)=0.608(m)=60.8㎝  
それほど離れた場所でもありませんし、敷地内は通っているのではないでしょうか。

斉明天皇陵-本薬師寺跡-箸墓
斉明天皇陵→本薬師寺跡
 ①37°08′50.92″ ②217°09′56.46″ ③4,891.678(m)
本薬師寺跡→箸墓
 ①35°54′27.25″ ②215°55′50.37″ ③6,378.266(m)
斉明天皇陵→箸墓
 ①36°26′07.58″ ②216°28′36.25″ ③11,269.277(m)

4,891.678(m)+ 6,378.266(m)=11,269.944(m)
11,269.944(m)-11,269.277(m)=0.667(m)=66.7㎝

さて、ピッタリ一致しないようにみえるかもしれませんが、箸墓の両端と、斉明天皇陵、大田皇女墓を結ぶと藤原宮(=飛鳥浄御原宮)、本薬師寺跡を通っています。要するに、
斉明天皇陵・大田皇女墓-本薬師寺跡-藤原宮(=飛鳥浄御原宮)-箸墓は一直線上になります。












本薬師寺跡
34°29'33.94"N 135°48'1.33"E
北緯34度29分33.94秒 東経135度48分01.33秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=342933.94&l=1354801.33

藤原宮跡
北緯34度30分08.61秒 東経135度48分26.46秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=343008.61&l=1354826.46

箸墓
北緯34度32分21.57秒 東経135度50分28.03秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=343221.57&l=1355028.03

斉明天皇陵
北緯34度27分27.42秒 東経135度46分05.55秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=342727.42&l=1354605.55

大田皇女墓(ちょっと怪しい。)
北緯34度27分24.81秒 東経135度46分05.53秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=342724.81&l=1354605.53
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2月3日 節分 豆まき






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