古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆など)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

藤原宮は飛鳥浄御原宮ではないでしょうか

2017年01月25日 14時04分22秒 | Weblog
私の考えでは、藤原宮遷都が持統8年(694年)というのは、いくらなんでも遅すぎます。
《十二月庚戌朔乙卯、遷居藤原宮》
『12月6日、藤原宮に遷都された。』

唐風の都を造るのならば、白村江の戦いの敗戦後即座にといっていいほど早く実行されるはずです。
 敗戦後すぐには唐に攻められたときの防衛を考えたようですが、唐が我が国に攻め込む、という姿勢を見せなかったためでしょうが、我が国は唐との徹底抗戦よりも、唐にすべて従うという融和の作戦を選ぼうとしたと考えます。
そこで、天智天皇という、白村江の戦いの責任を押しつけるための架空のキャラクターを創りだしました。
645年乙巳の変~672年壬申の乱までは、正統性のない王権であったが、その悪は滅ぼし、再び正統性のある王権・天武に戻ったことにしました。

ただその場合、天智・天武が兄弟というのも変な気がします。
それでは、責任は天武にも及ぶのではないでしょうか。
ただ、天智という存在を創らないと、各豪族と天武との婚姻関係を消せなくなります。
豪族たちにも白村江の戦いの責任が追及されます。
天武及び子息たちの婚姻関係を架空の天智の娘たちと結ばせないと、反唐の実体が浮かび上がってしまいます。
そこいらはまだ不備ですが、気づいたことがあります。

694年藤原宮遷都はどこから導かれたのか、ということです。
まず、以前から考えているように、794年平安京遷都の100年前ということがあります。
ただ、この場合は694年から794年の平安京遷都が導かれた可能性も否定しきれません。
そこで、今回気づいたのは、660年百済滅亡の34年後だったということです。
で、思い出すのは北九州で247年凄惨な戦争が起こり、奴国の卑弥呼は亡くなったことです。
「魏志倭人伝」では卑弥呼の墓が造られたことになっています。
しかし、この墓はヤマトの卑弥呼臺与(とよ)が、おそらく34年後の281年に殺されたときに造られた墓です。
その後、13歳の臺与が現れてしまいます
「魏志倭人伝」は別人の卑弥呼を同一人物と勘違いしたために、卑弥呼は生まれ変わってしまいます。卑弥呼は蘇りました。

さて、百済滅亡の34年後に藤原宮が出来上がったことになります。
これは百済復活を表現しようとしたものではないでしょうか。

藤原=ふじわら=ふじはら=Fujihara=Fujikhara=不死・韓
「百済は不滅」という意味の名称に変わるように思われます。
(ただし、これは卑弥呼・臺与(とよ)の子孫でなければ意味がありません)
ですから、「藤原宮」という名称はやはりおかしいです。
万葉集巻一・五二の歌の
「藤井が原」という名称から「藤原宮」という名前になった、とされているようです。
http://manyou.plabot.michikusa.jp/arataheno_hijiigaharani.html
藤原宮の御井(みゐ)の歌
やすみしし わご大王(おほきみ) 高照らす 日の御子(みこ) 荒栲(たへ)の 藤井が原に 大御門(おほみかど) 始め給ひて 埴安(はにやす)の・・・・・

地名から「宮」の名称がつけられた、そうです。
しかし、飛鳥浄御原宮は違っています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E6%B5%84%E5%BE%A1%E5%8E%9F%E5%AE%AE
飛鳥の諸宮の名は、豊浦宮、小墾田宮、飛鳥岡本宮、後飛鳥岡本宮などで分かるように地名をつけている。異なるのが飛鳥浄御原宮である。「浄御原」は一種の嘉号であり、朱鳥年号とともに、不祥を祓い天皇の病気平癒を願ったものであるという。

しかし、また藤原宮の名称が地名からつけられたとすると、元に戻ったことになります。
変ではないでしょうか。
(ホントに「藤井が原」だったのでしょうか。ならば、「藤井宮」でも良さそうです。)
別にいいじゃないか、といわれるかもしれませんが、最初に戻ります、
藤原宮遷都が持統8年(694年)というのは、いくらなんでも遅すぎないでしょうか。

そこで、突拍子もないことに気がつきました。
藤原宮の元の名前は飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)だったのではないか、ということです。
(ずっと後になって、藤原宮・京が廃された後になって、文書の中に藤原宮という名前が付けられた、かもしれません。)
藤原宮=飛鳥浄御原宮ではないでしょうか。

それならば、飛鳥浄御原宮ならば、白村江の敗戦後、唐の意向に逆らわないように、今までの権力構造と、そしてその変化を認めさせるには、速やかに、唐風の都を造り、また律令制度の整備を進めることが必要だった、という条件が満たされそうです。
飛鳥京跡
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E4%BA%AC%E8%B7%A1
地元では当地を皇極天皇の飛鳥板葺宮の跡地と伝承してきたため、発掘調査開始当初に検出された遺構については「伝飛鳥板蓋宮跡」の名称で国の史跡に指定された[2]。しかし、上述のようにこの遺跡には異なる時期の宮殿遺構が重複して存在していることが判明し、2016年10月3日付けで史跡の指定範囲を追加の上、指定名称を「伝飛鳥板蓋宮跡」から「飛鳥宮跡」に変更した[3]。

まとまっていませんが、とりあえず。

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