古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆など)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

持統(鸕野讃良・うののさらら)を宗像一族とみる場合

2016年11月02日 12時03分07秒 | Weblog
持統(鸕野讃良・うののさらら)の出自を宗像氏と仮定してみます。
⊿高千穂峰・《諸塚山・高千穂峡・くし触》-出雲大社-天河大弁財天社が直角三角形になっていました。
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/2b546e0ab295527f47fee82cea6d0565
女神北面す 2016年10月13日


何度もしつこくやっていて恐縮ですが、繰り返します。
高天原は出雲の大国主命に国譲りを強要します。もちろん出雲を国譲りしたに決まっています。
ところが、天孫はまるで違った場所の高千穂に降臨します。
出雲大社-諸塚山-高千穂峰は一直線上で、諸塚山にも高千穂峰にも天孫降臨神話があります。
天孫降臨の伝説の地は二つありますが、出雲大社からの直線は二つの地を結びつけています。
《天孫降臨の地としては、九州南部の霧島連峰の一山である高千穂峰(宮崎県高原町)と、宮崎県高千穂町の双方に降臨の伝承があるが、どちらの場所が比定されるかは定説がない[1]。》ウィキペディア

しかし、本当はこの出雲大社-諸塚山-高千穂峰の直線と直角の方角に天孫は降臨したはずなのです。
なぜか。
卑弥呼復活の預言をしたことになってしまった「魏志倭人伝」は直角の間違いをしていたからです。その間違い通りに古事記・日本書紀は記述されなければならない宿命を持ちました。(「魏志倭人伝」の卑弥呼の墓は、卑弥呼の死後登場したもう一人の卑弥呼臺与(とよ)の墓です。また邪馬臺国は奴国の南ではなく東だったからです。)

さて、しかし、私の考える天孫の降臨する場所は、都の置かれた位置のはずで、飛鳥とか藤原宮とか平城宮のはずでしたが、出雲大社-諸塚山-高千穂峰と直角になるのは天河大弁財天社の位置でした。(尾鷲神社もそうでした。)

確かに、天河大弁財天社の北に都は存在していました。
とはいえ、あくまで北であって、都の位置ではなく、納得しかねていました。
しかし、天智天皇は存在しませんし、天智皇女とされる持統(鸕野讃良・うののさらら)は宗像氏の出身であって、皇女ではなく、高市皇子の母とすると、理解できそうな何らかの理由があるのではないか、という気がします。
はっきりしていない部分もありますが、藤原京が造成されるとき、王権・各豪族が協力していたのではなかったか。

ただ、藤原京が造られたのはいつなのか、まだ、わたしには理解できていません。
しかし、残されている記述は変です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BA%AC
藤原京(ふじわらきょう)は、飛鳥京の西北部、奈良県橿原市と明日香村にかかる地域にあった飛鳥時代の都城[1]。日本史上で最初の条坊制を布いた本格的な唐風都城でもある。平城京に遷都されるまでの日本の首都とされた。
694年(持統8年)から710年(和銅3年)までの16年間、都城制を敷いた初めての都で、日本で初めて国家体制が確立された大化の改新(645年)以後、その新しい国家の首都として造営された日本で最初の都市である[1]。
史料[注釈 2]には、持統天皇4年(690年)に着工し、4年後に飛鳥浄御原宮から宮を遷した(一説に12月6日(694年12月30日)昼前に遷行したとされる)、

663年白村江の敗戦後30年も経った後で唐風の都を造るというのは、いくら何でも遅すぎないでしょうか。
先の大戦(あまりそんな言い方はしなくなってきていますが)の敗戦の昭和20年(1945)から31年後の昭和51年(1976)になってからということになってしまいます。
(東京タワーができたのは1958年12月で霞ヶ関ビルは1968年4月のことです。)

さて、藤原京遷都694年というのは、794年平安京遷都からつくられたもの、と考えます。
以前、694年藤原京遷都から794年平安京遷都が実行されたのではないか、と考えたことがありましたが、そうではなく逆で、平安京遷都から架空の694年藤原京遷都が創られたのです。(ちょうど、天武即位672年が天武系消滅772年から創られたのと同じように。天武は663年白村江の戦いにおいては,すでに天皇位(天皇という語は使われていなかったかも)にあったのではないか。相変わらず決め打ちです。)
694年藤原京遷都は虚構です。

何度も書いていますが、唐に逆らった者たちは既に日本では滅びている、ということにしたはずです。
ともかく、もっと早くに、唐の制度をとりいれ、藤原京も造られていたのではないでしょうか。
恭順の意を表すために唐を見習っていることを示していたはずです。

藤原京が造られた時期については、686年天武崩御後の大津皇子事件のために、それ以降とされたのではないでしょうか。
ただし、さらに後に、高市天皇の時代を消すためにさらに追加の細工がなされました。

天武天皇の時代にすでに藤原京は存在したのではないか。
何度も書きますが、天武天皇崩御の折、大津皇子は禊で伊勢に行き、藤原宮に帰ってきて即位の予定だったのではないでしょうか。
その時、高市皇子はクーデターを起こし、大津皇子の即位を阻止しました。

天武天皇時代に、既に、藤原京が造られていたとすると、息長氏・宗像氏などの豪族は協同していたでしょう。
白村江の敗戦後でも責任のなすりあいがあってもおかしくはありませんが、そこはうまく乗り越えたかもしれません。(白村江の戦いにおける自分たちの存在を消すことにきゅうきゅうとしていて、内輪もめしている場合でなかったかもしれません。その前に、唐が攻めてきた場合の対策もあり内輪もめどころではなかったかもしれません。実のところ、わかりません)
完全な対立は天武崩御後の天皇位の継承問題で起きたはずです。
大津皇子の謀反とされる事件は、実は高市皇子の謀反・クーデターのはずです。

とりあえず、藤原京は宗像氏と結びつけられなければなりません。
息長氏とも結びつけられるとは思いますが・・・。
以前は伊吹山、息長陵、伊富岐神社とかの方をよく見ていました。

そこで、とりあえず、宗像氏と藤原宮との関連はどんなものが想像できるでしょうか。

香椎宮を入れると形は良くなります。
(辺津宮・宗像大社よりも香椎宮の方が良いわけです。かえって、問題になる?以下やっちゃっているから載せますが、考え直す必要があるかもしれません)
⊿香椎宮-天河大弁財天社-藤原宮跡
⊿辺津宮・宗像大社-高千穂峰-藤原宮跡
⊿沖津宮・宗像大社-高千穂峰-天河大弁財天社・・二等辺三角形













⊿香椎宮-天河大弁財天社-藤原宮跡
天河大弁財天社→藤原宮跡
 Ⅰ354°11′12.85″ Ⅱ174°10′03.12″ Ⅲ31,116.195(m)
天河大弁財天社→香椎宮
 Ⅰ264°16′54.92″ Ⅱ81°16′18.06″ Ⅲ502,145.649(m)
香椎宮→藤原宮跡
 Ⅰ77°43′18.29″ Ⅱ260°43′25.15″ Ⅲ503,055.305(m)

天河大弁財天社での角度
 354°11′12.85″-264°16′54.92″=89°54′17.93”≒89.9050度
藤原宮跡での角度
 260°43′25.15″-174°10′03.12″=86°33′22.03”≒86.5561度
香椎宮での角度
 81°16′18.06″-77°43′18.29″=3°32′59.77”≒3.5499度

⊿高千穂峰-香椎宮-藤原宮跡
香椎宮→藤原宮跡
 Ⅰ77°43′18.29″ Ⅱ260°43′25.15″ Ⅲ503,055.305(m)
香椎宮→高千穂峰
 Ⅰ167°18′29.47″ Ⅱ347°33′38.11″ Ⅲ200,808.774(m)
藤原宮跡→高千穂峰
 Ⅰ238°52′45.68″ Ⅱ56°12′04.39″ Ⅲ540,228.324(m)

香椎宮での角度
 167°18′29.47″-77°43′18.29″=89°35′11.18”≒89.5864度
藤原宮跡での角度
 260°43′25.15″-238°52′45.68″=21°50′39.47”≒21.8443度
高千穂峰での角度
 360°-347°33′38.11″+56°12′04.39″=68°38′26.28”≒68.6406度

藤原宮跡
北緯34度30分08.61秒 東経135度48分26.46秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=343008.61&l=1354826.46

高千穂峰
北緯31度53分10.63秒 東経130度55分08.29秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=315310.63&l=1305508.29
31°53'10.63"N 130°55'08.29"E

香椎宮
北緯33度39分13.10秒 東経130度27分09.77秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=333913.10&l=1302709.77

天河大弁財天社
北緯34度13分24.00秒 東経135度50分30.00秒
34°13’24.00”N,135°50’30.00”E
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=341324.00&l=1355030.00
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