古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

△伏見稲荷大社-住吉大社ー伊勢神宮・内宮

2017年07月08日 11時09分39秒 | Weblog
前回の続きというか残りです。
伏見稲荷大社-伊勢神宮・内宮の直線が伏見稲荷大社での角度が直角になるのは、難波宮跡・四天王寺の他に住吉大社があります。
やってみると、この中で、最も直角に近いのが住吉大社でした。





住吉大社
北緯34度36分44.56秒 東経135度29分37.76秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=343644.56&l=1352937.76
34.612377, 135.493822

伏見稲荷大社→伊勢神宮・内宮
 ①122°47′44.72″ ②303°20′17.45″ ③104,124.774(m)
伏見稲荷大社→住吉大社
 ①213°02′14.23″ ②32°52′41.55″ ③46,903.770(m)
伊勢神宮・内宮→住吉大社
 ①279°07′41.42″ ②98°25′48.42″ ③114,380.558(m)

伏見稲荷大社での角度
 213°02′14.23″-122°47′44.72″=90°14′29.51″≒90.2415度
伊勢神宮・内宮での角度
 303°20′17.45″-279°07′41.42″=24°12′36.03″≒24.2100度
住吉大社での角度
 98°25′48.42″-32°52′41.55″=65°33′06.87″≒65.5519度


住吉大社
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%90%89%E5%A4%A7%E7%A4%BE
創建[編集]
『日本書紀』神功皇后摂政前紀によれば、住吉三神(筒男三神)は神功皇后の新羅征討において皇后に託宣を下し、その征討を成功に導いた。そして神功皇后摂政元年[原 1]、皇后は大和への帰還中に麛坂皇子・忍熊皇子の反乱に遭い、さらに難波へ向かうも船が進まなくなったため、務古水門(むこのみなと:兵庫県尼崎市の武庫川河口東岸に比定)で占うと住吉三神が三神の和魂を「大津の渟中倉の長峡(おおつのぬなくらのながお)」で祀るように託宣を下した。そこで皇后が神の教えのままに鎮祭すると、無事海を渡れるようになったという[3][4]。一般にはこの「大津の渟中倉の長峡」が住吉大社の地に比定される[3][4][注 1]。

住吉三神の和魂を「大津の渟中倉の長峡(おおつのぬなくらのながお)」で祀りますが、その地は住吉大社の地に比定されているそうです。
秦大津父の大津はここを指しているのでしょうか。
また、「渟中倉」の「渟中」は敏達天皇、天武天皇の和風諡号に使われていました。
敏達が(渟中倉太珠敷尊)天武が(天渟中原瀛真人天皇)でした。

秦大津父が仲裁した二匹の狼〈おおかみ・大神〉は、前回は「神道・仏教」ではないかとしましたが、《天智系(百済系)・天武系(高句麗系)(ただしどちらもスサノヲ・卑弥呼の流れ)》もありでしょうか。《しかし、天武系は滅びてしまいましたから仲裁とはなりませんし、、。》
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