古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

高松塚古墳の被葬者は高市皇子です

2007年04月17日 20時47分16秒 | Weblog
平壌(ピョンヤン)から出雲大社に向かう線は道成寺に行き着きます。
4/7の地図を見てください。そこではA-C-Dで表していました。
Ⅰ平壌(ピョンヤン)→出雲大社
  ①121.191度 ②305.389度 ③733.851km
Ⅱ平壌(ピョンヤン)→道成寺
  ①121.164度 ②306.777度 ③1015.105km
Ⅲ出雲大社→道成寺
  ①125.290度 ②306.706度 ③281.2544km

Ⅰ③+Ⅲ③=733.851+281.2544=1015.1054
Ⅱ③とは40cm違いですが、Ⅲ③だけが下4桁まで出ているので、それを無視すれば一致しています。

平壌(ピョンヤン)-出雲大社-道成寺は一直線上にあります。

しかし、道成寺と東尋坊を結んだ直線が、その他の線、平壌(ピョンヤン)・東尋坊・富士山頂の線とか(武寧王陵)・出雲大社・伊勢神宮の線、また(光州)・出雲大社・伊吹山・富士山頂の線などに対しすっきりと直角に交わらないのが気になりました。

出雲大社・伊勢神宮の直線に対しては、道成寺の位置がもう少し東南方向にあればいいのだが、と考えました。(他の線に対しては駄目ですが)
そこで、地図で道成寺の東南方面をみると、驚いたことに「みなべ町」とあります。‘南部’で‘みなべ’と読むようです。
もちろん、阿閇皇女(あへのひめみこ・元明天皇)の姉で、高市皇子の妃の御名部皇女(みなべのひめみこ)を思い出します。

 道成寺の宮子伝説はやはり元明天皇に関係するのか、と納得しながらも、元明天皇と南紀の地がどのような関係にあるのか見当がつきません。

その先に田辺市がありました。
‘みなべ・MINABE’も‘たなべ・TANABE’も‘ABE・阿倍’を含みます。
ということは、たぶん阿倍氏が南紀と関係があるのだろうと想像できます。
上記のことは、ボンヤリと、しかし一瞬で浮かんだことです。

そして、田辺市に続いて見つけた山の名に息をのみ、目を疑いました。
(というのはちょっとオーバーです。確かに驚いたのですが、まだつながりがあるかどうかわかりませんでしたから、驚いてはいられません。)

その山の名は、なんと、高市山です。
ただし、「たかいちやま」と読みます。「たけち」とは読まないようです。
"和歌山県東牟婁郡串本町"です。
北緯33度31分28秒,東経135度38分32秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=333128&l=1353832
問題はこの「高市山」と「高松塚古墳」との位置関係です。
もちろん、高松塚古墳の被葬者を高市皇子と推測しているからです。

そして、結論からいえば、東尋坊と高市山を結んだ線上に高松塚古墳がのります。
ということは、高松塚古墳の被葬者は高市皇子である可能性は飛躍的に高まったと思われます。

高松塚古墳
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=342744&l=1354822

東尋坊
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=361416&l=1360731


東尋坊→高松塚古墳
 ①188.433度 ②8.24899度 ③199.4318km
高松塚古墳→高市山
 ①188.290度 ②8.19886度 ③105.3063km
東尋坊→高市山
 ①188.448度 ②8.17169度 ③304.7381km

199.4318+105.3063=304.7381・・・ピッタリ一致

東尋坊の位置が重要なことはここしばらくみてきたことです。
また高松塚古墳の所在は高市郡でした。
以前に、その他いろいろ推測してきましたが、その東尋坊と高松塚古墳を結んだ線の延長上の山の名に「高市」とつけられているのは偶然のはずがありません。
 
まだまだ詰めが甘いでしょうし、検討の余地はありますが、「高松塚古墳の被葬者は高市皇子である」と前提してたぶん大丈夫でしょう。


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