A崇峻天皇陵・倉梯岡陵(くらはしのをかのみさざき)、B藤ノ木古墳、C長屋王墓、D長屋王邸跡、E往馬大社、F聖徳太子御廟所
藤ノ木古墳の被葬者は、法隆寺の伝承では崇峻天皇です。
『「藤ノ木古墳」の名称について、第一次調査終了後、法隆寺の高田良信師から次のような意見が出された。
それは、この古墳は13世紀の古くから、地元で「ミササキ」(御陵)「ミササキヤマ」(陵山)と呼ばれ、崇峻天皇陵とする宝永6年(1709)の文書も法隆寺に残っている。・・・・・「ミササキヤマ古墳」(陵山古墳)にすべきではないか』
(p24藤ノ木古墳・前園実知雄、白石太一郎・・読売新聞社)
しかし、藤ノ木古墳の被葬者は二人でした。
すると、法隆寺の伝承が正しいとしたならば、崇峻天皇は二人でなければなりません。
さらに、しかし、日本書紀には、崇峻5年(592)11月3日(癸卯の朔乙巳・みづのとのうのついたちきのとみのひ・・乙巳の変は年が乙巳ですが、この乙巳は日付です。)蘇我馬子は東漢直駒に崇峻天皇を殺させ、その日に「天皇を倉梯岡陵(くらはしのをかのみさざき)に葬りまつる。」(文庫巻四p80)と書かれています。
崇峻天皇陵
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=342925&l=1355137
藤ノ木古墳
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=343643&l=1354345
では、法隆寺に残された文書、日本書紀の記述のどちらかが間違っているのでしょうか。それとも、どちらも間違いなのでしょうか、あるいはどちらも正しいのでしょうか。
表面的にはどちらも間違いであろうといえます。
ただし、古代日本史の場合、人物も年代も位置もすべて変化させられています。それらはすべて、特に『魏志倭人伝』の間違いに基づいた暗号で書かれていると考えなければなりません。
暗号と考えれば何らかの正確さを伝えているはずです。(偽の暗号もあるかもしれませんが、それらは逆となっているとすると、正になります)
そこで、藤ノ木古墳の位置と崇峻天皇陵の位置を見てみます。
暗号の解き方としては、間違っているかもしれませんが、ともかく。
ぴったりといかないのですが、崇峻天皇陵・藤ノ木古墳・(長屋王墓)が一直線上に近いです。
長屋王墓
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=343757&l=1354218
今までと、経緯度を1秒ずつ上げてあります。今までの経緯度で‘ウォッちず’で検索するとずれていました。
崇峻天皇陵・倉梯岡陵(くらはしのをかのみさざき)→藤ノ木古墳
①318.446度 ②138.371度 ③18.07874km
Ⅰ318°18′59.66″ Ⅱ138°14′31.97″ Ⅲ18,082.511(m)
崇峻天皇陵・倉梯岡陵→長屋王墓
①318.135度 ②138.047度 ③21.23787km
Ⅰ318°00′21.01″ Ⅱ137°55′04.46″ Ⅲ21,242.869(m)
藤ノ木古墳→長屋王墓
①316.284度 ②136.271度 ③3.160926km
Ⅰ316°09′15.36″ Ⅱ136°08′26.49″ Ⅲ3,162.145(m)
3.160926+18.07874=21.239666km
21.239666-21.23787=0.001796・・・1.796m違い
18,082.511+3,162.145=21244.656
21244.656-21,242.869=1.787m違い
吉備内親王墓でも2mほどの差
そこで、長屋王墓の北の神社・(八幡神社らしい)にすると
北緯34度38分2秒、東経135度42分20秒
グーグルアースでみると細長い森のようです。
崇峻天皇陵・倉梯岡陵→八幡神社
①318.463度 ②138.375度 ③21.33604km
Ⅰ318°20′01.78″ Ⅱ138°14′45.79″ Ⅲ21,340.500(m)
藤ノ木古墳→八幡神社
①318.484度 ②138.471度 ③3.257307km
Ⅰ318°21′18.83″ Ⅱ138°20′30.53″ Ⅲ3,257.995(m)
3.257307+18.07874=21.336047km
21.336047-21.33604=0.000007・・・一致としていいのではないか。
3,257.995+18,082.511=21340.506
21340.506-21,340.500=0.006m・・一致でしょう
また崇峻天皇陵・倉梯岡陵(くらはしのをかのみさざき)から長屋王邸跡および長屋王墓までの距離は大体同じぐらい。AD≒AC(600m~1km違い。微妙)
ということで、藤ノ木古墳の被葬者の二人は文武天皇と長屋王であろう、と現在のところ、想像できます。
日本書紀では、崇峻天皇は殺害された後、その日のうちに葬られています。
ということは、すでに存在していた誰かの陵に合葬されたと考えられます。
崇峻天皇=文武天皇の場合は、蘇我馬子(=不比等)が崇峻天皇(=文武天皇)に狙われていることを知って機先を制したはずです。
ですから、陵を造っている余裕はありません。ですが、誰とも合葬できません。 母の阿閉皇女(元明天皇)も姉の氷高皇女(元正天皇)も妹の吉備内親王も生きているからです。
ところが、長屋王の場合は、長屋王を崇峻天皇にするために、合葬することが可能です。(クーデターだったのですから、藤原四兄弟は長屋王を即座に埋葬しなければなりませんでした。しかし、その用意をしているわけはありませんから、文武天皇と合葬したのではないでしょうか。ただし、藤ノ木古墳の被葬者の二人は同時に棺に入れられた、もので、追葬ではないそうです。それが正しいとしたならば、別々に埋葬されていたものを、藤ノ木古墳に合葬したことになります。・・・これは不確実であてになりませんけど)
関係ないかもしれませんが、このところ気になっているのが、敏達天皇の埋葬は、なぜ、敏達崩御(敏達14年・585年)後5、6年も経った崇峻4年(591)だったのか、ということです。
藤ノ木古墳の被葬者は、法隆寺の伝承では崇峻天皇です。
『「藤ノ木古墳」の名称について、第一次調査終了後、法隆寺の高田良信師から次のような意見が出された。
それは、この古墳は13世紀の古くから、地元で「ミササキ」(御陵)「ミササキヤマ」(陵山)と呼ばれ、崇峻天皇陵とする宝永6年(1709)の文書も法隆寺に残っている。・・・・・「ミササキヤマ古墳」(陵山古墳)にすべきではないか』
(p24藤ノ木古墳・前園実知雄、白石太一郎・・読売新聞社)
しかし、藤ノ木古墳の被葬者は二人でした。
すると、法隆寺の伝承が正しいとしたならば、崇峻天皇は二人でなければなりません。
さらに、しかし、日本書紀には、崇峻5年(592)11月3日(癸卯の朔乙巳・みづのとのうのついたちきのとみのひ・・乙巳の変は年が乙巳ですが、この乙巳は日付です。)蘇我馬子は東漢直駒に崇峻天皇を殺させ、その日に「天皇を倉梯岡陵(くらはしのをかのみさざき)に葬りまつる。」(文庫巻四p80)と書かれています。
崇峻天皇陵
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=342925&l=1355137
藤ノ木古墳
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=343643&l=1354345
では、法隆寺に残された文書、日本書紀の記述のどちらかが間違っているのでしょうか。それとも、どちらも間違いなのでしょうか、あるいはどちらも正しいのでしょうか。
表面的にはどちらも間違いであろうといえます。
ただし、古代日本史の場合、人物も年代も位置もすべて変化させられています。それらはすべて、特に『魏志倭人伝』の間違いに基づいた暗号で書かれていると考えなければなりません。
暗号と考えれば何らかの正確さを伝えているはずです。(偽の暗号もあるかもしれませんが、それらは逆となっているとすると、正になります)
そこで、藤ノ木古墳の位置と崇峻天皇陵の位置を見てみます。
暗号の解き方としては、間違っているかもしれませんが、ともかく。
ぴったりといかないのですが、崇峻天皇陵・藤ノ木古墳・(長屋王墓)が一直線上に近いです。
長屋王墓
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=343757&l=1354218
今までと、経緯度を1秒ずつ上げてあります。今までの経緯度で‘ウォッちず’で検索するとずれていました。
崇峻天皇陵・倉梯岡陵(くらはしのをかのみさざき)→藤ノ木古墳
①318.446度 ②138.371度 ③18.07874km
Ⅰ318°18′59.66″ Ⅱ138°14′31.97″ Ⅲ18,082.511(m)
崇峻天皇陵・倉梯岡陵→長屋王墓
①318.135度 ②138.047度 ③21.23787km
Ⅰ318°00′21.01″ Ⅱ137°55′04.46″ Ⅲ21,242.869(m)
藤ノ木古墳→長屋王墓
①316.284度 ②136.271度 ③3.160926km
Ⅰ316°09′15.36″ Ⅱ136°08′26.49″ Ⅲ3,162.145(m)
3.160926+18.07874=21.239666km
21.239666-21.23787=0.001796・・・1.796m違い
18,082.511+3,162.145=21244.656
21244.656-21,242.869=1.787m違い
吉備内親王墓でも2mほどの差
そこで、長屋王墓の北の神社・(八幡神社らしい)にすると
北緯34度38分2秒、東経135度42分20秒
グーグルアースでみると細長い森のようです。
崇峻天皇陵・倉梯岡陵→八幡神社
①318.463度 ②138.375度 ③21.33604km
Ⅰ318°20′01.78″ Ⅱ138°14′45.79″ Ⅲ21,340.500(m)
藤ノ木古墳→八幡神社
①318.484度 ②138.471度 ③3.257307km
Ⅰ318°21′18.83″ Ⅱ138°20′30.53″ Ⅲ3,257.995(m)
3.257307+18.07874=21.336047km
21.336047-21.33604=0.000007・・・一致としていいのではないか。
3,257.995+18,082.511=21340.506
21340.506-21,340.500=0.006m・・一致でしょう
また崇峻天皇陵・倉梯岡陵(くらはしのをかのみさざき)から長屋王邸跡および長屋王墓までの距離は大体同じぐらい。AD≒AC(600m~1km違い。微妙)
ということで、藤ノ木古墳の被葬者の二人は文武天皇と長屋王であろう、と現在のところ、想像できます。
日本書紀では、崇峻天皇は殺害された後、その日のうちに葬られています。
ということは、すでに存在していた誰かの陵に合葬されたと考えられます。
崇峻天皇=文武天皇の場合は、蘇我馬子(=不比等)が崇峻天皇(=文武天皇)に狙われていることを知って機先を制したはずです。
ですから、陵を造っている余裕はありません。ですが、誰とも合葬できません。 母の阿閉皇女(元明天皇)も姉の氷高皇女(元正天皇)も妹の吉備内親王も生きているからです。
ところが、長屋王の場合は、長屋王を崇峻天皇にするために、合葬することが可能です。(クーデターだったのですから、藤原四兄弟は長屋王を即座に埋葬しなければなりませんでした。しかし、その用意をしているわけはありませんから、文武天皇と合葬したのではないでしょうか。ただし、藤ノ木古墳の被葬者の二人は同時に棺に入れられた、もので、追葬ではないそうです。それが正しいとしたならば、別々に埋葬されていたものを、藤ノ木古墳に合葬したことになります。・・・これは不確実であてになりませんけど)
関係ないかもしれませんが、このところ気になっているのが、敏達天皇の埋葬は、なぜ、敏達崩御(敏達14年・585年)後5、6年も経った崇峻4年(591)だったのか、ということです。