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per l/a psicoanalisi

introjection/incorporation における転移と同一化

2017-06-07 20:07:03 | 精神分析について
Freud においては、喪の作業の帰結として同一化が生じる。これは、Lacan とは違いがないだろうか?

Freud を真に受けないまでも、この辺りの Lacan や Derrida との比較検証はあっていい。分析の終結という問題にも繋がる。

例えば、Lacan 的な同一化は、体内化/取り込みの「線」で解釈することもできる。 では、体内化と取り込みは、どのように区別され、また境界を共にしているのだろうか?

Freud の場合、同一化とは体内化とほぼ同義である。その成功が、精神分析の喪の作業として、分析の終わりを含意する。
Lacan の場合、同一化は体内化/取り込みの両義性を保存していると見ていい。一方は、幻想の論理として、もう一方は、純粋な対象喪失として。
だが、Derrida の場合は複雑である。彼は、M. Torok に依拠しながらも、体内化/取り込みの境界線を脱構築しようとする。 単一の線を、“父には”帰属せず回帰しない散種へと、ある経済的な遅延を伴うエクリチュールへと仕立て上げることが、Derrida の狙いであるかのようだ。


取り込み(または取り入れ)introjection は、Ferenczi がもたらした概念だが、いわゆる正統派精神分析では、その十分な問題が汲み尽くされないで使用されたというのが、M. Torok の主張である。

これについては、同一化のみならず転移を考える重要な問題にもなる。 Ferenczi によれば取り込みとは、必ずしも愛の対象の現実的な喪失を必要としない。それは、「欲動とその変転の総体」を取り込み、対象はそのきっかけに過ぎない。

Derrida の指摘によれば、Ferenczi を参照にしている M. Torok は、「取り込みが単に対象ばかりでなく、それに関わる諸々の欲動を内包する(封入する)inclure と言い添えている」ということだ。

ここに何やら、転移と同一化が、既に欲動の運命を巻き込んでいることを読めないだろうか? それは必ずしも、現実的な喪失を必要とはしないまでも、“過程においては”そのような喪失が、問題化される。

幾つかの訴訟のような亡霊たちのざわめきとしての精神分析——?
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