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信用への未来 Futuro a credito

2017-04-21 21:21:38 | Agamben アガンベン
[翻訳者より:以下のイタリア語から訳出したジョルジョ・アガンベンの記事の中には、「信」を表す言葉が幾つか出でくる。文脈に応じて訳し分け、元の語を記しておいた。]
→元の記事へのリンク


Giorgio Agamben


何を“未来 futuro”という言葉が意味するかを理解するため、もし宗教的領域にないなら、より使われることに馴染みのない他の言葉“信仰 fede”が何を意味するかを先ず理解する必要がある。信仰 fede あるいは信用 fiducia なくしては、未来は可能ではなく、何かを望み信じることができる限り、未来は存在する。そう、しかし信仰 la fede とは何だろうか? 宗教学の偉大な研究者の一人である David Flüssere は、—この奇妙な名を持つ教義もまた存在する— pistis という言葉について、まさに仕事をしていた。今日、アテネのある広場で目を上げるなら、ひょっとすればある地点で見られ、その前面に Trapeza tes pisteos とキュービット体で書かれたものを人は見つける。

偶然の一致に驚いたことに、よく見れば間もなく、ある銀行の前に飾り気なく、ギリシャ語で“信用銀行 banco di credito”を意味する trapeza tes pisteos を見つけることに気づく。数ヶ月のあいだ理解することに努めていた pistis の言葉の意味は、この時代はこうであり、“信仰 fede”は単に、神の元でわれわれが享受〔享楽〕し、われわれにて神の言葉が享受〔享楽〕する“クレジット=信用 credito”である。これらの理由で、パウロは“信仰 la fede は、汝らの望むことの実体=物質 sostanza である”という有名な定義において、言うことができるだろう。それは、まだ存在していないことに、だが、われわれが信じることと信頼 fiducia を持つこと、われわれの信用 credito と言葉を賭けたことに、リアリティを与えるだろうということであると。ある未来として何かが、われわれの信仰 fede が実体を、即ちわれわれの望みのリアリティを与えることができるようになる尺度において存在する。

しかし、周知のとおり、われわれの時代は、乏しい信 fede、または Nicola Chiaromonte が言っていたよう、不誠実の、即ち強制により維持され、確信のない信 fede の時代である。したがって、未来ないし望みなき時代、—または、空虚な未来、偽の望みのそれである。だが、真に信じるには老いすぎていて、真に絶望されるためには狡猾すぎるこの時代において、何がわれわれの信用 creditoに、何がわれわれの未来に属するのだろうか?

よく考えれば、何故だか、まだ信用 credito の支えの周囲へ全てが向かう領域、その中でこの領域は全てのわれわれの pistis 、全てのわれわれの信 fede が完遂するに至らされる領域が存在する。この領域は金であり、銀行 -trapeza tes pisteos- はその聖堂である。金はある信用 un credito 以外ではなく、多くの銀行紙幣について(ポンドについて、ドルについて、—はたして何故、一体これがわれわれに疑われるべきだったか—もし、ユーロについてでないなら、まだ中央銀行が何らかの方法でこの信用 credito を保証することを約束する文字 scritto がある。われわれが通り過ぎようとしている、いわゆる“危機 crisi”—しかし、“危機”と呼ばれることは(これはもはや明らかである)、われわれの時代の資本主義がその中で機能する、通常の状態であるが—は、信用 credito についての、現実化されうる前に何度も控除され、大量に転売される諸信用 crediti についての諸操作の無思慮な連なりによって始まった。このことは、言い換えれば、金融資本主義—と、それについてある主要な機関である銀行—は、人間たちの信用 credito について—即ち、信仰 fede について—投機しながら〔賭けをしながら〕機能する。

だが、このことはまた、Walter Benjamin の仮説を意味し、それによれば、資本主義は実際に、一つの宗教であり、これまで存在するだろう中で最も残忍で執拗である。贖いや休戦を知らないので、文字通り受け取られるべきである。銀行は—その灰色の役職員と専門家と共に—、信用 il credito を管理することで、教会と司祭の地位を手に入れ、われわれの時代がまだそれ自体に持つ信用 la fede—乏しい、不確かな信頼 fiducia—を取り扱い、経営する。そして、より責任がなく、良心の咎めのない方法で、人間の信頼 la fiducia と希望の金を儲け、誰でも享受〔享楽〕することができるだろう信用 il credito と、(その主権を従順に放棄した、諸国家の信用 il credito さえも)それのために支払うべき代価と定めることで、そうする。このやり方で、信用 il credito を管理しながら、世界だけでなく人間の未来、危機が常により短く期限付きにする、ある未来もまた統治する。そして、もし今日、政治がより可能であるように見えないなら、そのことは、財政上の権力が、全ての信仰 la fede と全ての未来、全ての時間と全ての期待を、事実上差し押さえられたことが理由である。

この状況が続く限り、世俗と信じられるわれわれの社会性が宗教の最も暗く、非理性的なものに隷属されたままであろう限り、各々がその信用 credito と未来を、この陰鬱な、威信をなくした偽聖職者、銀行家、レート rating の様々な仲介の専門家と役職者の手から回復するのは、適切だろう。そして恐らく、なすべき最初のことは、それらが勧めるような、未来のみを見ることを辞めることである。それよりも、過去へ眼差しを向け返すために。ただ、何が起きたのかを把握し、何にもまして、どのように起きえたのかを理解しようと努めることで、恐らく、各々の〔固有の〕自由は再発見されうるだろう。考古学—未来学ではない—は、現在への接近のただ唯一の道である。


この記事は、2012年2月16日付の La Repubblica 紙上にもまた、「もし金の残忍な宗教が未来を貪り食うなら」というタイトルで掲載された。


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