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per l/a psicoanalisi

初まりの経験

2017-03-08 09:41:28 | Essay
★Twitter に投稿したものの転載。


人間の有限性の経験こそ、認識論的な基礎なのだろうから、それを抜きにしては、精神分析も哲学も、科学さえあり得ないだろう。人間が生きている、それは無限でも無際限でもない。初まりがある時点で、人間は有限だ。

翻って、人間の初まりとは遡行的にしか原理的には見出し得ない。 初まりを見出して、はじめて人間は人間の有限性の経験をする。その意味で、人間の認識は、初まりから/の隔たりと遅れを伴う。

幼年期は遡行的にしか見出せないと言ってもいいかもしれない。それ自体としては既に存在しないものに捕えられているのが、人間なのだ。 存在欠如と言葉を話す人間、エクリチュールの問題とは、この人間的な経験において、認識可能なものとなる。

初まりに神をおくか、物語や神話をおくか、原理や質を保存した点をおくかで、人間のディスクールは多様な展開を辿る。 人間のディスクールというのはだから、幼年期の言葉を話さなかった頃の名残り、もどかしさを保存している。

欲望の躓きの極点とは、何よりも起源の問題ではなかったか? (幼年期の頃に、伝えたいことがあるのに、言葉を持たないがために伝えられないもどかしさを味わわなかった人はいるだろうか?)

だから、精神分析の核心的な問題は、起源や幼年期、それに捕えられているセクシュアリティ(つまりは、愛)の問題なのだ。 これを忘れてはいけない。精神分析だけが、それらを探究する方法を“知っている”。つまり、人間の“無知の知”を。

人間は人間の有限性を、忘れてしまいがちだ。



†主人のディスクール、無意識の根本的ディスクールの問題は、この意味で計られないといけない。

それは、フロイト的なエディプス・コンプレックスに限定されるものではない。起源への問いと謎、更には倫理的な行為といった、認識には属さない事柄をも含む、有限な人間の永遠性の問題なのだ。
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