朝日社説
新安保法制―不断の監視が始まる
2015年9月21日(月)付
自衛隊に対する憲法の縛りをゆるめ、時の政権の判断による海外での武力行使に道を開く。
それが、新たな安全保障法制の核心といっていい。
政権が常に正しい判断をする保証がないことは、先の大戦の重い教訓だ。政権の判断を監視する目が機能するかどうかが、従来以上に大切になる。
国家安全保障会議(日本版NSC)、特定秘密保護法、そして今回の安保法制――。安倍政権がめざしてきたのは、安全保障をめぐる判断の権限を首相官邸を中心に一元化することだ。
刻々と変化する国際情勢について、政権が情報を集め、的確に分析し、過ちなき決断ができる。そんな前提の仕組みだ。
問題は、その判断の是非を、だれがチェックするのかだ。
やはり国権の最高機関である国会の責任は大きい。
今の国会は自民、公明の与党の数の力が圧倒的だ。「違憲」法制の歯止め役は果たせなかった。野党が求めた、自衛隊海外派遣の「例外なき国会の事前承認」も盛り込まれず、特定秘密保護法の壁も立ちふさがる。
しかし、厳しい監視が欠かせない論点は数多い。
法制を政権がどう運用し、自衛隊の活動はどう広がるのか。専守防衛が変質しないか。軍事に偏らない外交・安全保障の努力は。強大な同盟国・米国に引きずられないか。文民統制は機能するか。自衛隊の活動拡大で防衛費が膨らまないか……。
安保政策は本来、幅広い国民の支持の基盤のうえに、与野党を超えた合意に基づき継続的に運用されることが望ましい。
だが今回の安保法制審議は、政治に対する国民の基本的な信頼を傷つけた。法制がこのまま続く限り、結局は、安保政策の安定的な継続性は望み得ない。
「違憲」の法制については、継続性より正しい軌道に戻すことを優先すべきだ。法制に反対した野党には、政権交代が実現すれば、法制を是正する意思を明確にしてもらいたい。
野党には、もう一つの選択肢を国民に示すことも求めたい。
日本のあるべき将来像や国際貢献策は何か、具体的に示すこと。そしてその実現のために、自公政権に代わり得る民意の受け皿を形にすることだ。
法制に対する国民の監視が大切なことは言うまでもない。国会の行方を左右するのも、選挙を通じて示される国民の意思である。判断材料を提供するメディアの役割も重い。
安保法制の成立は、議論の終わりを意味しない。これからの不断の監視の始まりである。
➡ 朝日、責任感あるなあ、と思う。いいことですよね。
もう一つ。
小学生の暴力―要因を解きほぐして
2015年9月21日(月)付
突然壁を蹴る。友だちにいきなり殴りかかる。
小学生の暴力行為が昨年度、1万1千件を超え、過去最多になった。文部科学省の調査でわかった。
中高生が前年度より減ったのと対照的だ。8年前の3倍余りに上る。特に低学年で増えた。
学校が軽いものも報告するようになったとの指摘もある。だが被害者が病院で治療を受けた例は1400件近くもある。
集団で教員に反抗した、かつての校内暴力とは違い、個人でいきなり怒りを爆発させる例が多いと現場の先生らは言う。
攻撃に走る理由や背景を探り、対応を考える必要がある。
小学生の暴力行為は、なぜ増えているのか。「貧困などで入学前の家庭教育が十分でない例が目立つ」と文科省は見る。
それだけで説明はしきれない。専門家は言う。家庭や地域で人との関わりが薄くなったためでは。親の虐待の影響もあるだろう。食生活や睡眠不足やゲームのせいかも……。
確たる結論はない。だが、大人や社会の変化が影を落としているといっていい。一人ひとりの子のなかで、要因が複雑に絡み合っているのではないか。
それだけに、学校の役割は大きい。
まず必要なのは、その子の行為の背景や要因を丁寧に解きほぐすことだ。厳罰で抑えても、根本的な解決は難しい。「困った子は困っている子」と考え、本人の声に耳を傾けたい。
保護者と話し合って理解を深め、児童相談所や民生、児童委員と連携することが重要だ。
先生が十分指導できるよう態勢を整えることも欠かせない。
小学校は学級担任制だ。クラスの中で起きた問題は担任教師が抱え込みがちになる。
これを乗り越えようとしたのが横浜市だ。各校で1人ずつ、児童支援の専任教諭を決め、授業時間を減らす。その分、暴力行為やいじめ、発達障害などに積極対応できるようにした。
この方式は他市にも広がりつつある。文科省はそんな自治体の努力を支援してほしい。
子ども自身に人間関係づくりの力をつける教育も大切だ。
ゲームを通じて互いの気持ちを理解する。対立したとき、力に訴えず思いを伝える。そんなプログラムがある。異なる年齢の子ども同士での活動を増やしてもよいだろう。
暴力を許さない姿勢は、いじめを減らすことにもつながる。
学校という小さな社会を、どの子も安心できる場にする。それは大人の役目である。
➡ 「大人や社会の変化が影を落としているといっていい」
だろうな、と思う。
これも同じかな。
毎日朝刊社説
社説:居場所のない子 生命や健康が危ない
勉強についていけず不登校になり、親の暴力やネグレクト(養育の放棄)で自宅にもいられず、ネットカフェやファミリーレストランで過ごす子どもたちがいる。潜在的なホームレスとも言える。貧困や周囲からの孤立が子どもを危機に追いやっているのだ。
「子どもの貧困率」は過去最悪の16.3%、貧困家庭の子どもは320万人にも上る。ひとり親世帯の貧困率は54.6%と深刻さが際立っている。パートを掛け持ちでするため子どもの世話をする余裕がないのだ。親の借金返済のため早朝から深夜までアルバイトを掛け持ちでする子も珍しくない。子どもを守る最底辺の安全や安心が底割れしている。
政府は民家などを使って子どもに学習支援や食事を提供する「居場所」を2019年度までに年間50万人分用意する支援策をまとめた。年末までに財源確保を含め具体的な政策を決めるという。生命や健康の危機にひんしている子どもを救う緊急対策が必要なのは言うまでもない。
これまでにも、子どもの貧困対策推進法(13年)、子どもの貧困大綱(14年)などに教育や生活の支援、保護者に対する就労支援は盛り込まれてきた。ただ、具体性に乏しく財源の裏付けがないため、現に困窮している子どもに手が届いていないのが実情だ。それを繰り返してはならない。
「居場所」作りは小さなNPOや自治体が独自に始めて各地に広がってきた。お金も人もなくボランティアの善意でかろうじて支えられているところが多い。国民全体で課題を共有し、地域の人々を巻き込む仕組みを作り、公的な財政支援も厚くしなければならない。
子どもの外見からは困窮状態にあることがわかりにくいことも対策が後手に回ってきた一因だ。貧困大綱などでは、学校を中心に関係機関が早期支援をすることも打ち出された。給食の異常な食べ方や衣服の汚れなど、学校が子どもの困窮の端緒を見つけやすいからでもある。
しかし、日常の仕事に教師は忙殺され、スクールソーシャルワーカーも試行的に行われている地域が多いため人数が限られている。非正規雇用が多く、週に2日程度学校に来ても困窮状態の子どもに気づき、継続して支援することは難しいだろう。学校と福祉団体やNPOとの連携は進んでいない。
小中学生の不登校は約12万人に上る。高校の中退者も毎年10万人近くいるが、その7割以上が仕事をしていないかアルバイト程度の仕事しかないとも言われる。貧困や孤立は身近なところに広がっている。早急な対応が必要だ。
毎日朝刊
東京新聞朝刊
中国が自ら体制変革することはあり得ない。各国政府やメディアが中国に圧力をかけてほしい。
って…
違和感あるけど、まあ、いいか。
僕らも9条をノーベル賞に、とか、原発事故で、外国のメディアによる外圧を頼りしたりするわけだ。
天声人語
山あいの棚田を借りていたころ、土は働き者だとつくづく思った。猫の額ほどの田一枚ながら、秋にはずっしり60キロの米がとれた。もの言わぬ土にはどこか、手柄を誇らぬ「徳」のようなものがある▼寡黙ながら、私たちの食糧の大半を生み出してくれる。人間だけではない。陸域のほとんどすべての動植物を養う母である。しかし当たり前すぎるのか、ふだん意識されることは少ない▼今年が国連の「国際土壌年」ということも、あまり知られていない。生態系や農業に不可欠な土壌への理解を深めようと定められた。20世紀初頭に約16億人だった世界の人口は現在70億を超え、10年後には81億に達すると予測される。爆発的に増える命を支えているのが、ほかならぬ土壌だ▼土壌とは、植物を育てる力のある「生きている土」を言う。無尽蔵に思えるが、地球上の土壌すべてを集めても、地表に均(なら)して広げると厚さは約18センチしかないとの試算もあるそうだ。心細いほど貴重品である▼〈こッつん、こッつん、/打(ぶ)たれる土は、/よい畑になって、/よい麦生むよ〉。金子みすゞの詩は牧歌的でやさしい。だが世界では、収奪農業による土壌の劣化や、開発のもたらす侵食などが後を絶たない▼科学は進んでも、人間、地球の薄皮のような土壌に頼って命をつなぐほかはない。今世紀半ばに世界の人口は100億人を超えるとされ、働き者はさらなる頑張りを求められよう。感謝しつつ、大切に守ることに思いを致したい、収穫の秋だ。
そうそう、シルバーウィークというのは、いいネーミングで、すぐに浸透したみたいで、休日というのはいいものだと思うけど、農業に従事している人たちは、かなり忙しいときのようだ。
ラジオでこんな歌が流れてきた。
https://m.youtube.com/watch?v=3OqZ51J88pM
キルケゴール
「わが肉のうちに感じているこの棘を取り除けられたら、私は有限な意味においては、より幸福になれるだろう。だが、無限の意味においては、私は破滅するだろう」だそうだ。こういう人もいる。