知的モテ。

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はじめましての方も、いつも来て下さる方も、本当にありがとうございます(^^)ご縁に感謝します。このブログは心の平和と幸せ(inner peace&happiness)について色々な角度から書いています。今のあなたに役に立つ言葉がありますように・・・(^^)☆

慈経 Metta Sutta

2011-08-17 07:31:08 | 仏教(的)
皆さまこんにちは



本日は私が世界で一番慈しみに溢れている(笑)と思う文章をご紹介します
名前はそのまま、「慈経」(Metta Sutta)。


お釈迦さまが生きていらっしゃった時代から、
ひとつの作品として詩の形で暗誦されて伝えられてきたとされています。


法句経(ダンマパダ)と並んで最も古い経典のひとつ、
スッタニパータにも収録されています。


仏教が今のようにいろんな宗派に分かれる前、
お釈迦さまが実際に話されていた教え、言葉を
お弟子さんたちが結集という形で集まり確認して
大切に守ってきた初期仏教(テーラワーダ仏教)の経典です。



初期仏教の大事なお経はほとんどパーリ語で書かれ、
この言葉はお釈迦さまが2500年前に説法されたマガダ国の言語にルーツがあると言われています。
なので、この経典の言葉はそのままお釈迦さまも話されていたかもしれませんね



今回は日本テータワーダ仏教協会の
「パーリ仏典を読む」シリーズ「慈経」から、
とても読みやすく訳されているものをお借りして
ご紹介したいと思います






「慈経」(Metta Sutta)




(解脱という)目的をよくわきまえた人が、
静かな場所に行ってなすべきことがあります。
何事にもすぐれ、しっかりして、まっすぐでしなやかで、
人の言葉をよく聞き、柔和で、高慢でない人になるように。


足ることを知り、手が掛からず、
雑務少なく、簡素に暮らし、
諸々の感覚器官が落ち着いていて、賢明で、
裏表がなく、在家に執着しないように。


(智恵ある)識者達が批判するような、
どんな小さな過ちも犯さないように。
幸福で平安でありますように。
生きとし生けるものが幸せでありますように。


いかなる生命であろうともことごとく、
動き回っているものでも、動き回らないものでも、
長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、
微細なものでも、巨大なものでも、


見たことがあるものもないものも、
遠くに住むものでも、近くに住むものでも、
既に生まれているものも、
(卵など、これから)生まれようとしているものも、
生きとし生けるものが幸せでありますように。



どんな場合でも、ひとを欺いたり、
軽んじたりしてはいけません。
怒鳴ったり、腹を立てたり、
お互いにひとの苦しみを望んではいけません。



あたかも母が、たった一人の我が子を、
命がけで守るように、
そのように全ての生命に対しても、
無量の(慈しみの)心を育ててください。



慈しみの心を一切世間(すべての生命)に対して、
限りなく育ててください。
上に、下に、横(周り)に(棲むいかなる生命に対して)も、
わだかまりのない、怨みのない、敵意のない心を育ててください。



立っている時も、歩いている時も、
坐っている時も、あるいは横になっていても眠っていない限り、
この(慈悲の)念をしっかり保っていてください。
これが梵天(崇高なもの)の生き方であると言われています。



(このように実践する人は)邪見を乗り越え、
常に戒を保ち、正見を得て、
諸々の欲望に対する執着をなくし、
もう二度と母体に宿る(輪廻を繰り返す)ことはありません。










いかがでしたでしょうか


難しい部分もあったと思いますが
ものすごくパワフルなのにすごく優しいお経で、
読むだけでなんか力が湧き、ほっとします。



神様に祈るのではなく、
自分が神様のように慈しみに溢れた心を育てたらどうだろう、
とお釈迦さまは伝えたかったのかな、なんて考えてしまいます。



この心を保とうと努力するだけで
ものすごく心は明るく強く成長します
他の戒も結果として自動的に守れます。
(生命を殺さない、盗まない、うそをつかないなど)



私はまだまだ千里の道の三歩目あたりだと思いますが(笑)
日々、心の中に慈悲の心を保ちたいと思っています
そのためにこの言葉はしっかり覚えておきたいので
皆さまとこの場でシェアさせて頂きました
もし同じように心に残る方がいらしたら嬉しいです




いつも来て下さる皆さま、
本当にありがとうございます
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快・不快・中性

2011-06-23 07:31:21 | 仏教(的)


人間の感覚は、つきつめると
快・不快・中性の3つしかありません。



例えば「快」なら
好きなひとと一緒にいて、心からやすらいでいる時。
大きな仕事を終えて肩の荷がおりた時。
これから連休がはじまる!という時(笑)
基本的に心地よくて
この感覚がずっと続けばいいのに、と感じる時の心の状態です。


反対の「不快」は分かりやすいですね。
イライラしている時や嫉妬に苦しんでいる時、
フラれて落ち込んでいる時、
仕事の失敗でどよーんとしてる時や
家族とケンカしてしまった後の後悔など



そのどちらでもない時が「中性」です。


感覚が不在になる、ということはありえません。
五感が正常に働いている限り



今この文章を読んで下さっている皆さまは今、
「快」ですか?
「不快」ですか?
そのどちらでもない、「中性」ですか?



例えば今、満員電車の中にいてすごく混んでて暑くて、という方は「不快」かもしれませんね。
(逆に冷房が効きすぎてても

すんなりと席に座れて、気温もちょうどいいという場合は
特に何もイヤな感情も発生せず、「中性」かもしれません。
ずーーーっと立ちっぱなしでやっと座れた、という場合は「快」でしょう。




私たちの感覚はこのように
「快」「不快」「中性」を外側の状況から、
また内側の心から生まれた感情などから、
どちらも認識しつつ
めまぐるしいスピードで感じ続けています。
この中で一番多い感覚はどれか?と言えば
それは「中性」です




「中性」の扱い方を知らないと
すぐに「不快」に変わってしまいます。
例えばひとりの時間がぽっかりできた時、
最初は楽しく「快」で過ごしていても、次第に「中性」になり、
「なんかつまんないなあ」と「不快」に変化してしまう。
飲み会なんかもそうかもしれませんね(笑)
ごはんも適度に食べる分には「快」ですが、
食べ過ぎれば苦しくて「不快」でしょう。



でも逆に考えると
「中性」の感覚に集中して「快」に変えられれば、
1日の大半をHAPPYに過ごすことができる、ということ



「中性」の感覚は、実はとても幸せな状態なのです。
健康と同じ、失ってから気付くもの


頭が痛かったり気持ち悪かったり、
体調がすぐれないとすぐ「不快」を感じますね。
不調がなおると
「体のどこにも痛みがないって、なんて幸せなんだろう」って思います。
ちょうど去年の今頃の私は、体調が絶不調の時で
咳がとまらず息がしにくくて、本当につらかったです


気にかかることが何もない、
体もどこもいたくない、
心が平和で落ち着いた状態。
それは「中性」でもあり、
最高の「快」でもあります


ぜひ日常の中で、
「中性」の感覚に気付き、
それを「快」に今すぐ変えられないか?
試してみてくださいね
すべての瞬間を深い幸福感で包んじゃいましょう



いつも来て下さる皆さま、
今日も本当にありがとうございます
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平常心是道

2011-05-02 07:31:39 | 仏教(的)
 
平常心是道
(びょうじょうしんこれどう)


最近の私の座右の銘です


この言葉に関して、とてもいいお話を見つけたのでご紹介しますね
平成15年の京都市左京区にある法然院での講演会を書き起こしたものです。
引用元はこちら






 平常心是道 −心を耕すー



      茶道裏千家家元 千宗室







今日こちらへまいります道すがら、どんどん夜が深くなってまいりました。
皆さま方も、鹿ヶ谷(ししがたに)の通りのあたりから、一歩足を踏み入れられたとたんに、
夜とは静けさ、すなわち静寂の中にすべてを包み込む場だと思われたかもしれません。





 実は私も、何をお話ししようかと迷いながら参ったのですが、
その宵闇に入りましたとたん、そういった心配事がすーと消えてしまいました。

 それこそ、茶道の世界で申しますと、
最後に、自分の身体ひとつ入るのが精一杯な『にじり口』をくぐっていく、
そのことのような気がいたします。なぜあんな小さな、不自然な、
とってつけたようなものを作ったのでしょうか。
にじり口は人間の持っております母性へのあこがれ、胎内回帰という、その想いの現れです。



 大振りな門をくぐり、道中の身支度を新しく清潔なものに替え、中ぐらいの門をくぐる。
最後に、先ほど申しましたにじり口を経て、席へ入る。
 大、中、小、この三つの関門をくぐっていくにしたがい、
私どもは、自分が浮き世で身につけているさまざまな塵、芥を払うわけです。
仏教でいう三毒ですね。「貪欲(とんよく)、瞋恚(しんい)、愚痴(ぐち)」。
尽きることのない欲望、妬む心、不平不満。それを、削ぎ落としてこそ、
初めて私どもは、その席中に入ることができるのです。



 そして誰もが、そのように心を整えようと努力をして、
結局そうなしえない自分の愚かさに、
もう一度、また次の機会を求めるわけです。
「一期一会」という言葉は、この一回しかない、
という覚悟を持たす言葉ではありますが、それには「未完」という意味もあります。



 誰もがそこで達成感を抱き、その瞬間は満足したとしましても、
至らないことがたくさんあったことに気が付く。
そこでもう一度、という気持ちになります。



 大きい門、中くらいの門、小さな門。その三つの入り口は、
そういうことを私ども茶人に教えてくれています。




▲ 「自然との共生」という取り違えられた言葉




 いまここに来られている方は、皆さん森という存在に、
ある程度あこがれというか、共感をお持ちだと思います。
けれど、遠くから眺めて、森というものがいいものだと思っておられるのではなくて、
本当に森の中に入り、その清涼感に抱かれたなかで、森というものを、
その方なりに感じてみることが必要でしょう。



 私はここ二、三年休みが取れなくなりましたが、
それまでは夏に四、五日休みをいただいて、山に行きました。
写真が好きですからカメラを持ちまして、一人で山へ入ります。
でも、初めて山に入ったとき、森に入ったとき、なんでこんなに居心地が悪いんだと思いました。



 子供のころ、ウオルト・ディズニーのドキュメントやマンガをテレビで見ていました。
ディズニーの世界では、森の風景は人にとって居心地のいい場所、そのように見せてくれました。
愚かな私は、居心地のいい場所だと思って森に入り、
二回目、三回目くらいまでは、もう二度と入るかと思うくらい、沢にはまったり、
イバラにつかまったり、ウルシにかぶれたりいたしました。



 最後に入りましたときは、半日クマに追われました。
もちろん、ヒグマではなく、ツキノワグマですけれど。
一度は撮るのをあきらめて立ち去った場所ですが、
でもやはり光の加減が変わったらいいかもしれないと思い直して戻りました。
その美しい花の咲いている場所が見事に踏み荒らされていて、フンが落ちていました。



 私が動くうしろを足音がずっとついてきました。
沢に下りれば、沢を渡ってついてきます。幸いにして、古いカメラを使っておりますし、
三脚もかなり重い丈夫なものを持っておりましたので、
イザとなったらこれを使おうと思っていました。
しかし、イザとならないのに越したことはありません。
結局はイザとならない内に帰ってこれまして、よかったわけなんですけれど。



 森というのは、そのように入ってしまって体験しますと、
八割居心地の悪い場所だと思います。しかし二割はいい場所なんです。



 居心地悪いという思いが出てくるのは何故か。それは、自分の範疇にないものだからです。


 こういった集まりでもそうです。私たちが本当の意味で、
自分たちの居場所というものを、覚悟をもって定めていく上において、
こういった集まりを利用するのならば、居心地の悪さをまず認め、
その上で居心地の悪さに慣れるということが必要です。



 自然を保護する運動で、非常に耳障りな、といっては悪いんですが、耳にはやさしいけれども、
どうも取り間違えているんじゃないかと思う言葉があります。
それは「自然との共生」という言葉です。



 だけど、人間は、自然と共生するようなエライものかと。
そんなエライものじゃない。人間はここで生かしてもらっているのです。
空気を与えてもらっている。水を与えてもらっている。
太陽の光も、そして月明かりも、さまざまなものを自然から頂戴しているわけです。



 自然と共に生きるというのは、お互い、異なりを認め合いながら、
それでいて、何とかガマンするところはガマンしあいましょうよ、ということでしょう。
何を自然にガマンさせるのですか。自然を管理できるわけはないじゃありませんか。



 私は子供の時から両親が多忙で、ほとんど祖母に育てられておりました。
ですから、その祖母の生活習慣というものが、自分の中に今でもしっかりと根ざしております。



 朝起きると、何をするか。
 私の祖母は、起きるとまず最初に、坪庭に面したガラス戸を開けました。
新しい一日と出会うことに感謝していたのです。



 開けて、外の空気を入れる。空気を迎え入れる。
そうすると、「その日」がどんな日か分かる。
テレビをつけて、天気予報で気温が何度だとか、暑いとか、寒いとか言われなくても、
自分が「その日」と出会えるのです。私は今でも、それをやっています。



 朝、窓も開けずに、すぐにエアコンを入れる生活をしていたら、快適でしょう。
 しかし、快適だけど、その快適な道具は、
私たちと「その日」を遮断する役目をもしているのです。



 「自然との共生」という言葉を使うのだったら、どうしても使いたいのだったら、
まずありのままの「その日」を受け入れてみましょう。
「共に生きる」というのは、自分ではその一日の中で生かされているのだと、
そう思わなければならない言葉ではないでしょうか。


▲ 今ここにあることに喜びをもって生きる



 昔、中国に百丈山という高い山がありました。
そこに、懐海(えかい)禅師という、大変年を取った修行僧がおられて、
徳を積んでおられましたから、大勢の人が教えを乞うためにやって来ました。
百丈山に住んでおられたから、百丈和尚とも言います。
ある人が聞きました。



 「如何是奇特(いかなるか、これきとくのこと)」と。
すなわち、「奇跡とは一体どのようなことですか」ということです。



 その時、懐海禅師が答えた言葉が「独座大雄峰(どくざだいゆうほう)」です。
つまり、たった一人、ここにこうやって座らせていただいていること、
このことほど奇跡はないだろう、ということです。
この意味は、今日も今、こうやってここで自分が生きている、
このことほどの奇跡はないじゃないか、これほどすばらしいことはないじゃないか、
ということです。



 今日の私のテーマは「平常心是道」です。
この「平常心」と言いますのは、普通「へいじょうしん」と読みますが、
私どもの禅寺では、「びょうじょうしん」と申すことが多いようです。なんでしょう。



 大概の方は、「平常心」というのは、風の吹いていない、静かで穏やかで、
澄み切った湖面のような、水面のような気持ちだと思うのではないでしょうか。
それも一理ありますが、私は「平常心」というのは、そうならなくてはいけないと思って、
あがいている心。落ち着かないといけない、見栄を張ってはいけない、
素直にならないといけない、こんないろいろな何々しなければいけないといって
悩んでいる心もまた、「平常心」だと思います。




 すなわち、毎日毎日、私たちが生きている上で、出たり入ったり姿を変える、
そのあるがままの心が「平常心」ではないでしょうか。
「平常心是道」というこの言葉は、中国の古い古い時代、
南泉禅師のところに弟子入りを望んでいた趙州禅師が道を歩いていると、
たまたま向こうからその南泉禅師がやってこられた。そこで、当然教えを乞うた。



 「如何是道(いかなるか、これみち)」と。

 この意味は、開悟の道、悟りの道へはどのようにいくべきか、ということです。


 そうすると、「平常心是道」と答えられたのです。

 つまり、なんだかんだ言うよりも、「平常心」、自分の心を見てごらんということ。
遠く手の届かないところに悟りの真髄があるのではないと。
私たちは、望むものは何でも、遠く遠く自分の手の届かない、見えない、
そういうところにあると思いがちですが、実は、一番身近なおのれの、この心の中にあるのです。



 「平常心是道」という話(わ)に、
後の世に無門禅師という方が付けられた詠があります。それは、





   平常心是道

     春に百花あり
     秋に月あり
     夏に涼風あり
     冬に雪あり
     若し閑事(かんじ)の心頭に
     挂(かか)ること無くんば
     便(すなわ)ち是れ人間好時節




 というものです。もし、あれこれいらぬ思いを持たぬことができれば、
すなわちこれ人間好時節、毎日毎日、それが一番いい時を迎えているんだよ、ということです。

 春の百花は美しいし、秋の月も美しい。
夏はうっとうしい暑さではあるけれど、それだけ暑い夏だから、
他の季節では気が付かない程度のかすかな風でも、私たちは涼を感じて喜ぶのではないですか。
冬は寒い。外を見ると雪が降っている。では、雪景色を楽しみましょう。
今、目の前をおおう一面の銀世界、こんなすばらしいプレゼント、一体誰がくれますか。



 毎日毎日、私たちはそれこそ、自然の恵みに出会っているのです。
出会っているのに気が付かない。不平不満を言う。
それは、自分たちの理想にあった、理想にかなった「自然」というものを追い求めるからです。



 とにもかくにも、あるがままの一日を受け入れましょう。
そうすることで、私たちは自分の傲慢さを知ることになるのです。
それが、今日お話ししたかったことです。今日の集まりに相応しいかどうか分かりませんが、
私は、「自然」と面と向かっていくことを誰もが望むのであれば、
身近なところから始めたらどうかと思います。窓を開けること。
そういったことで、皆さま方が自然と向き合えば、「平常心」という本来の自分の心にある、
さまざまなものも素直に見られるようになります。



 仏教はどうして胸の前で、合掌するのですか。上でもなく、下でもなく。
それはこの胸の中に、生まれたときの尊い、自分の仏性をずっと持ち続けているからです。
だから、合掌は胸の前でするのです。
合掌するということ、それは自分のけがれのない素直な気持ちを確認するということです。
そして、そこに「平常心」を確認できれば、
私たちは大きな自然の中に抱かれているちっぽけな赤子のひとり一人だということを認識でき、
それを喜びとして感じられるようになると思います。

 ご静聴、ありがとうございました。







平常心是道。
いつも忘れずにいたい言葉です
禅の言葉は深い・・・


いつも来て下さる皆さま、
本当にありがとうございます
過去記事をさかのぼって読んでくださっている方が多いようで、
とても嬉しく思います
今日もかけがえのない一日になりますように
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☆スッタニパータより 「慈しみ」

2011-02-15 14:15:00 | 仏教(的)



143 究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。

144 足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少く、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪ることがない。

145 他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。

146 いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きいものでも、中ぐらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、

147 目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでもすでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。

148 何びとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。

149 あたかも、母が已が独り子を命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生れるものどもに対しても、無量の(慈しみの)意を起すべし。

150 また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。

151 立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥つつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。
この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。

152 諸々の邪まな見解にとらわけず、戒を保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。



(「ブッダのことばースッタニパータ」中村元訳・岩波文庫)

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思い込み

2011-02-05 07:31:29 | 仏教(的)
毎日いろんな思考が流れていく中で、
一番心をつらくさせる考えは
「この状況は変わらない」と思い込むことです


大好きな人と離れたとき、
誤解されたとき、
仕事仕事で心身ともに疲れきってしまったとき、
心が苦しくなるのは
「今のこの状況はずっと変わらない」と思うからです。


でもここですかさず「無常」の教えを思い出しましょう
どんなに頑張っても時間をとめることはできません。
今この瞬間も時間は流れ、状況はどんどん変わっています。
もちろんあなたの心も


大好きな人と別れても、
もしかしたら一年後には復縁しているかもしれません。
誤解をうけて仲違いをしたとしても、
少し時間をおいたら仲直りできるかもしれません。
仕事も、目の前の仕事を頑張っていたら希望の部署に移れるかもしれません。
またはやりたかった仕事に変えるチャンスなのかもしれません


今どんなに苦しくても、悲しくても、
必ず状況は変わっていきます
逆に言うなら、変わるという希望がない世界を生きていくことは本当に苦しいですよね


変化するからこそ、
自分にとって好ましくない状況も好転する可能性があり
逆に変化するからこそ、変わってほしくないものが変わることもあります。
例えば誰かを好きな気持ちが色あせてしまったり
若かった頃の肌のハリが衰えてきたり(笑)


でもこの流れに逆らうことができる人は
この世界にただの一人もいません
覚悟して、受けきるしかないんです。
もしこの無常の真理を心から受け入れることができれば、
何も怖いものはありません。
すべて起きても当たり前の出来事に変わります
もちろん「死」だけは受け入れることはとても難しいことだと思いますが、
それ以外のことなら、ちょっと視点を変えればどうってことないんです



視点を変えるためには、
冷静な心に戻れるようにまずは時間をおくこと。
その間は目の前にあることに集中するようにして、
興味のあることやまったく新しい世界にふれてみて、
頭のストレッチをしてみること
2〜3ヶ月たてば同じことに対しても全く違う考えが生まれてきますよ



今大変な時期にある方は
どうか心と体を大切になさってくださいね
そして「無常」を体感してください



いつも最後まで読んでくださる皆さま、
ありがとうございます
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入菩提行論:第6章

2011-01-29 07:31:28 | 仏教(的)

本日はシャーンディデーヴァという人が書かれた、
「入菩提行論」という仏典の一部をご紹介します
そのままだとちょっとかたいので、
こちらから自由訳を引用させて頂きました

ダライラマ14世が著書でもよく引用されるもので、
チベット仏教の大切な仏典のひとつです。

著者は8世紀頃の『大乗集菩薩論』を著した
シャーンティデーヴァと言われています。
全体では10章、計913の詩が書かれています。


今回ご紹介したいのは「怒り」について書かれている第6章
長いので、お時間のある時に読んでみて下さいね



自由訳 入菩提行論 第6章 安忍品




■怒りの破壊力を知る

1 怒り一つで長年の善行も将来の信頼も一瞬で破壊される。
2 怒り心頭に発したときにすでに打つ手はない。
3 一つの怒りだけで心が緊張し、苛立ち、安眠を妨げる。怒りを抱えたまま、心安らぐことはできない。
4 富と地位を与えてくれる人にでも一旦その人が怒れば殺しかねない。
5 怒りを抱えたままでは大切な人からも疎まれ、信頼を得ることができない。
6 一心に内なる敵「怒り」を打ち払うものは心の安らぎを得る。


■怒りの根源を知る

7 不公平な扱いを受けた時、期待を踏みにじられた時に怒りが心頭より発す。
怒りは苦悩と不満を燃料にして燃え広がり、相手と本人の心を同時に破壊する。
8 本当の敵は危害を加える者達ではなく、怒りに油を注ぐ執着と不満だ。
9 悪意から生じる憎悪は人を内側から食い殺し、人を利することが全くない。
10 対処の仕様があるなら思い煩うことはない。対処の仕様がないなら思い煩って何になる。
11 身内の福徳は喜ぶのに、同じ福徳が敵のものならなぜ喜べないのか。



■怒りの糧「苦難」への対応

12 苦難の要因は数限りがなく、安楽も多くの苦難の上に成り立っている。
この現実を前に、心よ、強くあれ。
13 人は誰でもそれぞれの苦難を抱えている。この苦難は私だけのものでないことを知り、乗越えて行こう。
14 小さな苦難を進んで受け入れることで大きな苦難も忍び易くなる。
15 耐え難い怒りもその構成要素の一つを取り除けば耐えれる怒りと変化する。
16 私はどんな境遇に落ちようとも平静さを守ろう。不満や苛立ちを抱いても事態は一層悪くなるのだから。
17 なぜ、私は世界が自分の思い通りになると考えてしまうのか。
18 苦難の原因を自分自身の内側に認めるならば、対応しきれない苦難などなくなる。



■苦の本質を知る

19 煩悩に流されると苦は隠され、煩悩に流されないと苦は現れてくる。
賢者は苦が増えることを平然と喜ぶ。
20 苦難に立ち向かうものは、苦難が増えた瞬間から減って行く。苦難を避ける者は、苦難が減った瞬間から増えて行く。
21 苦には慢心を退け、人を謙虚にする良い特性がある。また他者の苦しみを深く理解し、慈しみの心を生む特性もある。
22 机の角に体をぶつけても机には怒れない。相手が人間だとどうしてこんなに反応してしまうのか。
23 おいしいものを食べて喜べないのにどうして生きることを喜べようか。
24 大脳は心の一つの器官でしかない。大脳で心を制御しようとすれば苦難の原因となる。
25 一切の罪や過失は様々な要因から生じている。加害者だけに全ての責任を負わすのは理不尽ではないのか。
26 望むことが起こらないこと。望むことが起きること。この二つから憂いと苦難が生じる。起こるか起きないかは選択できないが、選択する我を消すならば憂いと苦難も消え去る。



■存在の真の姿を視る

27 相手がいなければ怒れない。自分がいなければ怒りもない。
28 怒りは受け止めなければ、湧き上がることもない。
29 これこそ正義だと握り締めていても、いつしかそれも色あせている。
30 懸命に守ろうとしている自我も長い視点で見るならば、他者の影響を受け知らぬ間に変化している。
31 私も相手も常に変化している。ある一瞬を捉えて相手に怒りを起すことは傲慢がなせる業ではないのか。
32 自分の外側に真理を求めても幻影を追いかけるにすぎない。
33 他人の中に怒りの原因を見るならば他人に翻弄されてその運命に服従するしかない。自分の中に怒りの原因を見るならば自分の心がけ次第で運命は好転して行く。



■危険回避の方法

34 気まぐれで向けられた悪意などヒョイとかわせば後に何も残さない。
35 加害者に悪意はなく、不注意や鈍感から行っている場合が多い。そのときはそれに気づいてもらえば十分だ。
36 煩悩に支配され、自分を愛するあまり、他者に危害を加え、自分を殺そうとする。
37 ただ変り行く自分も受け入れればいいだけだった。
38 苛立っているのは相手ではなく、自分自身の無知や愚かさではないのか。
39 既に加えられた危害は復讐しても一切減ることはない。
40 どしゃ降りの天気もいずれ晴れ渡るように荒れる心も澄み渡る日がくる。
41 本当の敵は相手が怒りを起した要因であって相手本人ではない。その要因の一つでも取り除くよう努める。
42 あらゆる行為には原因がある。今ここで加えられた危害もかつて私が誰かに行った行為に相違ない。
43 この私の姿は今まで積み上げてきた行為の結果なのだから、どんな境遇に落ちても平然と受け入れよう。
44 腫れ物に触れる人が悪いのか。腫れ物を作る自分が悪いのか。いずれにしても腫れ物がなければ痛むこともない。
45 自分の悪行を棚に上げて他人の悪行ばかり責めていないか。
46 私に悪行があるから目の前に悪人が現れる。
47 私がいなければ相手も私に怒ってはいない。少なくとも私にもその要因の一端はある。
48 反面教師は自分の身を害してまで悪しき見本を示してくれる掛替えのない存在ではないか。
49 反面教師の示してくれた悪しき見本で自分の苦難が避けれたのに、どうしてその恩人を疎むのか。
50 相手の悪行に対して慈しみの心で迎えるならば、悪を善に変えて相手と相手の未来の被害者を救うこともできる。
51 相手の愚かさに憎しみをもって迎えるならば自分の過去の悪行に勢いをつけさせることになる。



■侮辱や軽蔑への対処

52 大切な人の不注意で体を傷つけられても心は傷つかない。同様に本来は言葉で心は傷つかない。
煩悩が心を苦しめている。
53 いわれない屈辱や軽蔑など律した心を持ってピンと跳ね返しておけば良い。
54 いわれのない侮辱や軽蔑を受けても私の福徳は一切破壊されない。
55 過去の功績や利益にこだわってもそれはすでに過去のものだ。今の私のものではない。



■執着を弱める

56 少しの富を求めて邪な行為を行っては、乱れた心が根付いてしまう。
57 富と権力を追い求める道は競争と略奪の道となる。
58 徳と誠実を行う道は協調と思いやりの道となる。
59 どんなに富や権力を持った人でも、いつかは全てを捨てて旅立たなければならない。
60 富や権力は善行を行い福徳を重ねてきた結果だ。単に富や権力を欲望の対象とすれば、欲望に執着するだけになる。
61 人生の意義や目的が自分を深く苦しめるならばそれにどれだけの価値があるのか。
62 信頼を失うという理由で自分に向けられた中傷に反撃すると言うならば、他人に向けられた中傷はなぜ見逃すのか。
63 他人の不正を見て怒りをあらわにする人がいる。どうしてその思慮のなさに怒ることがないのか。大儀の旗の下に我執を隠そうとしている。




■大切なものを守る

64 聖なるものは傷つけられることはない。
65 大切な人が被害を受けて反撃にでれば一瞬の尊敬は得られても、無限の争いのもととなる。
66 大切な人が危害を受けた時、加害者が危害を加える要因の一つでも弱めるよう努める。
67 愚かさゆえに危害を加える者に愚かさをもって反撃しようとするのか。
68 加害者の姿は過去の私の姿となんら変わらない。
69 どんな正義があろうとも他人を中傷したり侮辱すれば、その報いは必ず自分に振り返ってくる。




■執着する愚かさ

70 こんなに執着や不満を抱えこんでしまっては、小さな種火にも逃げ回ることになる。
71 怒りは多すぎる執着、苦悩、高慢さを整理するように暗示してくれている。

72 望みが多ければ苦悩も多くなる。理想が高ければ怒りも激しくなる。何のための望みや理想なのか。
73 怒りはよき心を破壊してしまうのだから、この執着を少し切り離すのは利にかなっている。
74 自分で自分の苦しみを苦しんでも自分を利することはほとんどない。
75 進んで他人の苦しみを受け入れるならば自分を利することも多い。


■嫉妬を断つ

76 大切な人が称賛を受ければ喜びとなるように、敵が称賛を受けてもその徳をもって喜びとする。
77 善人は他人の福徳をもって自らの喜びとし、他人にその福徳を与える。 悪人は他人の悪徳をもって自らをさいなみ、他人にその悪徳を与える。
78 嫉妬はあろうことか他人の福徳をもって自らを苛み、他人にその悪徳を与える。
79 自分が称賛されると他人の幸福までも願い、他人が称賛されると自分の福徳までもさいなむ。
80 自分を害するだけなのに、いつの間にか他人が積んだ善を悲しんでいる。
81 嫉妬心は他人と自分を比べて優劣に執着する心が作り出し、他人の善を悪にかえる。
82 他人が幸せを得たことで、私の嫉妬に火をつけて、乱れた心に嵐を巻き起こす。
83 嫉妬心を追い出して、相手を称賛するならば、相手も自分も徳を積むことになる。
84 敵が私を称賛してくれるならは敵は敵でなくなる。
85 富や権力そのものは悪ではない。富や権力を盾に乱れた心を撒き散らせば、それが悪になる。
86 嫉妬という悪行を棚に上げて福徳を積んで富や権力を持ったものと張り合うつもりなのか。
87 いくら嫉妬しても相手の福徳は変化しないばかりか、自分の福徳を減らしてしまう。
88 嫉妬する相手の失敗や苦しみを喜んでいては獣以下になってしまう。
89 煩悩が仕掛ける釣針は鋭く巧妙で罠に落ちても気付かない。 嫉妬心はその罠に落ちていることを教える。



■名誉と称賛

90 自らの福徳を誇っても寿命は延びない。他人の尊敬を集めても功徳は満ちない。賞賛を浴びても、酒を浴びせられているのと変わらない。
91 名誉と称賛でほろ酔い気分となり、自惚れを引き起し、他人を軽んじ、またしても転落してしまう。
92 名誉や称賛に酔いしれて財産や命さえ投げ捨てようとする。泥酔しなければ命と誉め言葉の交換はできない。
93 名声や称賛を求め世間を掻き乱すは他人に愚心を注ぎこみ、善きものを破壊する。
94 賞賛はただ賞賛する人の清き心だ。私はそれを勝手に受け止めて自分を変質してしまう。
95 相手の期待が随分と低いものだったから誉めてくれたのではないのか。
96 相手の期待が随分と高いものだったから苦言となったのではないのか。
97 名誉や称賛によって私の本質は変わらない。ただほろ酔い気分が忘れられない。
98 称賛によりうぬぼれが生じ、中傷により欠点が乗越えられる。それなのに中傷する者に怒りを向けてしまう。
99 称賛を真正面で受け止めて、慢心をおこし、他人の嫉妬もかい、またも煩悩に引きずられて行く。
100 私をけなす者は将来の混乱や苦難を事前に察知して救いの手となってくれる。
101 苦言を言って苦難の入口から追い返してくれる人に感謝もせず、わき道を探して苦しみの中に落ちて行く。
102 足るを知る努力こそ苦難や執着を退ける最良で最短の道となる。
103 自分を許すことができれば他人を許すことは簡単なことだ。
104 危害を加える人がいて初めて障害を乗越える経験が積める。加害者を避ければ大切な経験も逃げて行く。
105 いままで受けてきた恩恵はどこでも誰にでもその恩が返せる。加害者はわざとその機会を作ってくれている。
106 ほとんどの者が無知や不注意で人を傷つける。無知や不注意など誰でも行っていることではないか。
107 理不尽な怒りなど滅多に出会えない。その時は心を磨く好機と捉えて歓迎する。
108 加害者の危害で苦難を乗越えたのだから、その益を最初に加害者に返すのが道理ではないのか。
109 乱れた心に乱れた心を注ぐより、律した心で思いやりを注ぐなら自然と結果は好転する。
110 外科医が病を治療するため身体に傷をつけるように、加害者は執着や苦難を治療するために危害を加える。
111 相手の些細な不注意が心に刺さるようでは、乱れた心が勢いよく回っている証拠となる。




■他人への敬意


112 私の健康も富も友情も他者の努力があって始めて実ったもの。私一人のものではない。
113 尊敬する人も危害をくわえる人も執着や苦悩を克服する機会を与えてくれる点では等しい。
114 共に喜んでくれる人がいれば喜びは倍増し、共に悲しんでくれる人がいれば悲しみは半減する。
115 人は何も持たず生まれてくる。今ある富も福徳も他者から授かったものだから他者に返すのが道理ではないか。

116 感謝する気持ちが喜びのもとになる。
117 他者を粗末に扱ったから他者からも粗末に扱われる。
118 毎日、他の生命をいただくことでわが身を保っている。
119 善行は他人に向けなければ善行にならない。
120 冷静な対処をしてみれば加害者もまた被害者の一人であることがよくわかる。
121 先人の努力でこの平和がもたらされたのに、私は怒りをおこしてそれを乱れた世に変える。
122 苦難を抱えこむ人は自然と周囲に苦難を撒き散らし、苦難をはね返す人は自然と周りを和ませる。
123 全身を煩悩の炎で焼かれているので喜びも福徳も宿らない。
124 心より悔い改めることをせずに、また同じあやまちを繰り返している。
125 私はどんな境遇に落ちようとも、自分だけの因果を背負い漸進して行こう。
126 相手を人間としてではなく、欲望の対象として見ていないか。
127 他者を癒すことが最大の癒しとなる。
128 この世につまらぬ者はいない。富や権力を慕う気持ちがつまらぬ者を作り出す。
129 もしも疑念や欲望をもって人に接するならば、それがどのような関係になるか予測できるというものだ。
130 あだなす者を傷つける者はいずれ大切な人をも傷つけることになる。
131 他者からただ与えられた福徳はもろいが、苦難を乗越えて獲得した福徳は堅固だ。
132 欲望の対象として得た福徳はもろいが、他者の益を考え獲得した福徳は堅固だ
133 他者の望みや苦難に注意を向け、それを助けるならば、喜びと福徳を同時に得る。
134 私の心にはどんな苦難でも克服し、至福へ至る無限の柔軟性が備わっている。












いかがでしたでしょうか?

私の中で何度もかみしめたい言葉がたくさんあり、
もしひとつでも皆さまの心に残るものがあれば嬉しいです


いつも来て下さる皆さま、
今日は出来る限りイライラしない一日にしましょうね
いつもありがとうございます
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好きなひと≠幸福

2011-01-17 07:31:40 | 仏教(的)

自分の人生に一番の幸せを感じさせてくれるのが好きなひとなら、
一番の悲しみをもたらすことができるのも、
また好きなひとです。


ニュースで見た、事故で亡くなってしまった人に
本気で泣くような悲しみは起こりませんが
自分の周りにいる家族や親友など、
自分に近ければ近い関係にある人ほど
大きな悲しみになります
死までいかなくても、
恋愛関係が終わるという経験は誰しもあると思います。
切なく、つらく、
どうしようもないのにどうにかしたい、
という執着の気持ちまで強くでてきたりしますよね。
これがひどくなればストーカー



強い怒りの感情が生まれれるのもやはり身近にいる人でしょう。
こういうことを考えていくと、
「好きなひとができたら、
あの人と付き合えたら、幸せになれる
という考えは当てはまらない場合もある、と言えそうです


お釈迦さまの言葉にも、
「渇愛(もっと欲しいという気持ち)から悲しみが生まれ、
渇愛から恐怖が生まれる。
渇愛から自由になったものに悲しみは存在しない」
というものがあるくらいです



だからこそ、
好きなひとに依存した幸せは危険です



この幸せはコインの表。
裏には見たくないけれど、悲しみもセットになっています。
いくら上手くいっている関係でも、
何十年と一緒に過ごしていても、
自分も相手もいつ死ぬかはわからない。
「死」という別れは避けられません。



恋愛には表も裏もあります。
幸せも、怒りも、悲しみも、せつなさも、全てセット
「幸せだけが欲しい」という願いは叶えられません


それが分かった上で、
自分も相手も足りないところを補い、
助け合い、一緒に生きていこうという気持ちでする恋愛は
きっと素晴らしい関係を築けると思います


まるごと引き受けるという男前の心で(笑)
楽しんで恋してくださいね


いつも来てくださる皆さま、
本当にありがとうございます
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五感をとじて

2011-01-02 07:31:02 | 仏教(的)

去年は仏教の真理である
「無常、苦、無我」についてたくさん学べた年でした


その結果何が変わったか?というと
心がさらに自由になれた気がします
知らず知らずについていた足かせがとれたような。
そして修行熱が過熱(笑)
愛情を突き詰めるとそうなるのかなあ。寂聴さんみたいに。
蝶々さんも今はすっかり巫女さんみたいですもんね(笑)
(新刊の「ひらきかた」は久々に読んだらとっても良かった!)



恋愛を通して
「自分の心の観察」というのは昔からやっていましたが、
本当に心の変化、飛びようはすごいなあと。
「あ、今こう思った、こう感じた」と追いつくので精一杯(笑)



心の中に一瞬だけ「あれしなきゃ」「これやってない」など
いろんな雑念が混ざってくるのも
捕まえられるようになりました
ほんのちらっとしか意識には上がらないんだけれど、
確かにバックグラウンドで動いている意識。
心って驚くほど雑念だらけです


今一番やっかいだと思っているのは
この五感の認識のはやさ。。
なんでこんなに情報をたくさん拾ってくるんだろうか、と


聴きたくない音も勝手に解析してしまうし(例えば電車の中の話し声)、
見たくないものも目が開いていれば見える。
そこから勝手にいろんな思考が生まれる。
しかもその認識自体が自分の思い込みが強く入って間違っていたりするので
最初からしてありのままに認識はできてない。


でも五感をひとつでも失うことは恐怖であり、
生きている限りお付き合いしていくものだから
上手にコントロールするしかないわけで、
それが仏道の修行なんですよねえ


ipodを聴きながら本を読む、とか昔はできていたけど
今はあんまりやらないです。
心がすごいスピードで
聴く→読む→聴く→読む・・・と意識を交互に向けて認識しているのが分かるので、
集中できない(笑)
ひとの心は一瞬の間、ひとつの場所にかいられないんですねえ



今年は五感を上手にとじて、
大切なことに集中して過ごしていきたいと思います



お正月も読みに来てくださっている皆さま、
本当にありがとうございます



※最後の文章は消去いたしました。
ここ数日はニュースを注視して見ていなかったもので、
不快に思われた方がいらしたら申し訳ありませんでした。
指摘してくださった方、ありがとうございます。

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徳を積む

2010-12-15 07:31:21 | 仏教(的)
「徳を積む」っていう表現、よく聞きますよね。
周りにものすごく信頼されていたり、
社会に貢献している人を「徳が高い人」だと言ったりする



私たちの心は何を見ても聞いても行動しても、
それがカルマ(業)となり、
次の動作に影響を与えます。
カルマには悪いカルマも、もちろん良いカルマもあります。
例えばイライラして時間を過ごしてしまったら、
その分さらにイライラしやすい性格になりますし
誰かに対し優しい心で接したら、
その分自分がツラい時にその人が支えてくれたりするでしょう
つまり与えたものが返ってくるということですね。



今まで自分の心をあまりコントロールせず、
感情のままにイヤなことも全て周りに吐き出してきた、
というような人は悪いカルマを溜めこんでしまっているかもしれません
もちろんそれ以上に良いこともしてきたというなら、
相殺されているかもしれません。
カルマは目には見えないけれど、
相手の雰囲気で少しは感じ取れます
ちょっと近づきたくない人っていますよね(笑)

つまり魅力を感じる人は良いカルマをつんでいる可能性が高い、
ということは言えそうです



では徳を積むにはどうしたらよいのか?
世間一般で良いとされていることはもちろんですが、
大事なのはその行動をするときの「心」です。



相手の人に感謝されたがったり、
ほめられたいという気持ちが強いまま、
何か良いことをしても悪いカルマの解消にはならないのです


相手を助けたことで、自分が徳を積めたことに感謝する心が大事なんですね


知識が必要な人には知識を、
お金が必要な人にはお金を、(もちろんできる範囲で)
つらい思いをしている人には優しい言葉と一緒に過ごす時間を、
弱い立場にいる人には具体的な助けの手を


特に弱い立場にいる人を助ける時には
相手を心苦しくさせてはいけません
相手に申し訳ない、という気持ちを感じさせないように、
「自分がやりたくてしていることですから、
ぜひさせてください!!」くらいの気持ちで
力を貸すことが、結果として自分の心の浄化にもなります


環境運動、平和運動、貧困の格差をなくす運動・・・
こういう「誰もが認める良いこと」をされている方ほど
「そういうことをしている自分は素晴らしい」というような
気持ちになりやすく、
これは仏教では悪いカルマになります
いわゆる自己陶酔。


もちろん自分で自分に自信をつけることは大事ですが、
その一方でプライドが高くなりすぎたら
結果として周りの方からもうとまれるようになってしまうでしょう
これはつまり悪いカルマが自分に返ってきたということですね
あくまで「自分が好きで、させて頂いてる」という気持ちを忘れないようにしたいですね



今日はぜひ出逢う方を助けてあげて
徳を積んじゃってくださいね(笑)


いつも来てくださる皆さま、
今日も本当にありがとうございます


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すき・きらいに振り回されない

2010-12-09 07:31:28 | 仏教(的)

私たちは何を聞いても、見ても、ふれても
何かしらの感情が生まれてしまいます。



でもじゃあ「何で好きなの?」
「きらいなの?」という質問にはなかなかスパッと答えられないのではないでしょうか



「あの人の声が、見た目が好き」  ・・・なぜ?



なんでか分からないけれど
他の人は「ふつうじゃない?」と思っていても
自分には魅力的に感じるんですよね。



私も観ちゃんのきれいな目や
サラサラの髪、においが大好き。
「なんで?」って言われても答えようがない(笑)
キライになれ!って言われてもなれません。



逆にきらいな場合はまだ理由を見つけやすいかもしれません。
「自分のイヤな部分」を見せつけられているような気がして苦手に感じる人がいたり、
自分の価値観にはないことをされたりすると
「この人いや!」って思うことがあるかもしれません。



でも例えば、
「なんでにんじんきらいなの?」って言われたら
答えにつまってしまわないでしょうか(笑)
全人類が食べられないわけではないのに、なぜ?と言われたら
「野菜なのに甘いのがいや」
「味がいや」
という理由の「なぜ?」までは答えられませんよね。
自分には美味しいと感じられないから好きじゃない、ということですよね。



すき、きらい。
その理由は自分でも分からなかったり
コントロールしにくい部分です。


私もだいぶ「すき、きらい」の判断を薄めてきましたがまだまだ
反射神経のように
「これ好き!」「これは苦手・・・」とでてきてしまいます。
すき、きらいに理性、理屈はありません。
自分には分からない過去の業が原因なのかもしれません。


だからこそ「すき、きらい」を乗り越えた価値観を大事にしないといけないと思います。


例えば仕事。
生きていくためには仕事をしてお金を稼がないければいけませんよね。
これは本質的には「すき、きらい」と判断する問題ではないはず
「生きるか死ぬか」なんです
生命が一番避けたいことは飢えることです。


「楽しくて好きな仕事をしたい」と希望をあまりに強く持ちすぎると
自分がどんどんつらくなってしまいます。


「どうやったらこの仕事を楽しめるか」という視点は大事だと思いますが
あまりにすき・きらいを持ち込みすぎると
叶わなかったとき、そして今の仕事をこなすこと自体が苦痛になってしまいます



淡々と今の自分ができる仕事をやる。
それで十分なんだと思います



恋愛は「すき・きらい」なしには始まりませんから難しいことですが、
何事も極度に持ち込むのはアブナイ。
恋愛の「好き」にはどうしても自己愛が入ります。
自分に全く気がない、冷たい人を純粋に思い続けることは難しい。
逆に思いが強すぎるとストーカーや大きな事件にまで発展することもあるのが愛です。
愛は憎しみと表裏一体
仏教では愛ではなく慈悲をすすめます。
ただ純粋に、全ての生命の幸せを願い、苦しみが減るように祈る気持ち。


きらい(いや)という気持ちに振り回されすぎるのも危険ですね。
できるだけ関わらない、
相手やその物事の良い面だけに集中するトレーニングが必要ですね



いずれにせよ「すき・きらい」は心が勝手に
今までの経験(自分でも覚えていないような小さいころの出来事なども含む)や
反応を繰り返しているだけで、その場限りのもの。
もちろん簡単に心は変わってしまいますから
きらいなものがすきになることもあるし
すきなひとをきらいになることもある。
執着する必要はありません



「すき・きらい」ではなく
「生きていくのに必要か、そうでないか」という
シンプルなものさしを持っていたいですね



いつも来て下さる皆さま、
今日も本当にありがとうございます






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