小説『雪花』全章

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小説『雪花』第一章-三~五節

2017-05-19 06:47:31 | Weblog


    三
 
翌朝、二人はいつもの時間に起きた。父は、いつの間にか朝食の用意していた――豆乳、油(ユゥ)条(ティアオ)(あげパン)、粥。父が厳吾弄の飲食店で買って来た品々である。
 三人とも椅子に座っていた。凡雪は腹の底から冷えたようで、温かい豆乳を一口飲んだら、胃がぎゅっと絞めつけられて、すぐ重く感じた。
「夕べ、馬(マ)叔(ソ)叔(ソ)(おじさん)に会いに行ったんだ。母さんの世話を頼んだ。だけど、『今度の〝一掃″はかなり厳しいのと、新任の公安局長の顔を知らないので、余計な行動をすると、火に油を注(そそ)ぐのと同じ』と馬叔叔に忠告されたよ」
 父は落ち着いた口調で言ったあと、油条を豆乳につけて口にした。二人は耳を澄ませて黙って食べていた。
 馬叔叔は父の親友で、市政府機関に勤め、かなりの権力者だった。
「お父さん、もう一度、どうか馬叔叔に頼んで、お母さんを助けて」と凡雪は心で叫んだ。でも、声には出なかった。今の情勢の〝一掃″という厳しさが、よく凡雪も分かっている。
 さらに翌日、父の兄と妹が様子を見に来た。
 久しぶりに会った伯父は、人民服を着ていて、厚い胸には、釦(ぼたん)が弾(はじ)けそうに張っている。いつの間にか逞(たくま)しい精悍(せいかん)な肉付きに変わっていた伯父が、入るなり、途端に言い放った。
「まったく、なんて母親だ!」
 一瞬ぴーんと張り詰めた空気が流れた。
 叔母がすぐ「二人は気の毒にね」と柔らかい顔を見せる。叔母は心得て言っているのだろうが、凡雪と凡花の両姉妹には、どうにも悍(おぞ)ましい気持だった。
       
      四

 一週間後の火曜日に母の居場所を知った凡雪は、当日の夕方、母の着替えを持って阊(ツアン)門(メン)路(ロー)にある《蘇州金(チン)阊(ツアン)勾留所》へ届けに行った。
 阊門路には、疎(まば)らに連なる白樺(しらかば)林が、茜色(あかねいろ)に染まりかけた夕空に影を落としている。
 視線を凝らして、白樺の隙に点々と不気味な鉛色(なまりいろ)の光が見えた凡雪は、母の無事に祈りながら、足を急(せ)かして前へ進めた。
 勾留所に近付くと、門衛外に順番を待つ者同士の列があった。凡雪は列の後ろに少し離れ、立っていた。
 金阊勾留所は、平な建物だった。剝(は)げかけた黒塗(ぬ)りの門が固く閉(と)されている。灰色の煉瓦(れんが)で築かれた城壁(じょうへき)の右側の壁面に、スローガンがへばりつくように書かれていた。
 ――坦白従寛、抗拒従厳(自白すれば寛大に報い、拒めば重く罰せよ)
 もう既に辺り一面が、鬱蒼(うっそう)とした薄暮(はくぼ)の中に包まれていた。
 門の左側に立っていた一人の警察官の顎が、ずっと、上に向けたままの状態で固まっているように見えた。だが、よくよく観察すると、瞼が四周をじろじろと監視している。
 時折ひゅうと風が吹いた。窪(くぼ)んだコンクリートの地面に独特の臭(にお)いを感じた凡雪は、血潮が噴き出しているような錯覚を覚えた。
「今〝一掃″、この荒(すさ)んだ情勢ってね。息子もバカよ。人を、たった一発、殴っただけで、逮捕されたのよ」
 列の中で、一人の女性の嗄(しゃが)れた声が聞えた。凡雪は無言のまま俯(うつむ)いて、順番が来るのを待っていた。
 突然、腹(おなか)に響く銃の音がした――。
 バーン! またバーン! と響き、あとは、静寂(せいじゃく)が続いた……。
 阊門城外に処刑場があるとは知っていた。だが、生々しい銃声を初めて聞かされた凡雪にとっては、臓腑(ぞうふ)を抉られたような衝撃(しょうげき)だった。
 やがて凡雪の番になり、門衛室に足を入れた。
「李の、家族ですが」と、凡雪は訥(とつ)々(とつ)と伝えた。
「ん~ん、李亜萍。包(パオ)(着替え)は、こっちで渡す。面会、不可」
 男の警察官は、鼠のような蒼(あお)い眼で凡雪を見つめ、軽侮(けいぶ)の色を浮かべて伝えた。
 幻聴かと思ったが、言葉が室に何度も行(ゆ)き来(き)した。聞えてきた凡雪は、「母(ママ)……」と、声を漏らした。
 門衛室を出た凡雪は、一息を吐き、上を見遣った。鬱蒼(うっそう)たる雲が鼠の爪に見え、伸びた爪で耳の下を搔(か)いているかのようにも見えた。
「どうして、面会がダメなの?」
 膨らんだ不安に食われた凡雪は、俯いて、理由を憶測した。
 すると、後から、誰かの声が滑るのような速さで、流れてきた。
 ――あんたたちが、口裏を合わせるのが怖いからさー! 
 俯いたままの凡雪は、一瞬、窪んだコンクリートの地面が、鼠の折れて欠けた爪のような鋭利な形に見えた。
 息を潜めた凡雪は、無意識に自分の拳(こぶし)を握って、足を進めた。
      
       五

 翌朝、朝食を終え、父が出勤をしたあと、凡雪は「学校で、なんか言われた?」と凡花に訊いてみた。
「ううん~、何も変わらないよ。学校に行くわ」
 凡花は、いつもの張りのある晴朗(せいろう)な声だった。でも、どこか沈み込んだ感じが尾を引いていた。凡花は笑みを浮かべて、凡雪の長い髪を優しく撫(な)でて、家を出ていった。
 妹の笑顔が見られて、凡雪は少しホッとした。でも凡花は先月、大学に上がったばかり。母の事件で、今後も多くの噂が出てくると思うと、凡雪は、眉を顰(ひそ)めて、不安を募(つの)らせた。
 朝八時、出掛けた凡雪は、自転車で厳吾弄を出て陽(ヤン)明街(ミンジエ)を走った。二十分ぐらい進むと、大衆文化宮が見えてきた。
 大きな建物で、映画館を始め、卓球・ダンス倶楽部があり、一番奥には図書室があった。
 凡雪は自転車から降りて、壁のガラスに映った自分の顔を眺めた――相当ほっそり窶(やつ)れた顔に驚いた。
 硬く目を開けた凡雪は、瞳(ひとみ)が深い漆黒だけを捉(とら)えた。蒼白い闇でも見つめているように感じた凡雪は、一瞬、闇に墜落していくような気分を味わった。
 凡雪は目を伏せて、ゆっくりと、息を繰り返した。凡雪は再び視線を上げ、前に進んだ。
 大衆文化宮に入ろうとすると、守衛室から四十年配の当番男が出て来た。
「あの……本当なのかい、お母さんが逮捕されたって?」
 男の声は少し嗤(わら)っている。ぼさぼさの髪、よれよれな上着は短くて、大きな胴体に合っていなかった。平な顔立ちに無精(ぶしょう)髭(ひげ)で、どことなく屈託(くったく)が感じられる。
 凡雪は「誰から聞いたの?」と聞き返したが、否応なしに声が震えた。
「昨日、誰か分からないけど、『凡雪(ファンシゥエ)の母親が逮捕された』って匿名の電話があったよ」
 目のぎょろりとした男は、ハッとした表情になり、凡雪をじっと見詰めた。
「噂は、すぐ宮内に広がる」と直感した凡雪は、目を見開き、口も利けないほど、恐怖感を覚えた。しきりに深呼吸して、凍りついた手で力強く自転車を握り締めた。
 どうにか恐怖が退いていくように感じられ、凡雪は男に挨拶もせず中へ突き進んだ。
 少し気が収まった。心を落ち着かせるために、凡雪は自転車をゆっくり前へ進めた。
 まず映画館、ダンス・卓球倶楽部を進んだところで、ふとガラスを透かした側に誰かがいて、凡雪を注視していることに気づいた。喉元に、じわじわと苦味が染みてきた。
 急ぎ足になった凡雪が図書室前に着くと、女室員の劉(リュウ)小(ショウ)芬(フン)が中から飛びついてきた。
 劉小芬は、膨(ふっ)くらした頬が、蒼ざめているせいか、薄い雀斑(そばかす)が浮いていた。ぱりっとした青色の服を着て、首から胸元に流れている半透明な石のネックレスは、ごつい感じだ。
「ねぇ、凡さん、昨日……」
 劉小芬の神妙な表情を見た凡雪は、眉を顰(ひそ)めた。
「もう知ってるわ!」と言いかけた凡雪は、自転車を止め、すたすたと図書室に入った。
 分類した書名をカードに記入する凡雪は、ひたすら職務に集中し、劉小芬との口数も少なかった。しかし、昼の食堂に行ったら、噂で皆に、じろじろと見られた。
 その日、凡雪の背中にひんやりした汗が何度も滲んだ。
 午後五時退勤の時、劉小芬は一日中ずっと無駄話もしなかった凡雪に「また明日(あした)ね」と声を掛けて、先に出て行った。
 三十分後、帰りがけに凡雪は、ふと、交際相手の陳(チン)晓(ショウ)民(ミン)の現状が、気に懸かった。
 この一週間、息抜くこともなかったが、それにしても、陳から一度も連絡がなかった理由は、何故? 凡雪は、心にぽっかと穴が空いたようで、寂しさがぐっと込み上がった。

つづく
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