小説『雪花』全章

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小説『雪花』第五章-4節

2017-07-08 11:06:48 | Weblog
      四
 退勤の時間になり、凡雪は自分の机に戻った。劉が静かに寄って来て小さな声を掛けた。
「今日、食堂で聞いた話なんだけど、陳が、賞を取ったらしいよ」
 劉の瞳の奥に、記憶の光が流れてくる光景のが見えた――ような錯覚を覚えた。
 一瞬、凡雪は過去へ強引に連れ戻されそうに感じて、急いで話題を変えた。
「日本と中国って、時差は一時間だよね」
 すると、劉が鼻で笑った。
「時差? 凡さんー、最近ちょっと、日本のドラマを見過ぎじゃないの?」と、凡雪の肩を、ぽんと叩いて、踵を返した。
 床面で微かに足音を立てた劉の姿を見送った凡雪は息をゆっくり吸って、腕時計を見遣った。何故か、室内は針が秒を刻む音が聴こえるほど静かだった。
 凡雪は、もう一度、大きく深呼吸してから、抽斗にしまっていた案内の葉書を出した。静かに葉書を見て、凡雪は懐かしくなり、「おめでとう!」と祝福した。
 いつの間にか雨が止み、夕暮れの空の光が桃色になり、ぼんやりと地面を染めていた。
 湿り気のある空間の中で、凡雪は自転車を押して、ゆっくりと前へ進んた。
 雨に濡れた木の葉の匂いや、土の匂いが、段々と肺の中に沁み込んでくる心地よさを感じた凡雪は、足を速めた。まるで思い切って新たな人生を生み出そうとしているかのように、他人の目には映るかもしれない。
 凡雪は宮に出て、顔を前に向けた。すると、一つの光景が飛び込むように視界に入ってきた。ガラス壁の前に立っていた人は、仁だった。右側に一台の自転車が止まっていた。
 恥ずかしくなって、凡雪は顔を下に俯け、立ち止った。
 膝が少し後ろに揺れる感じがして、凡雪は手で自転車を強く握って押した。
 すると、「雪さん! お久しぶり」という爽やかな声が、すーっと、耳の底に入ってきた。
 凡雪は、そっと息を漏らして、顔を上げた。視界に、仁の清々しい笑顔が一杯に映っていた。透明な瞳に、世界中の光を吸い込んで輝きを放っているように見えた。
 一瞬の間に、様々な気持ちが一気に解き放たれたように感じた凡雪は、口元を緩めた。
 仁は、さっと近づいてきて、自信に満ちた力強い視線で凡雪を見た。その時、街を歩く若者たちが一斉に仁を振り返った。それでも仁は真っ直ぐな視線を凡雪だけに降り注いだ。
「今日、雪さんに会えて、良かった!」
 仁は心から嬉しそうに語り掛け、笑顔が安堵な表情に変わった。
 凡雪は笑みを仁に返し、精一杯の力で「お久しぶりです」と挨拶した。
 すると、仁の目に、一筋の淡い光が流れてくる様子が見えた。
「僕は明日、仕事のために、一度、日本に行くことになったんですよ。二週間だけど」
 予定を伝えた仁は、静かに凡雪を見つめた。知的な額の下にある澄んだ瞳に、優しい光が見えた。
 凡雪は少し躊躇って、視線を路面に逸らした。人民路中を往来するバスや、トゥクトゥクと音のする三輪車が埋め尽くし、騒然としていた。
 中年の人に混じって歩く若い人々の輝きのある目と、笑った顔が凡雪の目に留まると、何故か、人民路が人間味ある街だと、初めて知ったように親しみを感じられた。
 街の喧騒や亜細亜(あじあ)的な強い生命力を貰ったように感じた凡雪は、同時に、心臓が躍動的に打っている高揚感を実感した。
 凡雪は、再び視線を仁に向け、そっと訊き返した。
「今晩、一緒に、食事しませんか」
 即座に仁は、目を輝かせて「日本の料理でも、良いですか?」と訊いた。
 凡雪は笑みを返し、小さく頷いた。
つづく

 
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