小説『雪花』全章

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小説『雪花』第三章-11節

2017-06-20 07:25:41 | Weblog

   十一
翌朝、凡雪は、爽やかな気分で目醒めた。外では、雀が軽やかな声で鳴いていた。
 隣に凡花はいない。それでも肌の匂いが残っており、安心させてくれる薄い匂いだった。
 厳吾弄の飲食店で朝食を終えた凡雪は、自転車に乗り、文化宮に向かった。
 冬の朝日が、広い陽(ヤン)明街(ミンジエ)の地面を照らしつけていた。凡雪は、ゆっくりと走りながら、街を眺めた。街は、あちこちの店が色彩も豊かに装飾し、華麗さが観られた。集う人たちは活気が漲り、その勢いが肌に迫ってきた。
「あと三日で春節。でも、我が家は喪の中……」
 凡雪は周りを眺め、間近に見えた《刺繍工芸品店》に、目が吸い寄せられた。
 店門の両側に、紅い灯籠(デエンロン)(紙張りの提灯)が掛かっており、門の上には、新年を言祝ぐ、春節に相応しい対聯(デウイレン)(紙に書いた対句)が貼り付けられていた。
 万古青常在(万古(ばんこ)青が常に在り)去冬春己来を去りて春己(はるすで)に来て)
 人に強い意志を与えてくれる、強靭な言葉のように胸を打った。
 凡雪は通りながら、対句の一遍を詠んだ。身体の温度が上がってきたような気がした。
 交差点を通って左に曲がって行くと、微かな匂いが鼻孔に入ってきた。畑から掘り起こしてきたばかりの、瑞々しい新鮮な野菜の匂いだった。
 凡雪が街の向こうに見やると、《小(ショウ)菜(サイ)場(ツアン)》(野菜市場)が見えた。
 城外の農民たちが毎朝、自分の畑の野菜を荷車で運んできて、小菜場で売り出している馴染みの光景が、そこに繰り広げられていた。
「確かに、蘇州の人たちは一年中、いつでも新鮮な野菜を頂ける」
 凡雪は呟き、滋味豊かな野菜を想像した。
 小さな満足を得たように感じながら、凡雪は人民路の南方向へ向って走り続けた。
 上空の光りは、あらゆる路地の上に平等に君臨しており、両側には緑青の梧(ウー)桐(トン)樹(スウ)(青桐)が街路樹として延々と植えられていた。
 十分ぐらい進むと、大衆文化宮が見え、凡雪は自転車から降りて、見上げた。
 澄んだ空色を背景に、壁のガラスが朝日を受けて、眩しく見えた。
 大衆文化宮の門を潜った凡雪は、守衛室の当番の男に頭を下げて挨拶した。男は中に留まったまま、凡雪をしげしげと見つめた。特に、これといって怪しい動きは見えなかった。
 凡雪は俯いて、風のない路地に早足を軽やかに進めた。
 図書室に着き、頭を上げると、空は群青で、屋根の尖る部分に、茶色の朱を塗ったように見えた。両側の門にも、紅い灯龍が飾られており、日に当たって密に光っていた。凡雪が戻って帰るのを待ち、喜んでくれるように思われた。
 凡雪は室に入り、四方を見回した。中は、清浄な気が満ちているように感じられ、天井まで届く書架に、本がすべて順番通りに、びっしりと並んでいた。夥(おびただ)しい数の背表紙に、翻訳された外国の本が増えたようにも見えた。
 凡雪は俯瞰(ふかん)した角度で、本をじっと見回した。
『安(アン)娜(ナ)・卡(カ)列(レー)尼(二)娜(ナ)』、『哈(ハ)姆(ム)雷(レッ)特(ト)』、『源氏物語』、『斜陽』……。
「すべての知識は、本に凝縮されている」と凡雪は囁き読み上げながら、歴代著者の息遣いが間近に感じられたように、背筋をすっと伸ばした。
 頁を捲っていく質感を脳裏で想像しながら視線を『源氏物語』に留めた凡雪は、つと手を上げて、第一巻を取り出した。その時、後ろから室員の劉(リュウ)小(ショウ)芬(フン)の声が聴こえきた。
「凡さん、お久しぶり。お母さんが、亡くなられたんだね」
 凡雪は「うん」と返事して、本を元の場所に戻した。改めて劉を見つめ、少し驚いた。
 何故か、この一週間の間で、劉が別人のように変身していた。
 顔にファンデーションを塗ったのだろう、頬骨に散らばった雀斑(そばかす)が、全て消えていた。
 唇に口紅も塗られて、艶めいていた。薄紅のセーターに、シルバーの首飾りを合わせ、お洒落に見えた。
 八十年代後半から、中国は大きく変わり、経済発展と当時に、知識学術も重視するようになった。海外からは、著名な書籍や、映画、テレビドラマ、ファッション、化粧品などが、大陸に続々と取り入れられた。特に、若い女性が美を求めるようになり、ファッションの変化も見られた。凡雪は口許を緩めて、劉の姿を眺めた。
「好(ハオ)漂(ピアオ)亮(リヤン)啊(ア)!」(綺麗だわ)
 劉は笑みを込上げて「今晩、約(デー)会(ト)なの」と告げた。
 凡雪は「男朋友ができたの?」と潜めた声で訊いてみた。頬が高潮した劉は、俯き加減に笑って、頷いた。
 東側の机の前に立った凡雪は、横の窓を開き、空を眺めた。藍色の雲が清々しい薄絹のように見え、凡雪は眉を開いた。
 その時、劉が、両手でガラスコップを大事そうに抱えて、ゆっくりと寄って来た。
「お茶、どうぞ。今日は、碧(ピー)螺(ロウ)春(ツウン)だよ! 特別優待(サービス)ね」
 碧螺春は千年以上の歴史を持ち、中国の伝統的な名茶と称賛されている。
 蘇州市太湖にある洞庭(ドンティン)山(サン)の辺りで栽培されている。茶葉が柔らかく細いので、炒ると、茶筋が精妙にくるくると、螺(ら)のように捲(まく)れるのが特徴だ。
 かつて清の康(カン)熙(シー)皇帝が太湖を行幸(みゆき)した時に碧螺春を喫し、賛嘆の名言が残されたそうだ。
「翠碧誘人(青緑色は人を誘い込む)清香幽雅(清々しい香りが幽雅である)巻曲成螺(ロウ)(タニシのように捲れている)
 凡雪は、コップの中を見つめた。
 捲れた緑茶が、お湯の中で戯(たわむ)れているように、滾りながら、大きく広がっていた。
 凡雪は、コップを手に取って、匂いを嗅いだ。碧螺春の香りが、ふわりと鼻を抜け、頭の中まで爽快になっていくようだった。
つづく
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