小説『雪花』全章

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小説『雪花』第五章-8節

2017-07-17 12:03:12 | Weblog
        八

  凡雪と仁は自転車で、竹輝路をゆっくりと走り始めた。街の辺りの商店は、ほとんどシャッターが下りており、歩いている人の多くはカップルの若者だった。
 少し進むと、向こう側に露店が見えた。揺ら揺らした服を着た女や男たちが、甘い団子や肉饅などを売っている。地元の人に観光客が混じって並んでいた。
 突然、右側に白梅の樹が見えた。花は満開に咲いていた。
 白梅の優雅な香が漂って来ると、仁は「いい香!」と笑顔を凡雪に向けた。
 凡雪には、仁の笑顔が心を洗うほど爽やかに見えた。凡雪は、美しい精神の泉を見つけたように、束の間の満足感を味わった。
 間もなく、人民路に入った。空気が急に変わって、冷えを感じた。
 凡雪は拡がる空を見上げた。紺青色の雲に月の表面が青白く凍りつくような光が見えた。小さな星たちも鈍く光り、まるで世界が黒々とした闇に呑み込まれようとしているようだ。
 風が凡雪の頬を強く叩いた。再び視線を前に向けた凡雪は、ふと記憶のある、一人の視線に出会った。陳の姿だった。
 同じように自転車に乗った陳は、微(かす)かな笑みで凡雪を見ていた。陳の頬は、かなり痩けており、瞳には、あの頃と同じ輝きは宿っていなかった。
 凡雪は視線を逸らした。脳裏に、すぐ寡黙に自転車を走り続ける陳の寂しそうな表情を想像した。陳は黙って、凡雪の傍らを走り抜けていった。
 一瞬、明るかった未来に不意に黒雲が掛ったような不快感を覚えた。
 凡雪は視線を地面に向けた。すると、地面が割れていて、突き当たりに陳が立っているように見えた。その時、凡雪は、身体から力が抜けて落ち行く虚脱感を覚えた。
「雪さん、寒くないですか?」と仁の囁くような声が聴こえてきた。
 仁の声が柔らかくて、春の温もりのように凡雪は感じた。
 凡雪は、一旦は抜け出た力が、一瞬にして強く戻ってきたのを自覚した。
 仁の優しさが、凡雪に愛の本質を気づかせてくれたような気がした。
 凡雪は「寒くないわ」と、きっぱりとした声で返答した。
 凡雪の住む公寓の前に着いた。淡い月光の下で、仁の輝いた真っ直ぐな視線が、凡雪の瞳を貫くように感じられた。
 目の前の仁は、瞳も鼻も口元も、それぞれが独立した存在感を放って、見事なバランスを保っている風に見えた。仁をじっと見詰める凡雪は、今、自分が新しい世界と向き合っている事実になった気がした。
 その時、音の神が自然界の音を完全に消し去り、互いの心臓の鼓動の音だけが伝わってくるようだった。
「明日、日本に行ってくるよ」と仁は静かな声で、凡雪に話し掛けた。
 言葉が途切れた途端、突然、空の風が奔っていくような、激しい音が聴こえてきた。
 まるで海と大陸を、二つ引き裂いていくような強い響きだった。一瞬、凡雪は呂律も回らず、足元も覚束くなかった。
 咄嗟に空を見上げた凡雪は、目を瞠った。暗い空に、銀砂を撒き散らしたような星屑が、思いがけない近さに輝いていた。
 同時に、柳の繁った葉が、風でふぅ、ふぅ、ふぅと笑っているような声も聴こえてきた。
 我に返って、ゆっくりと表情を整えた凡雪は、再び仁に向かって「今日は、ご馳走さまでした」とお礼を伝えた。仁は口許を緩め、頭を横に軽く振った。
 仁の瞳には、揺るぎない強固な光が燃えているように見えた。その時、凡雪は、仁から未来に向かうエネルギーを貰ったように心強く感じ、胸に熱が広がっていく感動に震えた。
 胸の鼓動を抑えようと、凡雪は息を何度も飲み込んだ。
「気を付けていってらっしゃい。帰ってくるのを、待ってます」と凡雪は、仁に期待の気持ちを伝えた。すると、仁は感激した表情で「ゆきがすき!」と日本語で告白した。
 日本語の意味が分からない凡雪も、真似して「……すき」と言葉を返してみた。口許を綻(ほころ)ばせた仁は、弾けるような笑顔を見せてくれた。
「戻って来たら、すぐ雪さんに連絡するね。僕を、待っててください!」と仁の声が穏やかに響いた。凡雪は頷くと、仁は片手で凡雪の頭を優しく一回、そっとゆっくり撫でた。
 神(かみ)の優しさに触れたような感触だった。
 心の底から愛しくて、抱き締めたいと思った凡雪は、仁を見詰めて「じゃ、バイバイ」と囁いた。仁も「バイバイ」と、芯のある低い声で返した。
 自転車を停めた凡雪は、階段を上がろうとした。後ろから仁の小さな声が聴こえてきた。
「花さんに、今日、有り難うって、伝えてください!」
 凡雪は立ち止まって、背後を振り返った。仁の黒目の光が空に浮かぶ星のように、無垢に輝いていた。
 風が、宵の香を何処からともなく運んできた。風の中から、海も、大陸も、上には必ず星がある、というメッセージが聴こえてくる感じがした。
「仁さん、お休みなさい!」と、仁の名前が、凡雪の口腔から零れ出た。
 ゆっくりと階段を上がってドアを開けた凡雪は、「ただいま」と部屋の中に入った。
 すぐ机の前で勉強をしている凡花が見えた。凡花は伸び上がるようにゆっくりと顔を凡雪に向け、心配げな表情で「お帰りなさい」と小声で返した。
 その時、線香が焚かれた匂いが、近くに漂って来た。微かな香が凡花の匂いと同じだと思った凡雪は、春霞の温かさに包まれたような心地を自覚した。
 凡花の傍に近寄った凡雪は、声を静めて「仁さんはね、花さんに、有り難うと伝えてって!」と小さく告げた。
 凡花は、眼球の奥から明るい光を放った。
「本当に? よかったね!」と凜と、胸を張るようにして、立ち上がった。
 凡花は一変して、明るく冴えた表情を見せてくれた。まるで、春の陽炎の中から現れた上代の姫君のような、麗しい姿だった。
 その時、凡雪は、静かな気分の高揚を覚えた。
 つづく
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