小説『雪花』全章

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小説『雪花』第一章-6節

2017-05-20 11:00:53 | Weblog


 六
 
心身とも疲れた凡雪は、その日の退勤後、自転車を宮に置いたまま外に出て、人民路の南へ向けて黙然と歩いた。
 道行く人々はどこか急いでいるようだが、凡雪はゆるゆると歩いていた。
『沧(ツァ)浪(ラン)亭(ティン)』が目の前に現れると、凡雪は足を止め、呆然として園内を見遣った。
 道沿いの植物が、鈍い光の中で枯れて見え、哀願を訴えているかのようにも見えた。
 突然、恐ろしいほど風が吹き、天上の光が掻(か)き消さられるように雲に覆われた。
 完全な闇でも訪れるように思えた凡雪は、再び足を前に進めた。
 漆黒の宙を蹴っているように歩く凡雪は、気づくと、人民路の交差点を過ぎ、南(ナン)門(メン)路(ロウ)を抜け、桃(タオ)花街(ホァジエ)に辿り着いていた。
 桃花街は小石畳の路地で、右側には太湖から流れ込む水路(川)が入り組み、左側には白壁の家々が軒を連ねる、江南水郷の街だ。
 二百メートルほど行くと、陳の家が現れた。
「陳は、まだ帰っていないかな」
 凡雪は水路の臨む岸にあるベンチに腰掛け、水路を眺めるともなく眺めていた。すると、小舟が水面をゆらゆらと近づいてきて、次第に隔てて去っていった……。
 日は、とっぷりと暮れ、夜空にぽつりぽつりと星が瞬(またた)いていた。
 少し寒く感じた凡雪は、陳に貰ったシルクのスカーフをバッグから出して、首に軽く巻いた。この手触りで、また、歳三つ上の陳の歩んできた人生を、思い返していた。
 陳に桃花街に連れられて、ご両親に挨拶に来た。文革期には、陳の父親が右派とされ、一家三人が蘇州を離れ、安(アン)徽(フェ)の癖地の農村へ行った。農村では、同じ右派とされた画家と出会い、六年間、画を苦学した。
「来てたの?」
 いつのまにか陳が横に立っていた。冷たい一声だった。
 夢の中のような心地だった凡雪は、ハっとして、陳の顔を見上げた。
 凡雪はベンチを空けるために、「どうぞ」と、腰をそっと移動した。でも陳は黙って両手をズボンのポケットに入れ、座ろうとしなかった。
 陳の冷やかに急変した態度に凡雪は、俄(にわ)かに息を潜(ひそ)ませた。頭にすぐ〝もう終わった″の言葉を浮べた。重い沈黙の中で、月明りが静かに陳と凡雪を照らしている。
 やがて陳は腕時計に二回、眼をやった。
「もし、なにもなければ」
 陳は少しも視線を上げなかった。凡雪は小さい声で「うん」と返事した。陳は「じゃあ」だけ言って、横から去っていった。
 背後ろのドアをがちゃんと閉めた声が、凡雪の胸を抉(えぐ)った。
 あまりにも唐突(とうとつ)な別れに、凡雪は「――嘘よ」と心の中で呟き、目を強く閉じた。
 音がない。水の音も、風の音も、何もない。陳は、数秒の速さで遠くへ行った――。
 落ち葉が敷き詰められた森の袂(たもと)に立って、笑っていた。
 凡雪の心の画面に、陳の笑顔だけが、焼きついていた。
 ゆっくり立ち上がた凡雪は、ベンチから離れていった。
「この二年間は、何? 愛は脆(もろ)いもの? 陳を知ってるつもりだったけれど、違ったようね」凡雪は、桃花街の東へ歩きながら、自らに問い掛けた。
 知らず知らずに、凡雪は迷路(めいろ)に入っていると気づいた。先ほど灯りのついた街を通ったところまでは分かったが、いつしか砂利(じゃり)の暗い道に入っていたのかが、分からなかった。
 ざくざく……この砂利を踏む音に胸が切り刻まれた凡雪は、踏み留まった。一度、身を振り返ると、びゅう――――と、天地を劈くような風音が、耳を聾(ろう)した。
 心臓が激しく鼓動(こどう)を始めた凡雪は、全身の力が、すっかり抜けてしまった。膝からずたずたと崩れた途端に、声を放って咽(むせ)び泣いた。
「お母さん――、お母さん――、全部お母さんのせいよ、お母さんのせいだから……」
 跪(ひざまず)いた凡雪は、真っ暗な空を仰(あお)いで叫び続けた。
 泣きじゃくって、声も掠(かす)れた。その時、空がパッと明るくなった。
 星が満天(まんてん)にきらきらと光り、明月も眩(まぶ)しいぐらいに、凡雪にびたりと向いていた。
 空を見上げて大きく見開いた凡雪の目に、星の瞬きは、くっきりと飛び込んできた。
「あ~母(ママ)……」と小声で囁(ささや)いた凡雪は、自分の体中に力が沸(ふつ)々(ふつ)と湧いてくるのを感じた。
 喉元に残った言葉をすっと飲み込んだ凡雪は、足元に気をつけながら立ち上がった。
 星が照らす木々の葉っぱは、優しい風に吹かれて揺(ゆ)れた。なにやらふわふわと暖かいものが下に落ちてきた。
 これは、お母さんの、温もり。言葉が、凡雪の胸の奥から一気に喉元まで競(せ)り上がった。
 先、――光で照(て)らされた街を見ている凡雪は、口元を微(かす)かに綻(ほころ)んだように感じた。
 細い電信柱に取り付けられた街灯(がいとう)の下で、凡雪は家に向かって歩いていた。
 家に着いた時、窓の中に明(あか)りがついていた。
 ドアを開けると、ベッドに座っている凡花が顔を上げた。凡雪は声を上げた。
 目に雪礫(つぶて)が飛んで来たように感じ、凡雪は拝(おが)むように両手を合わせた。
「花(ホァ)、何てこと?」
 凡花は眼球(がんきゅう)を光らせて、「なんてって?」と笑いながら、さりげなく目元を拭(ぬぐ)いた。
「顔、顔よ」
 ベッドの縁に腰を下ろした凡雪は、凡花の顔をずっと見つめた。
「姉(ジエ)が、帰ってこないから、胸がむずむずしちゃって。でもね、眉毛を剃(そ)ったら気持ちが、すっきりしたよ」
 凡花が、また、にっこりと笑って喋った。確かに窓際(まどぎわ)の机に父の髭(ひげ)剃(そ)りが放ってあった。
「不思議ね……眉毛って、剃っただけで、顔が変わるんだ。花の目玉が、電球(でんきゅう)見たいに、飛び出ているよ。明日学校は、どうするの?」
「心配いらない。前髪(まえがみ)を下(おろ)せば誰も気づかないよ」
 凡花は肩を竦(すく)め、爽やかな声を放った。親身(しんみ)な眼差しで凡雪の表情を観察する。凡雪の目に安堵(あんど)の涙を滲み、視界が曇(くも)った。灯の光と凡花の顔がダブっている。
 凡花の様子が、ますます可(お)笑(か)しく見え、凡雪は、つい笑いに誘われた。
「花、よくやるわね! 気持すっきりしたって、本当に? じゃぁ、私も剃(そ)るわ」
「ダメ! それはダメ。姉は美人だから、剃っちゃダメよ」
 妹の話を聞いた途端、胸中の痛みがぐっと突き上がり、目からどっと涙が噴(ふ)き出した。
「どう、どうしたの、姉?」
 凡雪は言葉を呑み込んだ。少し身を屈(かが)めて、そっと息を漏らした。おもむろに告げた。
「今日、陳に、振られたんだ」
「えっ? 嘘!」
 突然、妹に抱き締められた凡雪は、その瞬間、失恋で、ぎすぎすしていた心が、仄かに癒されたように感じた。
 部屋の壁面に置かれた二人用のベッドで凡花は横になり、ぐっすり眠って、二重瞼をうっすら開いていた。凡雪は目を瞑(つぶ)っていたが、なかなか眠れず、何度も寝返りを打(う)った。
 外はポツリポツリと、雨が降り始めた。深(しん)々(しん)と夜が更(ふ)けていく中で、凡雪は、脳裏に陳の俯(うつむ)きの顔を蘇(よみがえ)って来た……。

つづく
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