小説『雪花』全章

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小説 『雪花(せっか)』 第一章・1節

2017-05-17 13:26:02 | Weblog

第一章 突然の母の逮捕
       

 
一九八四年十月二十六日、蘇州は雲一つない晴天だった。
 広い陽(ヤン)明街(ミンジエ)には秋の陽が眩(まばゆ)く地面を照らしつけている。『沧(ツァ)浪(ラン)亭(ティン)』公園は人の出入りが混雑で、はす向いの刺繍(ししゅう)工芸品店の賑(にぎ)わいは、外を通りかかる人たちの耳にも伝わるほどだった。
 夕方になると、俄(にわ)かに冷気を増した陽明街には、人や自転車、バスの往来が激しくなる。トラックが猛スピードで前の車を抜いたあと、舞い上がった土埃(つちぼこり)が、後ろの歩く人や自転車に乗る人の喉を詰まらせ、息苦しいほどだった。
 その時、仕事を終えた凡雪(ファンシゥエ)は、陽明街の自転車道で自転車を走らせていた。黒い髪が首から胸に垂れている。瞬きが少ない大きな目が、真っ直ぐに前を見ていた。
 一九七八年に中国の大学受験制度が回復され、二年後に高校を卒業した十八歳の凡雪は、受験に失敗してまもなく市内の大衆文化宮に採用され、宮内の図書室の係員を務めていた。
 十分ほどで第一人民医院を通り越してから右に曲がり、厳吾(イエンウ-)弄(ロン)という道に入った。
 厳吾弄に通じる分岐点からは道沿いに飲食店や雑貨店が立ち並ぶ。二百メートルほど行くと枝(し)垂(だ)れ柳が見え、木々に面して新しい二階建て住宅――公(ゴン)寓(ユン)(マンション)があった。
 凡雪の一家は、この二階家の公寓の東端だった。凡の一家は、つい三か月前に厳吾弄に引越したばかりで、今なお、夢のようだ。グリーン外壁の家を目の当たりに見た凡雪は、次から次へと、とめどなく浮き浮きした気分になっていた。
 市商工局の幹部である父は、昨年まで地方のそれぞれの末端組織に力を入れ、一点突破と全面展開を二つながらに達成した。この功績で、今年の春に市商課長に昇進し、同時に優遇され、里(リー)弄(ロン)という集合住宅から、現在の厳吾弄の新式の公寓に移ってきた。
 一九八○年代初期の中国は、まだ〝改革開放″政策を始めようとする矢先だった。当時、一家四人で、居間一つと寝室二つ、厨房とトイレ、洗面所付きの新式住宅に住める階層は、蘇州では、ごく少数に過ぎなかった。
 ゆっくりと自転車から降りると、辺りの枝(し)垂(だ)れ柳が風で、かさかさと鳴っていた。
 独特な匂いが流れてくる気がした凡雪は深呼吸し、右手の指で髪を繰り返し梳(す)きながら、柳を眺めた。少し微笑んで空を眺め、空に浮かぶ自分自身の姿を想像した……。
 ビーズ刺繍(ししゅう)つきの紺色の繻子織(さてん)の旗(チ―)袍(パオ)(チャイニーズ服)を着て、天女(てんにょ)のようにゆっくりと漂いながら、下を眺める――道路をアリの群れのように自転車が前へ動いていく。
「……雪さん!」と突然、男性の浮き浮きした呼び声が聴こえた。
 凡雪は我に返ると、笑みを含んだ陳(チン)晓(ショウ)民(ミン)が現れた。陳の自転車が柳の向う側に見えた。
 陳は凡雪の男友朋(ナンポンユウ)で、付き合って二年余り。南京芸術大学の卒業後、すぐ市の広告研究所に勤めた陳は、大衆文化宮で新しい映画を上映する前に宮に来ては、ポスター交換の画を描いていた。 
 陳は、直ぐ凡雪に近づいて凡雪の自転車を受け取り、留めた。
「急に、雪(シゥエ)に会いたくなって、来ちゃった!」
 目の奥に芸術的な光を輝かせた陳は、凡雪をじっと見詰めた。
 胸が擽(くすぐ)られた凡雪は、抑えた声で「家に上がって、お茶でも」と誘ったが、陳は残念そうに「研究所の仕事が、まだ残っているんだ。今度、改めて来る」と断った。
 陳を見送ってから、二階に上がった凡雪は自宅前に立ち、ドアを開けた。
「ただいま」と声を掛けると、正面に、いつもなら仕事熱心で夜暗くならないと家に帰らない父の姿があった。途端に凡雪は不吉な予感を覚えて、足が重くなった。
 居間の真中に置かれたテーブルの左に座っている父の両目が、石のように凝(じ)っとして、それまで見た覚えもないほど曇っていた。凡雪は急に緊張し、胸がドキドキした。
 凡雪は仄暗い部屋の様子を窺(うかが)って、空(そら)恐(おそ)ろしさに胸を衝(つ)かれた。凡雪は、胸騒ぎを抑(おさ)えながら心で祈った。
「不幸が降り掛からないように……」
 膝を硬(こわ)ばらせた凡雪は、テーブルの右側に立ち、父の顔を覗き込んだ。
「お母さんが、たいへんな状況になったの」
 傍に寄って来た妹の花(ホア)が、顔を俯(うつむ)けたまま凡雪に手を掛け、小声で耳打ちした。
 一瞬、体中から恐怖感が広がり、全身を強(こわ)張(ば)らせた。どうしたらいいか、さっぱりわからない凡雪は、じっとしていた。
 シーンと静まり返った瞬間、突然、父の破(われ)鐘(がね)のような声が間に響きわたった。
「母さんが、朝、会社で逮捕された」
 父の言葉に胸を締め付けられた凡雪は、「今、夢を見ているのだわ」と自分に言い聞かせようとした。だが、体が震え始めた。
「午前、公安局から呼ばれて、事情を聞いてきた」
 凡雪は、忽然(こつぜん)と現実に気づき、「嘘でしょう」と反発の語気を荒げた。
 父の唇が歪んだ。深々と溜息をついてから、瞼を横のテーブルに落とした。
 テーブルの紙に気づき、慌てて手に取って見た凡雪は、目を凝った。
『李(リー)亜(ヤ)萍(ピン)教唆の容疑で今日十時に逮捕す』
 下に局長の署名と公安局の判が、はっきりと捺印されていた。
「間違いない、李亜萍は、母さんの名前だよ」
「そんなの、信じられない」
 一瞬、眩暈(めまい)を起こした凡雪は、ゆらりと足元が揺れたように感じた。
「母さんは、会社の烏(ウー)梅(メン)という人の不正行為に絡んだのだ」
 父は俯(うつむ)いていた顔を上げ、半分ほど咎めるような口調で付け加えた。
 烏梅は三十代後半。母の後輩で、同じ経理をしていた人だ。旦那さんが腎臓病を患って働けないのと、幼い子供がいて、烏(ウー)梅(メン)だけの給料では生活がやっていけない事情を、母から何度も聞いていた。
 しかし、烏梅は、何をしたのか。母が烏梅を唆(そそのか)した理由は、どうしてなのか。なぜ、急に母が逮捕されたのか……。
 椅子に腰を降ろした凡雪は、顔を上げた。父の、かなり落ち込んだ顔を見た途端、喉元まで出かかった言葉を、ぐっと飲み込んだ。父に訊く勇気が、どうしても出なかった。
 横の凡花は明るさが消え、つるりとした頬も、俯(うつむ)いているせいか、少し垂れていた。
 二分か三分して、父が椅子から立ち上がった。一歩よろっと進むと、つと足を止めて、厨房のほうを、ちらっと見た。
「ちょっと出かけてくる」と、きっぱり言い放って、家を出て行った。
 二人とも父の背中を目で追いながら、隣の厨房を見やった。隅っこの籠(かご)に青菜が見えた。
 今朝、母が市場で買ったものだ。今晩は、菜飯(ツエイファン)を作るだろう――米に青菜とサラミ・ソーセージを入れて鍋で炊くのが、蘇州の家庭料理だ。菜飯は二人の娘の大好物なので、母は時々作ってくれた。
 父が家を出てから、二人は、ただ呆然として、部屋に沈黙が流れた。
 目を閉じた凡雪の耳元に、一瞬、何故か烏(ウー)梅(メン)の冷ややかな笑い声が聴こえてきた。
 瞼の裏に、烏梅が獣(けもの)のような速さで飛んでくる影も現れた。異形の犬の姿で、前肢を振り上げ、狗(コウ)眼(イエン)(犬の目)を開いた。
 ――お前の母親は、犯罪者だ! 今朝、警察に手錠を掛けられる時に、身体がぶるぶると震え、両足が崩れたんだ。
 警察の男に引き立てられていく姿は、見ていられない、惨めだ!
 烏梅は再び凄(すさ)まじい声で「李が負けたんだ!」と喚(わめ)き、どっと嘲笑(あざわら)って、さっと消えた。
 凡雪は、俄に返って目を開け、何度も瞬きをした。頭を大きく振った。
 空気がだんだん乾き始め、眉毛(まゆげ)をひゅうっと持ち上げられた。凡雪は、一瞬ふっと、檻(おり)に閉じ込められたように錯覚した。
 その時、突然、窓の外から、犬の吠え声が聞こえた。狼(おおかみ)に追いかけられるような怖い声だ。胸の奥まで突き破られそうな動悸(どうき)がして、凡雪は額に夥(おびただ)しい汗が滲(にじ)むのを感じた。
 凡雪は胸を押えながら、ゆっくりと腰を椅子に下ろした。途端、不思議に、犬の吠え声が止まった。凡雪は、額に指を当てながら、再び視線を厨房へ移した。
 清潔に磨き上げられた台所、窓ガラスまで磨いていた母は、今、どうなっているだろう。
 ふと、狭い里(リー)弄(ロン)に住んでいた当時の生活を懐かしく思った凡雪は、ウェーブの掛かった髪の母を、思い返した。
 里弄の住宅は、下水の設備がない。そのため、馬(マ)桶(トン)というおまるで用を足す。
 毎朝、汲み取り屋が汚物を回収しに回ってくる。母が空(から)になった馬(マ)桶(トン)に水を入れ、竹(たけ)籤(ひご)の束子(たわし)と蛤(はまぐり)殻(から)で洗うのが、毎朝の始まりだった。
「あんたたちに、洗(シー)馬(マ)桶(トン)だけは、やらさないわ」と母は、いつも言う。
 母は書道が趣味で、冬になると、硯(すずり)で凍った墨の中に、ちょっとお湯を入れ、墨を擦りながら溶かして練習するのが日課だ。
「唐以降の個性美を生んだ、神となった顔真卿(イェンツンチン)の書体が好きだわ」と、しみじみ語った母の言葉が、今更のように凡雪の心に染みた。
「姉(ジエ)、これからどうなるの?」と凡花が首を傾(かし)げて、不安そうに口を滑らせた。
 朧(おぼろ)に回想に耽(ふけ)っていた凡雪は、くるりと目を回して、何気ないふうを装った。テーブルに身を乗り出して、厨房に入った。
 いつもなら、今この台所に立つのは母だが。母のいない夜は初めての経験だった。
『姉(ジェ)、これから、どうなるの?』
 先ほど凡花の言葉が脳裏を掠(かす)めた。不意を突かれた虚しさが胸に込み上がって、どっと目に大粒の涙が零(こぼ)れ落ちた。
 正面の窓から秋の風が深(しん)々(しん)と入り込み、凡雪は身を震わせた。
 窓を閉めると、わずかな光も消えた。凡雪は電灯を点(つ)けて、溜水に青菜を浸した。
 空(うつ)ろな灯りに、白目を剥いて顔を歪めた烏梅の姿が、再び頭を掠めた。烏梅は、ずしりと腹の中に落ち込むような声で脅した。
 ――お前の母は、冤罪でも吞むだろう!
 突然、窓の外から大きなガラスの砕(くだ)ける音が聴こえてきた。音の中に、母の悲鳴じみた叫びも聴こえてきたように感じた。
 立ち眩みがした凡雪は、一瞬、何かが自分の中を駆け抜けていくように感じた。
「今晩、菜飯?」と凡花が覗きにきた声で、凡雪は、ハッと我に返った。
「うん」と頷いた凡雪は身(み)動(じろ)ぎして、濡れた手で涙を拭いた。すると、冷たい水に目が醒め、手早く青菜を洗い始めた。
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