小説『雪花』全章

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小説『雪花』第七章-9節

2017-09-04 13:53:49 | Weblog
   九  

凡雪と祖父は山間地を上がり、家に戻った。庭が掃き浄められ、全ての植物が瑞々しく繁っていた。
 祖父は、爽やかな声で「回(フアイ)来(ライ)了(ルイ)!」(帰ってきた)と伝えた。凡花が客間から出てきた。杜も後ろに従いて出てきた。
 祖父は目の縁を潤ませて「花だな! よく来たね」と歓声を上げた。笑いを潜めた凡花は、すぐ前に寄ってきて、「お邪魔しています」と頭を軽く下げた。
 晴れ渡った庭には、花の馥郁とした香が漂っており、樹木の緑青が、いっそう艶めいて見えた。一幅の絢爛な絵のように、春の季節の風情を弥が上にも増していた。
  客間に凡雪と凡花が揃って、椅子に腰を下ろした。
 卓台(テーブル)に盛り付けられた黄金色の枇杷は、香山に芽吹いた自然の命の輝きに見えた。
 真向いの席に座った祖父は「香山は温暖で、枇杷が育つには非常に良いんだ! さあ、召し上がれ」と穏やかな声で促がした。
 愛想よく頷いた凡花は、杜から小碟を受け取った。枇杷の皮を剝いて、すぐ口に運んだ凡花は「ほうー」と声を漏らし、目を悪戯っぽく光らせた。
 祖父は目の端で笑って「美味いかい?」と訊いた。顔を柔らかく綻ばせた凡花は、大きく頷いた。凡雪も、膨れた枇杷を一口食べて、すぐに甜さに、胸を躍らせた。
 ゆっくりと噛むと、枇杷の香の匂いとたっぷりした蜜が、口の中に端々まで広がって、喉を伝って落ちていった。
 一瞬にして、美味が喜びに変わった。身体の中に、じんわりと巡る快感の虜となった。
 いつの間にか、凡雪と凡花は、すっかり異国の緑の木陰にいるような心地になっていた。競うように手を伸ばして、汁気(しるけ)たっぷりの枇杷を、次から次と口に入れた。
 凡花は、ぐ、ぐ、と喉を鳴らして、「好(ハオ)吃(ツゥ)!」(美味しい)と、にっこりと笑った。祖父は、楽しそうに微笑んで、優雅な趣を顔に漂わせた。時折、昼下がりの溶かすような光が、客間を輝かせた。窓から風の音が繰り返されて、心地よく聴こえた。
 新鮮な目で客間を見回した凡花は、視線を低い棚の中に移して、留めた。
「あっ、ラジカセが、置いてあった!」
 頬(ほお)の産毛が光っていた凡花は、席から離れた。すぐ棚に近づいて、唇を軽く開いた。
「日本の三洋製ですね」
 凡雪は、頬に広がっていた髪を掌で後ろに緩く纏(まと)めながら、席から立ち上がった。
 棚の中に鮮やかな色のラジオが置かれて、横には古びた本も並んでいた。端っこに一つカセット・テープが見えた。腰を落とした凡雪は、指でテープを、そっと出した。
 視界に、『青春の影』という日本語の文字が映った。すると、祖父は「これは、日本の郁(チユー)金香(リップ)、というグループの歌なんだ。仁が、好きでね」と穏やかに肯った。
 テープの良い質感に触れた凡雪は、仁の豊かな感性に触れた想いを味わった。一瞬、心の底に一波が打った。
 凡雪は、テープを奇妙な物でも見ているように、ぼうっと見つめた。
 その時、祖父が「『青春の影』は確かに、一九七四年の歌だな。良い歌だよ」と囁いた。
 凡花はすぐ凡雪の手にテープを取り、ラジカセの蓋を開けて入れた。
 静かな中で、爽やかな男性の歌声が流れた。
 …………
 ♪君の心へ続く長い一本道は ♪いつも僕を勇気づけた
 ♪とてもとても険しく細い道だったけど ♪今、君を迎えにゆこう
 ♪自分の大きな夢を追うことが ♪今までの僕の仕事だったけど
 ♪君を幸せにするそれこそが ♪これからの僕の生きるしるし
 …………
 真っ直ぐで、透き通った歌声が客間に漂って流れていた。
 凡花は、両手を胸の辺りで合わせて「歌詞の意味は、分からないけど、メロディが、胸に、じーんと来るね」と小さく甘い声で呟いた。
 俯き加減になった凡雪も、目を瞑って、ゆっくりと耳を澄ませた。歌声の優しい響きや、語尾の柔らかい息遣いが、まるで愛を誓っているかのように聴こえた。
 胸の奥まで深く染み溶け、仄かな痺れるような感覚を味わった凡雪の瞼の裏に、仁の姿が浮んできた。山間地に靴音を響かせ、仁は颯爽と駆けて来る。凡雪は、愛しい気持ちが、久しく心底から込み上がってきて、不思議に宇宙に包み込まれているような心地になった。
 清涼な夕風が、味わえるように囁いている。夕陽の薄紅色が客間を満遍なく染めていた。
 向こうの厨房から、薪火のパチパチと、小さく爆(は)ぜる音が聴こえてきた。独特な煙(けむり)の匂いが漂い、大鍋からシャーシャーと音が聞こえて、夕食を告げるような声にも聴こえた。
 凡花は一息を吸い、「ああ、良い匂いだね!」と喜びの声を上げた。凡雪は、異なる味に出会えるような期待感が胸に湧き上がってきた。
 凡雪は、そっと感嘆の息を洩らした。
 新鮮な食べ物の匂いがうっすらと、鼻元を擽ったので、凡雪は、凡花を「行こうか」と小声で誘った。それで、凡雪と凡花は、厨房に入った。
 見上げると、豚の大きな腿肉が天井からぶら下がっている光景が目に飛び込んだ。ぐるっと輪にした腸詰めも、ぶら下がっていた。古びた調理台の前に立っていた楚が、目を光らせて「吃驚した? ハムですよ。此処が、涼しいからね」と明るい声で伝えた。
 凡花は目を瞠(みは)って「楚さんが、塩漬けしたの?」と訊ねた。
 すると、楚は眉を上げて「そうですよ!」と即答した。
 その時、竈(かまど)に薪を入れている杜が、突然、小椅子から立ち上がった。小さな柄杓で 水桶から麓の水を掬って、凡花に手渡した。凡花は呷るように、一気に水を飲み干した。
「ああー、好(ハオ)喝(フー)!」(美味しい)
 凡雪も口に含んでみた。冴えて冷たい自然の水は、信じられないほど甘露(かんろ)だった。
 凡雪と凡花は、水を掬っては飲み、掬っては飲んで、まるで競い合うようだった。
 いつの間にか、凡花は、調理台に載っていた薄く切り分けられた生ハムを摘んで、口に入れた。楚と杜は、傍で堪えずに快活に笑った。凡雪も頬を緩めた。
 その時に、凡雪は、心身ともに拍子を抜けするほどに軽くなっていく心地を覚えた。
 凡雪と凡花は、厨房から出てきた。凡花は、すぐ右側の衛生室(洗面所)の中に入った。
 不思議に郷愁を誘うような静けさを感じた凡雪は、足をゆっくりと前へ運んでいた。
 すると、一つ戸を開けたままの部屋が現れた。凡雪は立ち止って、中を覗(のぞ)いてみた。
 簡素な部屋で、静謐さが潜んでいた。真中にベッドが置かれ、上には、色褪せた紅絹の布団が畳んであった。万里が使っていた寝室のようだ。
 四方を見回した凡雪は、壁角の小卓の上に揃っていた一対の精巧な玉碗に目を注いだ。深い翠色を湛えていた。玉碗は淡く仄かな光の中で、閑雅な高貴さを示して見えた。
 凡雪は、祖父と万里の波乱と起伏に満ちた運命を想像しながら、じーっと玉碗を眺めた。
 風が葉を小さく鳴らしながら、横から心地よく流れていた。一瞬、儚げに万里の気配を感じたように思った。
 凡雪は、そっと息を吸い、部屋から離れた。
 元の場所へ戻った凡雪は、庭の空を見上げた。朧に霞んだ白さが目に沁みた。
 遠目に見える緑が黄昏の残光の中で、霞のように仄白くなり、妖しさに満ちていた。
 ピチピチ……と、焚火の音が聴こえた。蒸されたような、香ばしい匂いが漂ってきて、つんと、鼻を擽った。
 凡雪は微笑んで、脳裏に、楚(そ)と杜(と)親子の火を自由自在に扱う姿を浮かべた。静かに客間に戻った凡雪の目に、卓台(テーブル)の前で凡花が祖父と笑いながら語っている光景が映った。
 灯火が密やかに、客間を照らしている。祖父の柔らかい眼差しが、円みを帯びた月光のように輝いて見えた。
つづく