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史跡めぐりとウオーキング  その8

2016年12月06日 22時55分24秒 | 史跡めぐりとウオーキング

今日は史跡めぐりとウオーキングのその8でした。この講座。全部で8回でして、今日がその最終回でした。集合場所は神置町の「美な毛」と言う喫茶店の駐車場です。
歩いた所は「米野の戦い」の跡です。米野の戦いは関が原の合戦の前哨戦が行われた場所です。そんな所を訪ねました。


集合場所。美な毛の駐車場です。
皆さん。時間厳守で、集合時刻よりも早く集まります。




美な毛から畑の中の道を歩き、「米野の戦い」の跡を目指します。




前方の高架橋は東海北陸自動車道の高架です。




米野の戦いの跡へ来ました。




米野の戦いの跡の標柱と先生の話を聞く受講生たちです。




米野のお墓に来ました。
この墓地の一角に石碑と説明板が設置して有りました。





次に来たのが飯沼勘平長資のお墓です。



合戦は、一度に始まるのでなく、小競り合いがあり、双方から兵が出て戦うのだそうです。互いに一騎打ちで勝負します。それを一番槍と呼ぶのだそうです。
東軍の一番槍は大塚権太夫。西軍の一番槍は飯沼勘平長資です。飯沼勘平長資は飯沼勘平長実の子で、小勘平と呼ばれています。無くなったのが21歳の時と有ります。数えで年齢を計算した時代です。満年齢なら二十歳です。りりしい青年だったのでしょう。



神置町に戻ってきました。
先生がここで、話されたのは島田魁(サキガケ)についてです。島田魁は神置村の出身でして、新撰組の隊士で有り、戊辰戦争などを経て最後は蝦夷地に渡っていましたが、生きながらえて西本願寺の警備員を勤めたのだそうです。
ここ、神置から新撰組の隊士が出たとなると、誇らしく思える部分も有ります。
島田魁に着いてのウィキぺディアをご覧下さい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E7%94%B0%E9%AD%81
親元から養子となり、さらにに養子になっていた事を知りました。





最後でして、美な毛で閉講式が行われました。


今日、歩いた所は羽島郡笠松町と岐南町です。スタートの神置町は各務原市の一番西の端で、笠松町と岐南町が接する地点でした。
県道の横に「米野の戦い」の跡の標柱が立っていることは知っていましたが、関が原の合戦の前哨戦の場所だとは知りませんでした。今から400年余り前の戦です。その間に木曽川は氾濫して度々、姿を変えてきました。今でこそ、立派な堤防となっていますが、当時このような堤防の無い状態だったのだと思います。
木曽川を挟んで両軍が対峙。そして合戦の火蓋が切られ渡渉して来る兵たち。迎え撃つ岐阜城側は火縄銃で応戦します。鉄砲で撃っては弾を込めて・・・・。
鉄砲を続けて撃つ事が出来ず、圧倒的多数の池田輝政の軍勢が押し寄せる。
そんな場面を想像できます。想像する面白さが有ります。
別のシーンでは、池田輝政の軍が渡河する前。法螺貝の音。陣太鼓の音。戦意を高揚させる音が流れ、兵が喚声を挙げて進軍します。初めは銃の狙い撃ちをされて、バタバタと倒れていったのでしょう。そんな事を考えます。

知らなかった事を、色々と知識を深める事が出来ました。そのような事を知ることの面白さが有ります。
池田輝政は関が原の合戦に参戦しています。その後、姫路城を築いています。
改修された後の姫路城へ行った事が有りますが、この米野戦いの池田輝政と築城した輝政を結びつけて考察できる事が面白いです。

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