名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
時代の波にゆられつつ生きた先人の
気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

平家物語 修羅の最期 〜木曽・忠度

2016-10-14 00:09:42 | 人物
「見るべき程の事は見つ。いまは自害せん」
浅い夢のあと、
弓取る者たちの壮絶な終焉



『平家物語』は軍記物語であり、必ずしも史実を正確に写したものではない。それでも、平家の栄華から破滅への道筋がドラマティックに語られ、肌で感じるほどに描かれている。それには、美しい風景描写と、人物の心の気色が、随所に描かれていることが奏功している。
いわゆる歴史小説は、細かく描かれすぎて空想が独走していることも多々あり、時に読者に消化不良や拒絶を起こさせることがある。しかし『平家物語』の展開には、虚飾する間もないほどの急転のためか、一本の映画のように身を通貫してゆく。

諸行無常、盛者必衰。
それはわずか5年足らずで散った、平家20年の栄華の終焉。
そこには、平家一門の苦悩だけではなく、物語に終わりを付ける役目の源氏の苦悩も読みとることができる。
ここでは、物語の焼き直しではなく、治承・寿永の乱(1180〜1185)の戦地で繰り広げられた修羅達の、それぞれの生き様、死に様からの感慨をお伝えしたい。

まずはいきなりだが、源氏方の木曽義仲から始めたい。


1.「ただただそなたと一ところで死なんがため」
木曽義仲(源義仲)は、平氏を都から追い落とす手柄をあげたものの、田舎育ちの武骨な振舞いのために、後白河法皇や都の庶民からも信用を得られず、頼朝の命により義経と範頼に討伐されるに至った。敗れてわずかに残った者達と、北国に逃れる途中、粟津の戦いで滅ぼされる。

義仲は、麾下の今井兼平が気にかかり、敗走の途中で引き返した。今井の方も主君を気にかけ引き返す途中、大津の打出の浜で行き会った。

『平家物語』(現代語訳 中山義秀著)より引用する。(緑字)

‥主従は駒を早めて近寄った。木曾殿は今井の手をとって、
「いかに兼平、義仲は、六条河原で危うく討ち死にするところであったが、そなたの行くえのおぼつかなさに、あまたの敵にうしろを見せて、これまでのがれて参ったぞ」
今井四郎も、
「かたじけなき御言葉、兼平も勢田で討ち死につかまつるべきところを、御行くえのおぼつかなさに、これまでのがれて参りました」


義仲は、ここで周囲の残兵を集め、甲斐源氏の軍勢に最後のひといくさを挑む。
六千騎に対し三百騎。いよいよ主従5騎となり、巴御前を解放、
あとは、義仲と今井の二騎ばかりとなった


「日ごろはなんとも思わぬ鎧が、今日はいたく重いように感じられる」
木曾殿の述懐を聞いて、今井が、
「いや、おからだもまだお疲れになってはおられませぬし、御馬も弱ってはおりませぬ。一領の鎧が、なんでにわかに、重くなるわけがござりましょう。それは、味方に続く勢がなきがゆえの臆病心。兼平一人をば、余の武者千騎とおぼしめして、私がしばらく防ぎ矢つかまつっておる間に、かなたに見ゆる粟津の松原の中で、静かに御自害なされませや」
そうして馬を進めてゆくうちに、またもや新手の武者50騎ほどがあらわれた。
「兼平はこの敵をしばらく防ぎまいらそう。君はあの松原へ入らせたまえ」
今井が重ねてそう言うと、木曾殿は、
「六条河原で死ぬところを、多くの敵に後ろを見せて、これまで逃げてまいったは、ただただそなたと一ところで死なんがためであった。とてものことに、離れ離れに討たれるよりは、一つ所で討ち死にしようではないか」と、馬の鼻をならべて敵中へ駆け入ろうとすると、四郎は馬から飛びおり、主君の馬の口にとりつき、涙をはらはらと流して、
「武士たるものは、日ごろ、いかに功名をなすとも、最期に不覚をいたさば、後世まで名にきずがのこります。やつばらに言いがいもなく討たれては、さしも日本国に御名をとどろかせた、木曾どののお身が惜しまれる。ただ曲げて、あの松の中へおはいりください」
木曾どのも、もっともとうなづき、「さらば」とばかりただ一騎粟津の松原へ駆けて行った。
今井四郎は取って返すと、五十騎ほどの敵中に駆け入り、
「遠からん者は音にも聞け、近からん人は目にもみたまえ、木曾どのの乳母子の、今井の四郎兼平とて、生年三十三歳にまかりなる。さる者ありとは、鎌倉どのもごぞんじならん。兼平を討って、兵衛佐殿の御見参に入れよや」


今井が一騎で死闘する頃、義仲は松原を目指したが、深田に馬がはまり、動けなくなった。ふと、今井が気になり後ろを振り向いたところを敵の矢が顔を射て、屈んだところ首をかき切られた。
首を大刀に高々と差し上げ、木曾を討ち取った、との大音声を耳にした今井。

「今は、たれをかばって戦おうぞ。これ見たまえ、東国の殿原、日本一の剛の者が自害の手本よ」
と叫んで、太刀の切っ先を口にふくみ、馬からまっさかさまに飛び落ちて死んだ。


長い引用をしたが、この巻の9「木曾の最期」は私にとって壇ノ浦よりも深く感動する場面だ。
策士の源行家に出し抜かれ、都を追われるばかりか追討された義仲は、今井始め、今井の兄・樋口、根井、楯ら木曾四天王を従え、支えられながら、武士としての最期を全うできたのは、人物として愛される側面を持ち合わせていたからだろう。
乳母子の今井は三つ歳上、「鎧が重く感じる」と率直に弱音を口にした主君義仲を、叱咤激励あるいは宥めて、自分の身一つを盾に、そして自分の名をも盾にして、最期の時をかせぐのに命をかけた。そこには、主従という関係ばかりでなく、兄弟のような信情もある。「一つところで」、という願いにかなっているか、背中合わせで隔たってはいたが、ほぼ時を同じくして死んだのであった。
1184年1月21日。

今井の兄・樋口兼光はこの日、別のところで戦っていたが、主君と弟の死を聞き、見知った敵に降人として迎えられたものの、法皇が許さず、義経や範頼の必死の助命も叶わぬまま、24日に木曾方の首の引き回しのあと、25日に首を斬られた。

このあたりを題材にした能の演目には、『木曽』『兼平』『巴』がある。


2. 弓と芸
さて、義仲によって都を追われた平家の公達は、弓矢取る者でもあったが、成り上がりとはいえ、都の行政を司ってきた人々である。風雅な振舞いは、北国の木曾殿にも、関東の九郎判官義経にも、取って代わられるものではなかった。
芸に秀でる者も多かった。平家繁栄の道をつけた忠盛は清盛の父だが、歌人としても知られていた。清盛の弟・忠度は歌人、清盛の弟・経盛の子、経正は琵琶、同じく敦盛は笛、清盛の嫡男・重盛の子、清経も笛の名手であった。
また、重盛の嫡男・維盛などは、「今昔見る中にためしなき」「容顔美麗」な美貌の貴公子で、維盛の舞う青海波は、見る人を「ただならず、心にくくなつかし」くさせたといわれている。

都を西に落ちて行くなかで、経正は愛用の名器・青山を、かつて自分が稚児として仕えていた仁和寺に預けることとした。もしや自分の命も、というなかで、名器を西国の塵のなかに埋めてしまうことのないようにと考えたのだった。
一族の中では俊才として知られる経正は歌人でもあり、僧と歌を交わしたあと、都落ちの群れに消えていく。
経正はおよそ半年後、一ノ谷の戦いで亡くなった。


忠度もまた、都落ちに先立って藤原俊成を訪ねる。勅撰集の編集が動乱で滞っていたが、世が落ち着いて再び編まれることになるならば、忠度自作の歌を一首でも選んでいただけるならば、と、百首を巻物にしたため、俊成に差し出した。
巻物を俊成が大切に預かると、
「西海の浪の底に沈まば沈め、山野に屍をさらすならばさらせ、この上をもう浮世に思い残すことはありません」

前途ほど遠し、
思いを雁山の夕べの雲に馳す

姿を遠く見送る者たちに、忠度の高らかな声が響いた。
のちに、その巻物の中から一首、『故郷の花』が読み人知らずとして勅撰集にのる。朝敵のため、名前をのせることは叶わなかった。

さざなみや志賀の都はあれにしを
昔ながらの山桜かな

忠度も一ノ谷で討たれた。


清経は討ち死ではない。
都落ちした上、太宰府の緒方氏にまでも背かれ、次第に悲観的になっていった。「もともと何ごとによらず深く考えつめる性質の人」とある。

「ある月の夜、舷に出て、横笛の音取りをしたり、朗詠したりして、遊び過ごしたあとで、静かに経をよみ念仏して、海に身を投げた」

弓矢取る者の行く末の悲惨を予見し、「網にかかった魚も同然、ながらえ果つべき身でもない」と悟り、運命を待たずに消え去るのを選んだ。

これらは、能では『経正』『俊成忠度』『忠度』『敦盛』『清経』に描き出されている。
かの有名な「人間五十年‥」は、幸若舞『敦盛』である。






平家物語についてはこのあと2回、続けます。
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