ジョージのつれづれぐさ

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耕余塾跡(藤沢市羽鳥)

2005-06-20 00:04:13 | 湘南
耕余塾とは、官制の小学校が明治6年に開設される前に羽鳥村に作られた私塾で、明治38年まで続いた。現在は狭い敷地にそのことを示す石碑が建っているだけだが、吉田茂元首相もここで学んでいたと藤沢市教育委員会の説明板に書かれている。当時は辻堂駅も開設される前だったので、羽鳥村は狐や狸が出るような田舎だったと思われるが、そこであのダンディな吉田氏が学んでいたというのは面白い。全くの余談だが、タレントのセイン・カミュと中居正広が在学した明治小学校と中居が在学した明治中学校は、どちらもここから数百メートルほどのところにある。

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5 コメント

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耕余塾跡と吉田茂 (こんちゃん)
2005-06-20 14:39:56
明治6年新政府は学校教育の重要性から従来の寺子屋方式から学校制度に切り替えた。

しかし財源がないので地方に自己負担で学校の開港を命じた。多摩地区ではお寺が使われています。地方自治体の予算で校舎が建設されたのは明治20年頃からです。

湘南地方は「不如帰」ではありませんが政界・財界の多くが秘書、転地療養に別荘を作りました。江戸時代から江ノ島は江戸庶民の物見遊山の地ですから不思議ではありませんね。

良い写真を紹介して戴きありがとうございます。
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ご参考までに (ジョージ)
2005-06-20 15:49:24
少し長くなりますが、説明文の全文を転載します。なお、文中に出てくる小笠原東陽の墓もこの近くにあります。



市指定・史跡

耕余塾跡

耕余塾は、明治5年3月に羽鳥村名主三觜八郎右衛門が村内の幼童の教育のために小笠原東陽を招いて羽鳥村の廃寺徳昌院の本堂を学舎にして読書院の塾名で開設された私塾で、同11年3月に新学舎の他に寄宿舎を併設したのを機に塾名を耕余塾と改称すると共に教育内容の拡充を図り、中等教育を行うまでに至った。しかしその後公立学校の充実と欧米の進歩的学風の流入により経営は困難を極め、こうした中で同20年8月に東陽が病没すると、その後を娘婿の松岡利紀が引き継ぎ、同23年には塾名を耕余義塾と改称したが、東陽亡き後はその精神的支柱を欠き、又県下の諸学校の充実と施設面での遅れとが相俟って、経営は一層困難となり、これを打開するために高等の普通学科を授業内容としたが、功を奏さず、遂に同38年9月の暴風により校舎が倒壊すると、再建のめどがたたぬまま閉塾することになった。しかし、ここからは、政、財界で活躍した多くの人材を輩出し、後に首相となった吉田茂もその一人である。

昭和44年2月8日指定

藤沢市教育委員会

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アリガトウ (こんちゃん)
2005-06-20 21:00:27
大変 詳しく解説 有難うございます。

当多摩地区の禅臨寺は維新後村の名主 富沢家(新撰組のスポンサー)が私財を出し私塾を開きました。先生は新撰組生き残りの「斉藤一諾歳」です。一諾歳は塩山の寺の坊主で教養があった。しかも幸い新政府からも見逃され富沢氏が杉下朴才と改名し熟成の指導にあたりました。禅臨寺は明治5年そのまま多摩村の小学校になりましたが明治20年正式に村立 小学校が開校(現在の多摩市役所)され塾はなくなりました。新撰組余話。



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新撰組余話 ()
2005-06-20 21:20:15
 丁寧な解説有難うございます。

当多摩地区には新政府の命を受け村長 富沢氏(新撰組スポンサー)が禅臨寺に塾を開設しました。塾長は新撰組生き残りの斉藤一諾歳です。一諾歳は塩山の寺の坊主でした。甲陽鎮武隊の新撰組が宿泊した寺の住職でした。

板垣退助の官軍の攻撃に退却、富沢家が一諾歳を匿いました。明治5年一諾歳を杉下愚庵の変名で塾長になりました。

明治20年村立 多摩小学校が現在の多摩市役所の地に開校されると塾は閉鎖されました。

一諾歳の墓は現在八王子市に併合された禅臨寺の近くにあります。昨年の新撰組ブームにも紹介されない新撰組余話の一席 オワリ
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小笠原東陽・松岡利紀の墓 (ジョージ)
2005-06-22 16:02:52
いつもコメントありがとうございます。

耕余塾に関心をお持ちの様子ですので、同塾を主催した東陽と利紀の墓(二人の墓は並んでいる)のそばに立っている教育委員会の説明文を、以下に転載します。



小笠原東陽・松岡利紀の墓

東陽(1830-87)は美作国(岡山県)勝山藩士小笠原忠良の三男として生まれる。三歳の時父を失い、26歳で昌平坂学問所に入り佐藤一斎、安積艮斎 [ごんさい] に学び、林鶯渓の門下生となるが、明治維新後脱武士として池上本門寺で僧たちに漢学を教えていた。明治5年、羽鳥村の三觜八郎右衛門の招きで村内の廃寺徳昌院に読書院という郷学校を開き、村内幼童の教育指導にあたった。明治5年の学制発布によって読書院は羽鳥学校となったが、東陽はこれとは別に読書院を存続させ独自の教育をおこない、明治11年には学舎を建てて耕余塾と改称した。東陽は明治20年(1887)8月58歳で没し、女婿松岡利紀がその後を継ぎ、明治30年に廃塾になるまでに、村野常右衛門、平野友輔、武藤(金子)角之助、吉田茂など、政、財界を中心に多くの時の人材を輩出した。
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