「人は自分の見たいものしか見ようとしない」
誰の言葉だったか、妙に納得したので覚えてしまったセンテンスです。
別の本では同じ内容で、霊的な世界においても自分の見たいものを見ている人が殆どなので、見られている現実が真実かどうかは分からないので気をつけろと言います。自身の今のレベル、質でしか見れないという現実。質以上のものを分かるにはただただ虚心坦懐、在りのままを受け容れる力をつけること。ある宗教家は人を観るに及んで、禊ぎを執り行い、心身共にきれいにし、さらにある透視の試験をして全問正解する時以外は霊視はしないといいます。一問でも間違う場合は自己の我が反映していると捉えて、人を観るということに対する厳密さを一貫して貫いていたそうです。当然、この方の観る力が凄まじかったことは言うまでもありません。
最近、テレビでSNSの詐欺や出会い系の被害についての特集を見ました。誰もが自分が引っかかるわけがない、騙されるわけがないとして行動し、それで引っかかってしまっています。SNSはパソコンかスマホでやるので極めて個人的な事になります。これらのトラブルに巻き込まれる際の人の心理としてはまさに「自分が見たいものしか見ようとしない」ことに尽きます。全て自分の期待値が加味されてしまい、冷静な時なら見向きもしないことでも、何だか良さそうに見えてしまうのです。出会い系は特に少しの画像と言葉だけで判断の材料が極めて乏しいのに、優しそうな言葉に対しては全て肯定的に捉えてしまい、自分で勝手に安心してしまうのです。
「自分で見たいものしか見ようとしない」もしくは「自分で見たいものしか見えない」
こういう状態の人に全く違う観点でモノを言っても通じないかもしれない。もしくは当人とっては心地良くない言葉を現してしまうかもしれない。反発や不信を買うかもしれない。でも自分はあえてこういう表現をしてくれる人にこそ本当の優しさを感じます。今の時代、誰もが自尊心が高く、人にあえて何かを言う関係性がどんどん失われています。そのことを受け容れる度量も下がっています。大変難しい時代になってきていると感じますが、だからこそ大きく生きていきたい、この大きさは受け容れる度量はもちろん、自分が見えなくともさらに大きな世界が存在し、分かる人がいるという現実を受け容れることでもあります。
大きく生きる。
大きく生きる人を大人という。
教育や学習は全て大人になるためのプロセス。
この基本が今、だいぶ忘れられている気がします。