ボランティアの2日目(7月17日)。宿泊の八幡平ロイヤルホテルを午前6時過ぎに出発しました。
朝食はホテルで取れないので、コンビニおりぎり2個、緑茶(ペットボトル)、バナナゼリーが配られて、バス内で食べました。
リーダーの話しで、今日の活動の場所はボランティアセンターで受付をしてから決まるので、昨日と同じ所になるかは、まだ判らないとのことでした。
午前10時前に昨日と同じセンターに到着。リーダーの受付を待ちました。その結果、こちら側から昨日と同じ所での作業を希望して、了承してもらえたとのことでした。
10時半ころ現場に着いてから、作業開始。この日は瓦礫(大半は散乱したゴミ)の片付けでした。
さて、この作業の依頼主は、この方でした。陸前高田市小友町冥加沢地区の佐藤照夫さん。
作業の合間の休憩時に、3月11日の被災の実体験をお聞きできました。
以下はその概略です。
「3.11当日は(この作業場所)付近の集会所で会議中だった。地震発生後に何とか建物を出たところで、高齢女性2人が立っているの見た。そのままでは津波で危ないと考えて、高台方面へ逃げるよう勧めたが、怖さで動けないでいるようだった。何とか避難させたが、その時には、佐藤さんの足元近くに波が迫っていた・・・」
もう1つですが、「自分はチリ地震津波(*)の時、別な地区に住んでいて被災したため、こちらに移ってきた。生活していくために左官の技術を活かして、出稼ぎで生きてきた。北海道も沢山のマチに行った。景気が良かったから家族をしっかり養えた。」
人の人生で大規模な津波に2度も遭うとは・・・と愕然としました。でも佐藤さんは、決して落ち込んではいない様子(に見えました。)。現在、農業委員や地区の世話役をやっていて、復旧・復興に日々奔走されているようでした。
次の写真は、家屋が流出した跡の瓦礫を撤去した後に撮ったものです。佐藤さんの話しでは、すごく大きな家屋が建っていたそうです。(佐藤さんの家屋ではないとのこと。)
同じ家屋のあった敷地の周囲のブロック塀です。かろうじて形を留めていますが、余震で倒壊の危険があるようでした。
こちらは、直ぐ近くの海岸線に構築された防波堤です。上記の佐藤さんのお話しでは、高さ7Mあったとのこと。しかし、津波はこの上を更に10M超えて流入してきたそうです。その時に破壊されたのでしょう、こんな様に大きなコンクリート板状に倒れていました。
破壊された防波堤は、震災当時のままだろうと思います。従って何も無い空間の先は、海抜0メートルの状態でそのまま「海面」です。それで私がふと感じたのは、この先余震があって津波が来た場合、このままでは全く防ぎようがないのでは??ということです。少なくとも「矢板」の類を打ち込むような仮の防護を施すべきではないのかな??と思いました。このようなことは当然、関係自治体や県庁でも考えているのでは、と思います。ただ、一刻も早く手を打つべきではないかと思うのですが・・・
午後の作業を終え我々が現場を引き上げる前に、佐藤さんがお礼などを言っているところです。佐藤さんには、これからも頑張っていただきたいと思いました。(ボランティア参加者全員の願いでしょう。)
現場からボランティアセンターへ戻る時に、バスの窓から見えた高田市の市街地?です。壊れた建物や骨組みと瓦礫を積み上げた山しか見えません。
傍まで行くことが出来るならということで、高田松原に一本残った松を見るべくバスを回してもらったのですが、道路事情で行けませんでした。写真の円形の屋根の建物の裏側になるそうでした。
この人は、北海道放送(HBC)ラジオの「山根あゆみ」さんです。「カーナビラジオ午後一番」でキャスターを務めています。仕事としてではなく、個人として参加したそうです。16日夜に八幡平のホテルで合流し、17日の作業に従事。夜、八戸駅でツアーの一行と別れて、又JRで札幌に帰りました。
さて、帰りにボランティアセンターで300円の寄付に1枚いただいたワッペンです。今、マグネットシートと組み合わせて、こんな風にマイカーのリアゲート&運転席・助手席ドアに貼っています。
朝食はホテルで取れないので、コンビニおりぎり2個、緑茶(ペットボトル)、バナナゼリーが配られて、バス内で食べました。
リーダーの話しで、今日の活動の場所はボランティアセンターで受付をしてから決まるので、昨日と同じ所になるかは、まだ判らないとのことでした。
午前10時前に昨日と同じセンターに到着。リーダーの受付を待ちました。その結果、こちら側から昨日と同じ所での作業を希望して、了承してもらえたとのことでした。
10時半ころ現場に着いてから、作業開始。この日は瓦礫(大半は散乱したゴミ)の片付けでした。
さて、この作業の依頼主は、この方でした。陸前高田市小友町冥加沢地区の佐藤照夫さん。
作業の合間の休憩時に、3月11日の被災の実体験をお聞きできました。
以下はその概略です。
「3.11当日は(この作業場所)付近の集会所で会議中だった。地震発生後に何とか建物を出たところで、高齢女性2人が立っているの見た。そのままでは津波で危ないと考えて、高台方面へ逃げるよう勧めたが、怖さで動けないでいるようだった。何とか避難させたが、その時には、佐藤さんの足元近くに波が迫っていた・・・」
もう1つですが、「自分はチリ地震津波(*)の時、別な地区に住んでいて被災したため、こちらに移ってきた。生活していくために左官の技術を活かして、出稼ぎで生きてきた。北海道も沢山のマチに行った。景気が良かったから家族をしっかり養えた。」
人の人生で大規模な津波に2度も遭うとは・・・と愕然としました。でも佐藤さんは、決して落ち込んではいない様子(に見えました。)。現在、農業委員や地区の世話役をやっていて、復旧・復興に日々奔走されているようでした。
次の写真は、家屋が流出した跡の瓦礫を撤去した後に撮ったものです。佐藤さんの話しでは、すごく大きな家屋が建っていたそうです。(佐藤さんの家屋ではないとのこと。)
同じ家屋のあった敷地の周囲のブロック塀です。かろうじて形を留めていますが、余震で倒壊の危険があるようでした。
こちらは、直ぐ近くの海岸線に構築された防波堤です。上記の佐藤さんのお話しでは、高さ7Mあったとのこと。しかし、津波はこの上を更に10M超えて流入してきたそうです。その時に破壊されたのでしょう、こんな様に大きなコンクリート板状に倒れていました。
破壊された防波堤は、震災当時のままだろうと思います。従って何も無い空間の先は、海抜0メートルの状態でそのまま「海面」です。それで私がふと感じたのは、この先余震があって津波が来た場合、このままでは全く防ぎようがないのでは??ということです。少なくとも「矢板」の類を打ち込むような仮の防護を施すべきではないのかな??と思いました。このようなことは当然、関係自治体や県庁でも考えているのでは、と思います。ただ、一刻も早く手を打つべきではないかと思うのですが・・・
午後の作業を終え我々が現場を引き上げる前に、佐藤さんがお礼などを言っているところです。佐藤さんには、これからも頑張っていただきたいと思いました。(ボランティア参加者全員の願いでしょう。)
現場からボランティアセンターへ戻る時に、バスの窓から見えた高田市の市街地?です。壊れた建物や骨組みと瓦礫を積み上げた山しか見えません。
傍まで行くことが出来るならということで、高田松原に一本残った松を見るべくバスを回してもらったのですが、道路事情で行けませんでした。写真の円形の屋根の建物の裏側になるそうでした。
この人は、北海道放送(HBC)ラジオの「山根あゆみ」さんです。「カーナビラジオ午後一番」でキャスターを務めています。仕事としてではなく、個人として参加したそうです。16日夜に八幡平のホテルで合流し、17日の作業に従事。夜、八戸駅でツアーの一行と別れて、又JRで札幌に帰りました。
さて、帰りにボランティアセンターで300円の寄付に1枚いただいたワッペンです。今、マグネットシートと組み合わせて、こんな風にマイカーのリアゲート&運転席・助手席ドアに貼っています。