「評価読み」の世界・新 (森田 信義)

古くて新しい読みの世界を学校に。

意味段落分けという行為

2016-02-17 22:20:10 | 日記

  (画像をクリックして下さい。大きな画面で読むことができます。)

 本当に久しぶりに書き込みをします。(国語教育クリニックというブログにも同じものを投稿しておきます。)
 先日、研究会(自宅での月例会)に、「どちらがなまたまごでしょう」(教育出版 3年生)が持ち込まれた。授業がなかなかスムーズに行かなかったということであった。そこで、教材研究からやり直してみることにした。
 授業では、最初に,意味段落分けをさせたが、これが難渋したという。
 そもそも、「意味段落分け」とは、いかなる意義を持つ行為であろうか。私たちの日常の読みにおいて、意味段落に分けるなどということはしない。しなくても困らない。また、文学の場面分けも,日常的な行為ではなく、しかも支障はない。
 どうやら、精読のための部分を設定するための手続きのようである。むろん、意味段落が、根本的に不要というわけではない。意味段落は、読みの最終段階において把握でき、それによって,文章の構造の特徴が理解できるということになるのであり、通読後に簡単に把握できるようなものではないのである。
 文章全体の意味段落は、直ちに把握できるものでないとするなら、いつもいつも教材文の全体を読みの対象にするしかないのか、あるいは,一読法のように部分の積み重ねしかないのかということになるが、それも問題がある。
 文章には、明らかに、一つの意味のかたまりを有する部分がある。「ここからここまでは、一つのまとまりになっている」という部分である。教材文全体の意味段落は把握できなくとも、文章の中の「まとまりを持つ部分」については把握できることが多い。いつもいつも、「はじめ」「なか」「おわり」という定式を求めて苦労することは賢明とはいえない。「まとまりとして把握出来る部分」を摘出して、結果として、文章全体の構造が分かればよい。教材文を利用しながら、それを実践してみよう。
 「どちらがなまたまごでしょう」は、14段落からなる文章である。これをいきなり、「はじめ」「なか」「おわり」として分析的に把握することは至難のわざであるが、③段落と④~⑩段落、⑪段落と⑫~⑬段落は、「問い-答え」という仕組みを持つまとまりである。このことの理解は、さほど難しいものではない。「問い-答え」は、一年生の時の説明文で学習済みである。この部分が分かれば、③段落から⑬段落までの大半の部分の段落の役割が分かる。敢えて言えば、③から⑩までの部分と、⑪~⑬の部分とが、どのような関係になっているのかが分かれば、本教材の論理構造の重要部分の把握は、ほとんど済んだと言ってもよい。⑩で、いったん答えを出し、⑪~⑬で、その答えの補足説明(解明)をしているのである。残る段落は、①②と⑭であり,これを「まえがき」「あとがき」とすれば、多くの児童も納得がいくであろうし、クイズのような、手探りで非論理的な意味段落分けという難事業から解放されるはずである。
 意味段落分けについてへあ、結論的に、次のようにまとめることができる。
  一読後に,文章の意味段落分をさせるというのは無理な行為である。しかし、文章の中の部分としては、ある種の「まとまり」を持ったものを発見することはできるであろう。把握できる部分の構造をとらえ、また、他の部分との換券をとらえることで、文章の重要部分の論理構造をとらえることが可能なことが多い。結果として,文章全体の論理構造とそのような構造や表現を生み出した筆者の工夫とその達成度及び問題が発見できれば、それで十分であり、これが、私たちにとって、無理のない読みである。

案内

2014-06-04 04:35:48 | 日記
 「評価読み」に関するブログの更新が遅れ気味になっております。
 このたび、「国語教育クリニック」なるブログを開設しました。そこでは、評価読みはもちろん、国語教育に関するあらゆる問題について、みなさんと一緒に考え、解決を図るためのコミュニケーションの場を提供しています。ぜひ、覗いてみて下さい。

 http://blog.goo.ne.jp/kokugoclinic

実の場の論理的思考と行動

2014-05-12 21:50:40 | 日記
 このところ、奇妙な事件、事故、あるいは政治・経済的状況ないしは問題が多発しています。情報化社会にあっては、テレビ、新聞、雑誌、インターネット等を通じて、否応なしに多種多様な情報が入り込んできて、その処理に戸惑うことになります。
 しばしば行われる放送局や新聞社によるアンケートの回答に多いのが、「どちらともいえない」という一時しのぎです。問題を切実に考えていないか、考えるのが面倒、どう考えればよいのか、その方法が分からないということを表現しています。生死に関わる問題の場合は、このような対応はしないでしょうが、ついつい、複雑な問題、割り切れない問題の場合は、一時しのぎに、このようなことになるのです。選挙でいえば、「支持政党なし」という立場に通じます。現状を見ると、支持したい政党がないこともよく分かりますが、限られた選択肢から選ばざるを得ないときには、結局、何かを選択する決意をしなくてはなりません。(私も、選択肢が存在しなくて、投票率の低下もひとつの批判、批評になるかと考えて、投票に行かないことがありますが、「支持者なし。」「適格者なし。」と書いてくることもあります。)
 事故への対応についても、他者の意見や指示に従っているだけでは、命の保証がないことが,先のフェリーの大事故によって明らかになりました。続いて起こった地下鉄事故では、フェリーの場合と同様のアナウンスがあったにもかかわらず、乗客は,我先に外に跳びだして事なきをえました。切実な経験が、選択の方法を変更する力になったのです。
 経済も大きく動いています。教育改革も行われようとしています。多様な状況をどうとらえ、どう行動すればよいのか分からないことが少なくありません。このところテレビ番組に「白熱教室」が流行しています。これなどは、問題をどう考えればよいのかの手引きをする番組だと思われます。また、専門家による解説番組も特別番組として放映され、人気を博しているようです。
 分からないことは分かっているひとに尋ねる、専門家の説明や講義を聴くというのも解決方法の一つです。国語の教科書などは、このような種類の行為を要求しがちです。専門家の説明、解説、主張は、素直に理解し,従いましょうということになる。教科書に収録されているほどの文章であり、それを書いた人物なのだから、間違っているはずはないということです。しかし、このような読みが、常に正しいとは言えないこと、原則として受け容れるということがしばしば誤った対応を生み出すことが,次第に明らかになってきました。つまり、「判断の丸投げ」は、学校から消滅したわけではありません。

 大人の私たちが困っている状況は、過去の学習、経験の積み重ねの結果です。現在の児童、生徒にも、私たちの子ども時代と同じような教育をしていれば、成人して,今の私たちと同じ状況になるに違いありません。
 佐賀県では、官民一体の小学校が開校する運びになっているようです。このことには、私は大いに批判的ですが、参入する塾の責任者は、「最初は、高校生を対象に始めたが、高校からでは遅いことがわかったので、小学校から始めることにした。」と、至極もっともなことを言っている。同じ事を、もう100年以上も前に、アメリカの経験主義の実験(大学附属)学校の指導者が、報告書の中に書いているので(歴史に学ばないというのも、わが国の教育の混乱の元である)、とても、新しい発見とは言えないが、真実であることに間違いはありません。
 私たち教育関係者は、人間の成長過程において、可能な限り早い時期から、ものごとを,自分の頭で、客観的、論理的にとらえ、自信を持って結論、決定がく出せる機会を提供しなくてはなりません。しかも、生活体験と関連させつつ指導しなくてはなりません。この当たり前のことが、これまで出来ていないのです。幸か不幸か、国語科は、最多の時間配分をされている教科であり、しかも、現実の生活との関係の深い内容を抱え込んでいると考えています。読むこと,書くこと、話すこと・聞くこと、言語のすべての内容が、主体的思考、判断、行動に関連しています。現実の生活では、これらが有機的に関連して行われます。戦後まもなくの「経験単元」が、すべての言語活動の総合性に目をつけていたのは、当然のことでした。ただ、今は、戦後まもなくという時期ではありません。歴史の成果と問題に学んで、現在の実の場に生きる子ども達の思考、判断夜行働を支えるための教育を追究する必要があります。それを、児童に対する国語の学習指導から始めてみましょう。未来の私たちのために。

非教育的あるいは自虐的な試み-『どうぶつの赤ちゃん』の扱い-

2014-01-15 02:22:26 | 日記
 第一学年用の代表的な,長寿教材「どうぶつの赤ちゃん」(ますい みつこ)には,次のような特徴がある。
 1.文章の構造が、「はじめ」-「なか」-「おわり」ではなく、「問い」-「答え」となっていること。
 2.「どうぶつの」という壮大な対象にかかる説明、解説の行為であるのに、わずかに「ライオン」と「しまうま」という二種類の動物しか取り上げていないこと。
 言わずもがなのことであるが、低学年用の説明文教材は、決して易しい読み物ではない。幼い者に対して行う説明は、論理も言葉も単純なものでなくてはならず、また分量的にも極めて限られている。低学年の児童に対する説明文作成行為は、実は至難とも言える性格を持っている。
 物事には、「はじめ」があり、「なか」があり、「おわり」があるのが普通である。文章・作文も、基本的にはこのような構造を持っていることを指導したい。変形のものがあるにしても,基本型として教えておきたい。
 しかし、低学年教材には、「問い」-「答え」という構造が少なくない。その理由は、構造が単純であることである。つまり、筆者が設定した問題とそれに対する答えとの対応関係がとらえやすいのである。「はじめ」-「なか」-「おわり」という基本型の持つ難点(低年齢の幼児・児童に対しての)は、端的に言えば、「おわり」に存在する。
 「おわり」とは、「総括」「まとめ」であり、換言すれば「抽象化」である。低年齢の児童は、ものごとを「具体的な相」でとらえている。物事を具体的にとらえることが不要なわけではない。具体的な相で把握することを、わが国の伝統的な作文教育である生活綴り方では、「概念くだき」と称して重視している。これは理由があることで、例えば、「昨日運動会がありました。楽しかったです。」というような概念的な作文(つまり概念的な認識をした結果)を書く児童が少なくない。「『楽しかった』という言葉を使わないで、楽しかったことが分かることをくわしく書きましょう。」という指導する意図も分かる。作文が,描写という手法で、生き生きしてくるのである。
 ところが、概念くだき、描写には、そのよさとともに限界もある。それは、抽象化の行為であり、一般化、法則化(他の物事にも通じる、本質の認識)がしにくいということである。(生活綴り方には、「概念づくり」という用語もあるが、それは、ここで言う抽象化行為に関わるものである。)小学校も後半学年になれば、抽象化能力も格段に発達するが、低学年に多くを期待することはできない。こういう問題を考慮した結果が、「問い」-「答え」という論理構造の文章なのであろう。
 私が、研究のアドバイザーとして関わった広島県福山市のA小学校で、この教材の研究をする際に,当然、上記のような話をした。この教材の特徴、長所と問題、限界を理解すれば、単純に「問い」-「答え」の構造を指導して終わるのでは不満になってくるのもまた無理からぬことである。いわば冒険がしたくなるのである。
 一年生担当のK教諭は、公開研究会の事前に行われた学習指導案検討会の場で、この教材の存在しない「おわり」に取り組む授業を構想していた。なぜ「おわり」がないのかを,児童に発見させようというのである。
 常識的には、そのような授業構想は避けるはずである。一年生が、真面目に、一生懸命に頭を働かせて、「おわり」を作ろうと努力した結果、「終わり」は書けない、どうしても無理だ、だから「おわり」がないのだと気づかせるのは、教育的でない。あまりに自虐的である。しかし、K教諭の熱意は冷めることがなく、私は、「思い切って、やってみよう。」と同意したのである。
 公開研究会当日、私は、高学年の授業の講評を担当していたので、一年生の授業を観察することができなかったが、低学年の授業の講評者から、とても面白い授業であったという感想を聞くことができた。一年生は、がっかりするのでなく、「おわり」がないという理由を、苦労の結果として発見することができたと感動したもののようである。
 児童は、わずかに二種類の動物を事例として取り上げただけの文章につけられた「どうぶつの赤ちゃん」という題名では、動物一般の子どもの特徴をまとめることは難しいことを認識した。私は、このことを認識しただけでも大したものだと思う。が、児童には、さらに、「どうぶつの赤ちゃん」という題名に問題があるので、それを変えようという代案を出すほどの力がある。そのような反応があることは、他の小学校の事例としても耳にしている。これは、問題の認識を超えて新しい文章(建設的な認識の結果としての)の創造である。児童は、学習過程の随所で、このような創造行為を発揮し、観察者を驚かせる。
 一年生は「ただ者ではない。」ということである。
  

複数教材の扱い方

2014-01-07 22:49:13 | 日記
 専攻科生の演習で、東京書籍5上用教材「動物の体と気候」を取り上げ、教材研究と模擬授業をしてもらった。
 「動物の体と気候」は、増井光子氏の手になる、なかなか面白い文章であるが、改訂前(平成16年検定)には、
「動物の体」という名前で、やはり同じ筆者の文章が収録されている。
 このような二つの教材を前にすると、まずは、両者を比べてみようという気になるはずである。さらに、比べた
結果として、どのように異なる個性を持ち、どちらが説明として上質、妥当であるかを吟味・評価することになる
はずである。
 学生の教材研究も、そのように進められた。
 ちなみに、二つの教材の違いとは、上記のように「題名」が異なっている。さらに、事例として、平成16年版
には、後半に、ヒトコブラクダが8段落にわたって説明されている。
 なぜ、ヒトコブラクダの事例を取り上げたかは、次の段落で明らかにされている。
 ⑭「動物たちの環境への適応の仕方は、これまでに述べてきたような、外から見える形だけではない。体の中の
  仕組みも、それが住んでいる環境に適応している。」
 前半の事例が、外から見える形(体型、体格、毛皮)に対して、後半は、体の中の仕組みを取り上げているので
ある。このような論理構造は、「体を守る皮ふ」という教材にもあったことを思い出した。児童に、ぜひとも出会
わせておきたいものの一つである。
 これらの他の両者の違いは、「題名」である。そのほかにも些細な違いがあるが、今は、それを問題にはしない。
 さて、題名が異なり、事例が異なる二つの文章であるが、意外なことに、まとめの段落は、全く同じである。そ
の段落を、以下に引用しておく。(教材全文をここに引用することは避ける。改訂前の教科書といえども、つい先頃
まで使用していた教科書の教材であるから身の回りのどこかに存在するはずである。)
 ⑭あるいは㉒
 「環境に適応しながら生活を営んでいるのは、これまでに挙げたような動物に限らない。動物たちの体は、それぞ
 れに、すんでいる場所の気候や風土に合うようにできているのである。それは、自然が長い年月をかけて作りあげ
 てきた、最高のけっさくであるといえるだろう。」

 ここまでの教材研究は、だれでもできるであろうし、またできなくてはならない。問題は、この先である。これ
らの解明された事実を、主教材(現行教材)の読みを確かなものにするために、どう生かすことができるのであろう。

 試みに、次のように問いかけてみよう。
 「二つの教材は、題名も、取り上げた事例も違うところがあります。それは、小さな違いとは言えません。二つ
 の教材のは、まずヒトコブラクダの事例のある文章があり、それからヒトコブラクダの例をなくしという関係に
 なっています。
  さらに、題名も『動物の体』から『動物の体と気候』に変わっています。
  でも、両方の教材のまとめの段落は、全く同じです。このことは、少し奇妙なことですね。ヒトコブラクダの事
 例を削除してしまったことを考えながら、まとめの段落を読んで、何か気づくことがありませんか。」

 かなり高度な問いかけかもしれないが、私が観察し、報告を受けた授業では、児童は、すぐに「風土」という読み
慣れない語句が突然出現することに違和感があると反応している。
 教材の題名「動物の体と気候」に照らせば、風土という言葉を使用する必要はなかったであろう。

 ここで、まとめの中の用語を確認し、整理しておきたい。

 1 環境 2 気候 3 風土

 これらは、どういう関係になっているのであろうか。何の説明もないので、児童は想像するしかないが、おそらく、
 「環境」という上位概念の下に、「気候」と「風土」があるという関係なのであろう。しかし、それにしては、「風
土」という語の内容は、複雑である。何の配慮もなしに使用してよい語ではない。児童は、国語辞典で、「風土」の語
義を探すであろうし、そうすべきであろう。すると風土の中に、気候が含まれているような説明が多い。両者は、「や」
で列挙される関係とは言えないかもしれないのである。
 ヒトコブラクダの事例は、砂漠という暑く、水の欠乏を条件とする環境である。これは、「気候」という言葉で処
理しきれない環境であり、筆者は、それを「風土」としたのであろう。この事例がなくなったのであるから、まとめの
段落の「風土」も、削除した方が分かり易かったのではなかろうか。

 内容としては面白いが、論理的に読もうとすると、いくつかの不具合が生じる。増井氏は、『どうぶつの赤ちゃん』
の特徴を、ライオンとしまうまの二つだけで説明しようとした(これも昔はカンガルーの事例をもつ教材が存在した
のであるが、それにしても三種類に過ぎない)ほどに大胆な人であり、この教材でも大胆かつ大ざっぱなとらえ方とい
う個性が随所に見られるのであるが、それは、致命傷というほどではない。しかし、ヒトコブラクダの事例を削除した
結果の処理には、十分と言えない問題が残っていると言わざるを得ない。

 5年生の児童が、この教材にどう取り組み、どう読み深め、どう評価するか、挑戦してみてほしい。

成人力の高得点の考え方

2013-12-06 03:18:47 | 日記
 OECDの国際調査が、高校一年生(15歳の生徒)を対象にして行われることは、PISAの試験として広く知られているが、このほど、成人についての国際調査の結果報告があり、予想に反して、読解力を始めとして、数学的思考でも、日本がトップだったというので驚いた。
 リテラシーの定義は、高校生に対するものと同じであり、15歳の生徒の場合には、日本は、学力の低下に悩まされてきていた。その事実と照らし合わせてみると、奇妙なこととしか言いようがない。
 小学校、中学校段階では、クリティカルに読書するという行為に必要な能力の育成を怠ってきたために、望ましい結果が得られなかったはずである。それが、成人(16歳~65歳 11000人を選び、回答者は5173人)を対象にした調査結果が、1位というのは、なにやら狐にだまされたような感じがする。従来から文科省は、「生きる力」というスローガンを掲げ続けてきているのだから、その成果が、やっとあがったのだというかもしれない。
 しかし、私は、その説に与しない。実際には、実社会における読みは、文章を、書いてあるとおりに読んで済むものではない。誤りもあれば、意図的に偏ったり、必要事項が欠落していたり、飛躍していたりするものが多く、これらは、読み手自らが主体的、批判的、評価的に読まないと、とんでもないことになるということに気づいた結果であろう。義務教育を終了してから、社会に出て、学校で教わる読み方だけでは通用しないということを認識し、「確認の読み」に加えて「評価の読み」の能力を身につけたのであろう。
 もっとも、小学校、中学校でも、PISAの不振に鑑みて、学力テストに、AタイプとBタイプの二つを用意し、Bタイプは、吟味・評価の能力を問うものになっている。日本の小、中学生も、否応なく、Bタイプという新しい発想の問題に直面せざるを得なくなっており、何よりも指導者が慌てて対応を考え出している。先日の15歳の生徒に対するPISAの調査結果発表によると、日本の生徒の読解力の成績は向上しているというから、これはこれで、成果を挙げつつあるのであろう。ただし、それが、成人力に直結するほどの効果を持つに至っていないことは言うまでもない。
 このように考えると、学校は、自分たちの努力が,成人力の高得点を生み出したと考えるのではなく、自分たちの指導は、成人の読みの生活に役立つ性格のものとはほど遠く、迷惑をかけてきたが、このほどようやく、実の場でも機能するような読解力を育成すべく,学校教育を改善することに着手したところであり、まだまだ、効果が上がるまでに時間がかかるだろうという立場に立つのが妥当ということになろう。

小学校・中学校の説明的文章教材と高等学校の評論文教材

2013-11-14 22:50:37 | 日記
 先日、高等学校の現代文教科書の中のある評論文教材の教材研究の相談を受けたのがきっかけで、「評価読み」の教材研究をするつもりで、、評論文教材を読むことになった。
 日頃は、小学校の説明的文章教材を読むことがほとんどであり、小学校の教材はよくできていると感心している。
 もちろん、それぞれの教材には、よさとともに瑕疵もある。それは、完璧でない人間が書く文章であるから、完璧なものはないという当たり前の事実の反映である。しかし、瑕疵があることは、「評価読み」という行為をする上で、重要なエネルギー源となる。「評価読み」は、欠点を見つけることではないが、一般に、長所よりも短所の方に目が行きがちであるのは、教員の児童、生徒を見る目、教師が児童・生徒の作文を評価する際の目の付け所を考えればよく分かる。教材の長所と短所を見出し、読者の立場から吟味・評価するためには、長所から入ろうが、短所から入ろうが大した問題とは言えない。
 小学校・中学校の国語教材は、読み手である児童・生徒の能力レベル、興味関心のありように照らして、あまり無理のないようなものが多く、偏りや欠落、飛躍等がある場合も、そのことを問題にして読みを深め、広げ、問題を解決するという行為が可能なことが多い。いわば、瑕疵があるにしても「よき瑕疵」なのである。それを手がかりにして読みの質が向上する可能性を秘めた瑕疵である場合が多々あるということである。
 さて、前出の高等学校の評論文教材である。
 一読して、何を書いているのか判然としない。奇妙な語彙が突然出現する。内容も生徒の関心からほど遠い「死の哲学」に関するものであった。
 教材文の冒頭が、「例えば」で始まる。書き下ろし教材でないことは一目瞭然である。先行する記述がばっさり削除されている。いきなり「例えば」で始まる文章は、良質な母国語の文章を指導する場である国語科の教材として不適切である。これが、軽妙なエッセイであるのなら、まだ許容範囲内であるが、今回は違和感がある。かつて、大学の入学試験作成の検討会議に、「例えば」で始まる素材が提出され、ただちに否決という憂き目にあったが、それは当然であった。
 高等学校の評論文教材は、一般に長大である。もっと短く、端的に要旨がとらえられ、しかも、筆者の個性に裏打ちされたものが望ましい。
 長大な、その教材文には、論理展開上、いくつかの飛躍があった。その理由は、随所に原文の削除があることのようである。筆者が、ひとまとまりの論理構造をもつ文章を書いた場合、その部分を複数箇所削除してもよいということはあり得ない。それは、文章として、最初から破綻しているのである。なくてもよいことを、多数書き込んでいた冗長な文章だったということに他ならない。高等学校の評論文教材の研究に際しては、原典との照合が必須のようである。これは小学校・中学校の場合も同様であるが、高等学校の場合は、構造が、長大、複雑であるため、さらに重要である。
 教材文の最終部分には、「要するに」で始まる文がある。この言葉は、ここに至るまでの論証が不十分、不満であることを含意していることが多い。「要するに」は、小・中の「つまり」に近いが、それよりは感情的、主観的である。
 国公私立の大学で、教員志望の大学生を対象にした授業をしてきて、高等学校の現代文教科書の教材レベルの文章を読みこなす学生がいるかどうか、疑問に感じている。時に、「君たちは、どのようにして、大学に合格した?」と聞いてみることがある。それほどに、学生の実態と教材のレベルとの落差が大きいのである。
 毎日新聞の読書調査によると、小学生が一ヶ月に読む書物は6冊だの8冊だのという数であるのに対して、高校生、大学生は、ほとんどゼロに近いことの原因は、案外国語教科書の教材の難解さ、面白くなさにあるのかもしれない。これでは、「生きて働く力」という文科省のスローガンなどとは無縁の行為をしていることになる。
 高校の評論文教材は、もっと平易な問題を、分かり易い日本語で論じた、短編がよいと思う。教師が頭を抱えるような内容と表現の教材を、一方的に解説し、生徒はひたすらその解説をノートに写すというような教育であってはならないであろう。

表現と内容(事実)

2013-10-27 00:17:53 | 日記
 M社の5年生用教材に、「天気を予想する」(武田康男)がある。その最終段落は、次のようである。
 ⑩「科学技術の進歩や国際的な協力の実現によって、天気予報の精度は年々向上しています。それによって、私たちの生活は、いっそう便利になっています。しかし、 いくら的中率が上がっても、『今、ここ』で天気の変化を予想し、次の行動を判断するのは、それぞれの場所にいる一人一人なのです。そのことをわすれず、科学的な 天気予報を一つの有効な情報として活用しながら、自分でも天気に関する知識をもち、自信で空を見、風邪を感じることを大切にしたいものです。」
 「突発的・曲亭的な天気の変化を予想する手立て」として、自分ですることの事例は、⑧以降に書かれている。
 ⑧一つの手立ては、実際に自分で空を見たり、風邪を感じたりすることです。天気が急変するときは、空が急に暗くなったり、かみなりが鳴ったり、生ああたたかい風邪が ふいたりするなど、なんらかの変化があります。そうした変化に気づき、天気が変わる醸しあれないと思うことが、突発的な天気の変化への対処につながります。」
 ⑨天気に関することわざが有効な場合もあります。日本各地には、『富士山にかさがかかると雨』『阿蘇のけむりが西になびけば雨、南になびけば晴れ』のような、地域 に根ざした天気のことわざがたくさんあります。これらは、そこに住む人たちが、新聞やテレビによる天気予報のない時代に、雲の動きや風の向きから天気を予想してい たことをあらわすものです。長い間の人々の経験が積み重なってできたもので、なかには、科学的に説明できるものや当たる確率の高いものもあり、局地的な天気の変化 を予想するのに役立ちます。」
 教材の前半には、天気の制度を挙げるための科学的、国際的な取り組みとその成果が写真や地図、グラフ等を多用して説明されており、そのすばらしさには、感動を覚えるものもある。それに対して、天気予報が100㌫的中することが可能であるのかどうかという問題を立てて、それは、かなり難しいという見解を述べ、特に、突発的な天気の変化と局地的な天気の変化は、予想が難しいという論展開になっている。
 昨年度の教材研究では、後半の、いかにも洗練されない方法と、科学的、国際的な取り組みの成果を比べるとその対比に違和感があり、結局、素朴な経験に頼ることを重視した、アンバランスな教材ではなかろうかという感想を持っていた。
 ところが、今年の異常気象である。各地で、予想を超える雨がふり、竜巻が巻き起こり、大変な事態が起こり、人々は、その急激な天候の変化に振り回された。気象庁も、結局のところ、身の回りの異変には、住民自らがいち早く気づき、安全のための対策(特に避難)をするようにという方向でのコメントを出すようになってきた。私たちも、科学的、国際的な天気予報のみを信頼していては、生命の危険さえ招きかねないということに気づくようになった。
 いつもとは違う音がする、予想外のところから水が出るようになった、などは、素朴な事実である。しかし、それが、身近でおこる災害の先触れであることが多くの被災者から語られるようにもなってきた。明日、雨がふるかどうかという程度のことは、科学的な天気予報で知ることができようが、具体的に、どの地域に、どれほどの雨が降るのか、どのような危険が考えられるのかなどを知るには、さらに具体的な知識、経験が必要になる場合も少なくない。

 まことに、この教材の後半の、いかにも素朴に見えて、気象学者、気象予報士の口にすることではないような印象を与えていたものが、重要な意味を持っていたことを改めて認識した次第である。まさに「科学的な天気予報を一つの有効な情報として活用しながら」「自分でも天気に関する知識をもち、自信で空を見、風を感じることを大切にしたいもの」なのである。(「風を感じる」という詩的な表現に、やや難があるようであるが、これは、さしたる問題ではなかろう。)

 身の回りの事実、現実の変化が、教材の見方に揺れをもたらす事例として、この教材を取り上げ、昨年度の感想を撤回しておきたい。

小学生の「書く力」

2013-09-14 23:10:47 | 日記
 二日連続で、福山市のA小学校に出かけた。いつものことであるが、早朝に家を出て、暗くなって帰宅するまで約12時間という研修会である。
 二日目の9月12日は、前日の夕方に修正した授業案がどうなったのか心配しながら出かけた。6年生の授業で、教材は、「未来に生かす自然のエネルギー」である。
一読総合法風に進めた授業は、風力発電の問題があるという指摘の箇所で立ち止まり、当日は、風力発電の問題点と解決策について論じている箇所の学習である。A校の
本年度の研究テーマは、「書くことを活かした説明的文章の読み」(正式なテーマとは異なるかもしれないが、今は、趣旨そのものに間違いがないので、このように書いて
おく。)
 前日の最終のコメントでは、「児童に、教材文に対応する文章を書かせてみてはどうだろうか。」という一見無謀な提案をしてみた。授業者は、果敢に、それに取り組んだ。そして、できあがったのは、次の文章であるが、その作成過程は、おどろくべきものであった。授業者は、12日に、これまでのやり方とは違う方法を選択したことを
詫びた上で、「風力発電の課題と解決策」について、みんなで書いてくれないかと依頼した。児童は、すぐに取りかかり、グループに分かれて作業を進めるとともに、でき
上がったものを皆で調整し、忙しい中で完成させた。段落構造、事例(課題)の順序(配置)などを検討した末に、できあがったものを、記録のために、ここに書き留めて紹介しておきたい。

「㉑一つ目は、風が横向きだったり、ふかなかったりすると発電できないことです。風車(かざぐるま)は風が前や後ろからふくと回りますが、横からの風だと回りませ  ん。同じように 風車(ふうしゃ)も横からの風だと回りません。
 ㉒この課題を解決するためには、風車のプロペラの形を変えて、風が横向きでも対応できる風車のプロペラを作ることが必要です。また、風がない場合は、海に近い土地で あればかぜがよくふくので多少解決されます。
 ㉓二つ目は、風力発電をするのに適した場所がないということです。風力発電に適した場所は広くて風がたくさんふくところです。そのような場所に設置するには、森林を ばっ採することになり、地球環境に悪影響をおよぼすことになります。
 ㉔この課題を解決するためには、海の干たく、無人島の開たく、海の上に風車を設置するなどが考えられます。干たくとは、海にしきりをつくり、水をぬいて砂をそこにつ めることで時間はかかりますが、この問題を解決できる一つの策となります。
 ㉕三つ目は、少ししか発電ができなかったり大きさにより発電量がちがったりすることです。風力発電は日本のエネルギー消費量の割合がまだ一パーセントしかありませ ん。また、風力発電が進んでいる立川町の風車でも、その地域の電力の七十パーセントしかまかなえていません。
 ㉖この課題を解決するためには、たくさん発電する必要があるのでえ、大きな風車を作り、それをいろいろなところに設置すればいいのです。そうすることによってたくさ んの電力を発電することができます。」

 教材文は、三段落構成になっていて、以下の通りである。
 
「㉑風力を利用してたくさんの発電をするためには大型の風車をもうける広い面積が必要で、そえだけ費用もかかります。風車が大型化すると羽根もおおきくなり重くなり ます。大きくて重い羽根が弱い風でもよく回るようにくふうする必要があります。また、大きな羽根や歯車が回ることによって騒音や振動の問題もあります。最近では改 良が進み、騒音や振動も小さくなってきましたが、完全に問題が解決されたわけではありません。
 ㉒当然のことですが、風力発電機は風がないと電気を作ることができません。また、現在の技術では、大量の電力を貯蔵することができないため、風のあるときに電気を作 っておいて、風のないときに取っておくということができません。このように発電の状態が安定しないというのが、風力発電の弱点の一つです。
 ㉓しかし解決策がないわけではありません。安定した電力を得るために、他の自然エネルギーと組み合わせればよいのです。例えば、太陽光発電の場合、太陽が出ていない 夜間は発電できません。また、雨やくもりの日は発電量が低下してしまいます。一方、夜間や雨、くもりの日でも風はふいていますし、反対に、風がなくて晴天という日 もあります。したがって、風力発電と太陽光を組み合わせた発電装置を設置すれば、年間を通じて安定した電力が得られるでしょう。さらに、風力と太陽光に加え、天候や 季節に左右されないバイオマス発電を組み合わせれば、より安定した電力を作り出すことができます。こうした、複数の自然エネルギーを組み合わせた発電システムも、 今後さらにくふうされていくことでしょう。」

 児童の作成した文章には、複数のエネルギーの組み合わせという発想が見られない。それは、児童への課題が、「風力発電の課題と解決策について書きましょう。」という限定的なものであったことが原因と思われる。教科書の㉑段落の構造と㉒、㉓は、問題と解決策の書き方に整合性がない。児童は、その点もよく考えて、バランスのよい段落構造にしている。
 エネルギーとか平和というような抽象レベルが高く、複雑な問題については、児童にその解決策を求めることは無理であり、それに時間を使うことは無駄ということが多いのだが、今回の児童たちは、よくがんばって、短時間に完成してみせており、感動的でさえある。苦肉の策の、大胆、無謀ともいえる授業案だったが、想定外に児童のすばらしい活動があり、実りのある授業になった。
 過去2回、低学年の児童のすばらしい事例を取り上げたが、一年生から5年半、「評価読み」を続けた6年生の児童の成長もすばらしいものであった。


 児童の書いた文章は、筆者による文章(教材文)と比べ読みをして、それぞれの文章の特徴(場合によっては、問題も)を把握し、教材文の吟味・評価読みをすることが目的である。児童の文章の段落構造である「課題」→「解決策」の組み合わせは、読み手にとって、極めて分かりやすい。教材文では、最初の段落(㉑)は、課題と解決に関する記述をひとくくりにしたものであり、第二の課題についての段落が、㉒+㉓という二段落構成になっているのと異なり、必ずしも分かりやすいものではない。こういう書きぶりが、読み手にとってどの程度に分かりにくく、分かりやすいものかということは、自らの手になる文章と比較することで、一層理解が的確になったと言えよう。

小学2年生の実力

2013-07-07 01:01:25 | 日記
 (今回の事例も、前回と同じ小学校の2年生のものである。)
 小学2年生用教材に「たんぽぽ」を扱ったものが二つある。A:「たんぽぽ」(筆者・ひらやま かずこ、東京書籍2上)と、B:「たんぽぽのちえ」(筆者・うえむら としお、光村図書2上)である。
 教材の一部を、以下に紹介しておく。
 A:⑥ 花が しぼむと、みが そだって いきます。みが じゅくすまで、花の くきは、ひくく たおれて います。
   ⑦ みが じゅくして、たねが できると、おき上がって、たかく のびます。
   ⑧ 晴れた 日に、わた毛が ひらきます。たかく のびた くきの 上の わた毛には、風邪が よく あたります。わた毛は、風邪に ふきとばされます。かる   くて ふわふわした わた毛は、風に のって、とおくに いく ことが できます。(⑦段落は、見本本では、「みが じゅくすと、くきは おき上がって、たか   く のびます。」となっている)
 この教材では、たんぽぽの茎が、いったんは倒れて、実が熟して種ができると、また起き上がることは説明されている。実が熟して、種が出来ることと、茎が倒れている こととの因果関係が、必ずしも、分かりやすく書かれているとは言えない。
  授業者は、他の教科書の類似教材を比べ読みさせることにした。比べる部分を、以下に紹介しておこう。
 B:⑥ この ころに なると、それまで たおれて いた 花のじくが、また おきあがります。そうして、せのびを するように、ぐんぐん のびて いきます。
  ⑦ なぜ、こんな ことを するのでしょう。それは、せいを 高く する ほうが、わた毛に 風が よく あたって、たねを とおくまで とばす ことが で   きるからです。
  ⑧ よく 晴れて、かぜの ある 日には、わた毛の らっかさんは、いっぱいに ひらいて、とおくまで とんでえ いきます。
  ⑨ でも、しめり気の 多い 日や、雨ふりの 日には、わた毛の らっかさんは、すぼんで しまいます。それは、わた毛が しめって、おもく なると、たねを   とおくまで とばす ことが できないからです。
 Bの説明には、「花のじく」(A書では「くき」であるが、厳密にはたんぽぽの花の下の長い茎のような部分は、「軸」なのだそうである。)が、一時的に倒れる理由が書かれている。こちらの方が、軸(または「くき」)の倒れるわけが分かりやすいことは言うまでもない。さらに、B書にはあ、「しめり毛の多い日や、雨ふりの日」には、綿毛は、すぼんでしまうことが書かれ、その理由も明らかにされている。A書よりは、綿毛の仕組みが詳細に書かれている。これは、おそらくB書の「たんぽぽのちえ」の「ちえ」を浮き彫りにするための工夫の一つであろう。この教材は、長い歴史を持ち、一時期、擬人化による説明の方法に対する批判に応えるために、修正がほどこされているが、題名が「ちえ」を含んでいるので、たんぽぽの仕組みを「ちえ」と置き換えることもできなくはないという部分が残っているのは致し方ない。ついでに説明を加えておくが、科学研究の分野では、「擬人化」が否定されているわけではない。理科分野の論文の中に、擬人化による説明の効果を証明しようとしたものもある。擬人化に関しては、国語教育は、文学教材の学習との対比から、潔癖すぎる点があるといえるかもしれない。これは検討すべき問題であろう。「ちえ」のように見えることが、実は、「仕組み」であることが理解できれば、「かしこいたんぽぽさん」という読みは回避できるであろう。 
 さて、このに教材の比べ読みによって、B社版には、A社で説明していないことがいくつもあり、「じく」(「くき」)の仕組み、わた毛の様子については、B社の方が分かりやすいということは簡単に理解できている。
 この学習の中で、ひとりの女子児童が発言したことが面白く、また重い意味を持っているので、記録しておこう。
 「(B社の教材では、晴れた日だけでなく、湿り気の多い日や、雨降りの日の綿毛の様子が書いてあるので、(A社よりも)分かりやすい。
  だけど、たんぽぽの綿毛がすごいということを書くのなら、「しめり気の 多い 日や、雨ふりの 日」のこと、⑨段落の方を先に書いて、その後に、晴れた日の様  子の説明をした⑧段落を書いた方が、綿毛のすばらしさがよく分かる。私ならそうするんだけど。」
 筆者の説明の仕方を吟味、評価している姿がここにある。このような読みのできる読み手を育てることが、評価読みの目的、目標であった。この児童は、2年生という段階で、それを達成したのである。しかも、この反応は、「論理」を踏まえつつ、「レトリック」の観点からの批評であり、説明の効果を問題にするとともに、代案を出しているのである。しかも、その考えはもっともなものであり、低学年児童の能力に驚かされた。