7月1日の北日本新聞『心のかたち』に
南砺市真宗大谷派、住職の
「聴聞 水よく石をうがつ」
が、掲載されていました。
浄土真宗の歴史の中では、「聴聞」という
言葉がとても大切にされてきた。蓮如さんは、
「仏法は聴聞にきわまることなり」と端的に
語っているが、その直前の言葉がとても味わい
深い。『いたりてかたきは、石なり。いたりて
やわらかなるは、水なり。水、よく石をうがつ』
(蓮如上人御一代記聞書193)
不十分ながら現代語訳をしてみると、「この世で
硬いものと言えば石だ。そして,いたって柔らかい
ものと言えば水だろう。しかし、軒下の石をみて
ごらん。長い年月の間には、硬いはずの石が屋根
から落ちるしずくで穴をあけられているではないか。
石のようにかたくなな私たち人間の心も、
柔らかな仏法のことばを繰り返し聞いて
いるうちに、気がついたら自我の心が
崩されていくのだ」となるだろうか。
古希を過ぎたくらいの方々は、祖父母や両親の口
から、「聴聞せんなだちゃかんぞ」という言葉を
聞かされたのではないだろうか。
「私たちの心はかたくななものだが、
仏様のこころを聞かしてもらっていると、
いつのまにか崩されて開かれていくのだ。
これが人間には、大切なことだよ」と、
愛する者に伝えずにおれなかった祖先の言葉だ。
この住職さんの現代語訳につきまして、
石 私たち人間の心 とはどんな心ですか?
石とは、私の逆謗の屍ときかせて頂いておりますが。
水 柔らかな仏法のことば?
仏法のことばは、どこにでも流れていく水なのですか。
私達の聴だときかせて頂いておりますが。
気がついたら自我の心が崩される?
聞即信の一念で,ハッキリするのではないですか。
「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を
聞きて疑心有ること無し。これを「聞」と曰う
なり。 (親鸞聖人)
親鸞聖人のみ教え を正確に伝えて下さった
蓮如上人と縁(ゆかり)の深い南砺の地で、
「仏法は聴聞にきわまることなり」の
正しい御心を精一杯お伝えしたいと思います。














今朝の朝刊を見て、切ない思いがしましたが、なぜだろうと思っていました。
こちらを読ませていただいて、
親鸞聖人のお言葉から解釈されるのと、自身の思いを語られるのとでは、全然違うことが浮き彫りになりました。
私たちは、親鸞聖人の教えを聞きたいんだと強く思いました。