西洋と東洋の狭間

何かにつけ軌道修正の遅い国で有るが一端方向転換すると、凄い勢いで走り出し今までの良き所まで修正してしまう日本文明

夜ごとの美女・フランス映画

2007-06-01 20:27:08 | 映画
夜ごとの美女(1952) フランス“Les Belles de Nuit”
    
脚本・監督:ルネ・クレール
撮影:アルマン・ティラール
音楽:ジョルジュ・ヴァン・パリス
出演:ジェラール・フィリップ、マルティーヌ・キャロル、ジーナ・ロロブリジータ、マガリ・ヴァンドゥイユ、マリリン・ビュフェール、レイモン・コルディ
【1952年ヴェネチア国際映画祭】
国際批評家連盟賞授賞 ルネ・クレール

ジェラール・フィリップ
1922年12月4日、フランス・カンヌ生まれ。ニースの法律学校へ進んだが、マルク・アレグレ監督と知り合い、演劇に興味を持つようになる。そして、アレグレ監督の勧めで、カンヌの演劇学校に通い始める。
1942年、20歳で舞台デビュー。1943年、ペリへ移住し、映画デビューを果たした。コンセルヴァトワールへ入学し、改めて演技の勉強をする。
1945年に出演した「白痴」がヒットし、ジェラール・フィリップは正統派の二枚目俳優として知られるようになる。1947年、クロード・オータン=ララ監督の「肉体の悪魔」に出演。年上の人妻に溺れる少年を瑞々しく演じて、注目を集めた。
その後、ルネ・クレール監督の「悪魔の美しさ」(1949年)、「夜ごとの美女」(1952年)、「夜の騎士道」(1955年)と3本たて続けに出演し、スターの座を不動のものとする。1952年、「花咲ける騎士道」で演じたファンファンは、その後、ジェラール・フィリップの愛称として親しまれた。1958年には、ジャック・ベッケル監督の「モンパルナスの灯」で、夭折した天才画家モディリアニを演じている。そのほか、マルセル・カルネ監督の「愛人ジュリエット」(1950年)、ルネ・クレマン監督の「しのび逢い」(1954年)、ロジェ・ヴァディム監督の「危険な関係」(1959年)など、出演作多数。
私生活では、1951年に元ジャーナリストと結婚し、1954年には長女が誕生している。1959年11月25日、肝臓ガンのため死去。享年36歳。フランス映画黄金時代の最後のスターといわれ、惜しまれつつ亡くなった。
ジーナ・ロロブリジーダ
1927年イタリア・スビアコ生まれ。イタリア発の国際女優。
幼い頃には歌手を目指していたが、第二次大戦を経て、一家が没落し、音楽学校への進学を断念。映画のエキストラなどをしているうち、持ち前の美貌とグラマーな肉体を生かして、ミス・イタリア・コンテストに参加することになり、以降、やはり美形とグラマー女優として活躍する。映画ファンの話題の的になった『花咲ける騎士道』(52)では25歳のフレッシュな可愛らしさで人気を得、キャロル・リードの『空中ぶらんこ』(56)など、’60年代には国際的な活躍も見せる。’74年に写真集『私のイタリア』を発表、’70年代以降はカメラマンとして活躍している。
他にアンソニー・クインの「ノートルダムのせむし男」(56)、ジュールス・ダッシンの「掟」(59)、ユル・ブリンナーの「ソロモンとシバの女王」(59)、ブレイク・エドワーズの「地上最大の脱出作戦」(66)などの出演作がある。本格的な主演をしたことは無いみたいで、大抵が主人公の彼女役ばかり。美人すぎて主役には不向きだったのでしょうか?。
「さらば恋の日」(69)では40すぎてもなお肉体的魅力を発揮して、17歳の少年の初体験を手ほどきするマダムを演じた。
現在でも、はるか年下の青年と結婚する等、健在振りを発揮しています。

あらすじ
“Les Belles de Nuit”とは、日没後に咲くオシロイバナ、または眠りを妨げられて夜に鳴くナイチンゲールという意味だとか。
いつか自分が作曲したオペラを上演したいと希望を抱く貧しい音楽教師 クロード(ジェラール・フィリップ)は、町の騒音に日々悩まされる。ピアノの音を目の敵にしている修理工の親父がガレージで車のエンジンをふかしまくり、家の目の前で工事が始まる、カフェに行けば近所の連中にからかわれ、学校では生徒にバカにされ、家主には家賃滞納を責められ、まったくどうしようもない。
作曲家を目指してコンクールに出品するが返事もこない。現実の、そんな世界の喧騒に嫌気がさしている。彼の唯一の慰めはベッドの中で見る夢。
夜ごと見る彼の夢には、数々の美女が登場しては消えていく。
現実と非現実の境界を越えて、夢の彼方を右往左往するクロード。
ピアノのレッスンをみながら彼は居眠りをはじめる。
幼い女の子が奏でる単調な音階にのせて、彼からキャメラが緩やかに横に移動。
グランドピアノの黒い蓋がスクリーンをいっぱいに覆う。黒い画面の先には夢の世界が。
夜ごと登場する、あの美女をめぐる冒険。
1900年の夢では貴婦人の娘のエドナ(マルティーヌ・キャロル)のピアノ教師、彼女に好意を持たれ、オペラ座の支配人が彼のオペラ上演を約束してくれる。1830年のアルジェリア征伐の夢では、ラッパ手になり、アラビアのレイラ姫(ジーナ・ロロブリジータ)に愛され、ブルボン朝、ルイ16世の時代のフランス革命時の夢では貴族の令嬢 シュザンヌ(マガリ・ヴァンドュイユ)と恋をささやく。
だが、ふいに目覚めさせられ、再び夢の世界に戻ろうとすると、どの夢もギクシャクとして彼は女たちの夫や兄や父たちに殺されかける。
結局、現実の世界にシュザンヌはいて、宿敵修理工の親父の娘だったが、彼がコンクールに入賞することで二人の仲も許されるのだが。
友人に飲みに誘われても断り、カードをやっている最中でもそそこさと立ち上がり、時間がくると安アパルトマンに向かって走り、孤独なベッドにもぐり込んで、昨夜の続きの夢路をたどるクロード。神経質になった彼が自殺するのではないかと友人達は心配して寝させまいとする。友人達をふりきってようやく眠りについたクロードは、夢の中でもひどい目にあって、今度は、寝たくないと言っては、眠らなくする為に、友人達を付き合わせる。この友人達との絡みはほのぼのとしていて、実に楽しい場面である。
可笑しいのは、カフェで出会ったおじいさんが夢にも出演して「昔は良かった、今は犯罪は増えるし役人は横領するし…1830年代は・・・」。そして、いつの時代の夢にも登場して、二言目には「昔は良かった。」とぼやく。その良かった時代へ逆戻りしてみれば、13世紀のダルタニァンや三銃士に追いかけられたり、フランス革命のギロチン台にあげられそうになったり…、でも更に、もっと昔の方が良かったという。
その挙げ句の果てに、友人達は原始時代にまで車を突っ走らせ、クロードを助け、現代まで帰るという下りである。
どこまでさかのぼっても安住はなく、結局、現代へと追いやられて、最後には世俗的でささやかな幸福へと収まる。
解 説
本作品もまた、戦後当時のシリアスな、フランスの世相をはらんだ一種の現実逃避映画なのである。
それは、極めて甘くてロマンティックな夢である。ただ、そこにはほのかな生きる歓びがあり、たとえそれが束の間のものであったとしても、その積み重ねで日々が充足、満足されていく。
映画を楽しむ事自体が刹那的な夢物語へ陶酔する手段であった時代のことである。
終盤はドタバタ喜劇調の壮絶な展開で、一気に大団円まで駆け抜ける。とにかく、この映画は絶えず加速する。小さな田舎町のゆったりしたリズムで始まった映画は、幾多の時代を横切って、パリ オペラ座のオペラで終えるまで、ひたすらにスピードアップしていく。この加速感を意識していたクレールは、撮影期間、徐々に演出のスピードを速めていき、キビキビしたリズムを俳優達に強いたという。
音の使い方も巧妙である。
この映画では、音というものが非常に重要な役割を担っている。
ガレージや道路工事の騒音に眠りを妨げられ、イライラしながら、やっと眠りに入ったが、夢のデートに遅刻してしまうクロード。また、夢の世界で女性といいムードになったかと思いきや、今度はドアをノックする音とともに、現実の世界の友人が部屋に押し入ってくる。
つまり、物音を境界線として、夢が現実になる前に、現実がいつの間にか夢を侵食し始め、その現実でも、音が物語りを、タイミングよく面白くさせる。
クロードのエゴイスティックな性格に振り回される悪友たちのギャグも最高で、古さを感じない。
また、夢の中でのミュージカル場面の素晴らしく、八の字髭の男の“オーペラ〜”の高らかな歌声オペラ座でのジェラール・フィリップの指揮ぶりのカッコよさや、彼の弱々しい、いい加減男ぶりも最高に魅力的に演じ、描かれている。
ジェラール・フィリップにとっては、間違いなく代表作の一本であり、彼のロマンティックな雰囲気と繊細な持ち味を最大限に引き出し、喜劇演技へと転じさせたクレールの演出は殊勲である。

ルネ・クレールと言えば、フランスの前衛的な映画作家でもある。現実から夢へ、夢から現実へ、やすやすと場面を転換してみせる奔放加減が、本作品のかけがえのない面白さであり、夢の世界を背景がチープな書割り等、その幻想的な手法をセットで描き、ダリのようなシュールな世界を表現してる。「巴里の屋根の下」「巴里祭」といった名作をしのばせる下町風の内容を、実に巧く溶け合わせ、実際の下町と対比して描いている。
また、主人公は、夢の世界に自分を置いているが、実は下町の情緒溢れ人情味の有る世界の方が、彼にとっての住む世界であることをさり気なく表現してみせる。
この辺の描き方が上手く、楽しく心温まるストーリーが心憎くもあり、クレール映画の集大成のような醍醐味がある、ルネ・クレールの傑作の一本とも云える。
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F1・モナコグランプリ

2007-05-28 18:50:04 | F1グランプリ
2007・F1/モナコグランプリ
   
コース説明・決勝78周、全長3.340km
アントニー・ノゲによって設計されたコースは、F1カレンダーの中でも、最も有名なグランプリの地位を誇る。初開催は1929年。歴史あるコースであるためかコーナー名もユニークなつけられ方をしています。
最初のコーナー、モナコの守護聖人を祀った小さな教会の名前が由来のSainte de Vote「サント・デ・ボウ」コーナーからBeau Rivage「ボウ・リヴァージュ」 (「美しいビーチ」と言う意味での上りのストレート) へ。ここからカジノ広場まで上り坂が続き、Massenet「マスネ」コーナー(オペラハウスの創設期に貢献した人の名前からの由来)、Casino Square「カジノ・コーナー」(Place de Casinoここがモンテカルロ(Monte-Carlo)と言う地名発祥の地「シャルルの山」の頂上。王立カジノ前の広場を駆け抜ける高速右コーナー)、Mirabeau Hautコーナー(「ミラボウホテル」の上にあるから付いた名前)、Grand Hotel Hairpin「グランドホテル・ヘアピン」(正面にモンテカルロ・グランドホテルがあるヘアピンカーブ、旧ステーション・ヘアピン、ロウズ・ヘアピン)、Mirabeau Basコーナーを過ぎ、この先の右カーブがPortierコーナー「ポルティエ」、ここを抜けると目の前に地中海が広がる。そしてTunnel「トンネル」に入るがグランドホテルの下が道路になっており、緩い右カーブで傾斜は、ほとんどなく、このトンネルをF1マシンは、時速260〜270Kmで走り、トンネル抜けた所では、時速290km以上にも達し、スピード・トラップ(速度計測)のポイントにもなっている。
Nouvelle Chicane「ヌーベル・シケイン」(以前なかったはずであるが、スピードが出すぎる危険から、近代に設たと記憶します)、Tabacコーナー「タバコ屋コーナー」(かつて、タバコ屋があったことからその名が付いた) そしてプールを迂回するようなコースPiscine「ピッシーヌ」(プールサイドシケイン)、2003年からプールサイドシケインの2つ目出口からRascass「ラスカス」(グランプリ中屈指の難易度でドライバーを試すヘアピン)までのレイアウトが若干変更され、その先が、Anthony Noghes「アントニー・ノゲ」(前述の自動車クラブ会長の功績を称えて名付けられた)の最終コーナーとなっている。
建物や隣接する施設の名称を使ったコーナーが存在する。狭く曲がりくねり、デコボコの路面、連続した低速コーナー、ドライバーに一瞬の油断も許さないというコース特性を持っている。
ここでのセットアップについて最も重要なことは、平均速度はトンネルの出口付近の半分以下でしかなく、そのためエンジニアたちは、ダウンフォースをつけながら低速コーナーでのハンドリング向上に全力を注ぐ。
またコース上での追い越しはほとんど不可能なため、予選での獲得グリッドが勝負を分けることになる。一方、燃費やタイヤの摩耗は、さほど問題にはならない。モナコは、ドライバーそしてチームスタッフがほかのどこよりも集中してレースに臨むことを要求されるコースでもある。
以上の事から現代のF1マシンで疾走する高速サーキットから見れば、時代遅れと云えなくもないが、モナコは依然として、すべてのドライバーが一度は優勝を夢見るレースであり、特にこのコースを得意とし数多く優勝したドライバーはモナコ・マイスターと賞賛されるのである。

※以下、レース状況、ニュース参考
5月26日(土)
曇り/ドライコンディション
フリー走行3から2時間のインターバルを挟み、午前中に濡れた路面はほとんど乾いた。予選開始時のサーキットは、気温25℃、路面温度30℃のドライコンディション。
マクラーレンの2台はQ3でも好調さを見せ、最初にL.ハミルトンが1'15.905でトップに立つ。彼はモンテカルロ市街地コースでは下位カテゴリーのF3ユーロシリーズ(2005年)とGP2シリーズ(2006年)で臨んだモナコGP4戦のうち、3度ポール トゥ ウィン(優勝経験)を決めたこともあり、モナコGP史上初のルーキーウィナーにも予想されている。「F1で走りたいとずっと夢見ていたサーキットの1つがモナコなんだ。」と、冷静な姿勢を崩していない。
マクラーレン勢のみが1分15秒台を記録する中、ウィリアムズのニコ ロズベルグ、ルノーのジャンカルロ フィジケラらがフェラーリのF.マッサを上回っていく。予選も残り時間わずかとなり、各マシンが最後のタイムアタックを開始。前年、モナコGPでポール トゥ ウィンを決めているF.アロンソは意地を見せ、1'15.726を叩き出し新人L.ハミルトンを振り切りトップタイムをマーク。チーム、そして自身にとっても今季初のポールポジションを獲得した。順位を落としていたF.マッサだが、チェッカーが振られる中、最後の最後に1'15.967とマクラーレンに続く1分15秒台に入れ、3番手に飛び込んだ。
Q3まで進んだホンダは、R.バリチェロ9番手、J.バトン10番手となった。
D A B  
A       A        E  
5月27日(日)
曇り→晴れ/ドライコンディション
現地時間午後2時(日本時間:午後9時)、曇り空のサーキットは気温25℃、路面温度34℃のドライコンディション。雨が懸念されたが、レースが進むにつれ青空が広がっていった。
スターティンググリッドには変更があった。レッドブルのデビッド クルサードが、前日の公式予選Q2(2次予選)においてヘイキ コバライネン(ルノー)の進路を妨害したとしてペナルティを受け、11番グリッドから13番グリッドに降格されている。
レースはスムーズなスタートが切られ、大きな混乱なく各マシンが1コーナーに飛び込んでいく。上位陣に順位の変動は見られず、後方では16番グリッドからスタートしたフェラーリのキミ ライコネンが、12番手まで順位を上げることに成功。トップのフェルナンド アロンソはファステストラップを更新しながら、徐々に後方とのギャップを築いていく。
5番手を走行するBMWザウバーのニック ハイドフェルドは、ソフト側のタイヤで周回を重ねるもタイムが伸びない。上位3台、そして4番手ルノーのジャンカルロ フィジケラまでが1分17秒台に入れるが、5番手N.ハイドフェルド以降は1分19秒台に留まり、その後方で中盤グループが数珠つなぎとなる。1回目のピットストップが近づくと、マクラーレンの2台はそれぞれ1分15秒台まで自己ベストを更新。F.アロンソと2番手ルイス ハミルトンの差が4.2秒まで広がったところで、F.アロンソと3番手のフェリッペ マッサが同時にピットイン。トップに立ったL.ハミルトンは1'15.372のファステストラップを叩き出すが、ピットストップ後にF.アロンソの前に行くことはできなかった。第2スティントでソフト側のタイヤを選んだF.マッサはタイムが伸びず、マクラーレン2台との差がみるみる広がっていく。
上位陣が2回目のピットストップを終えて残り20周を切ると、トップのF.アロンソと2番手L.ハミルトンの差が1秒以内に。優勝争いはマクラーレンの2台に絞られ、初優勝を狙うL.ハミルトンはF.アロンソに引き離されずについていく。しかしF.アロンソも最後まで隙を見せず、互いにコーナーではINをギリギリに攻め、OUTではドリフト走法で切り抜ける等、(写真-A)厳しいバトルを展開しながらも、世界チャンピオンの意地もあるアロンソは、新人に道を譲ることなくトップでチェッカーを受けた。
王者F.アロンソはポールポジション、優勝、ファステストラップを記録とモナコで完全勝利を挙げ、ルノー時代の昨年に続く2年連続2勝目(写真-B)。第2戦マレーシアGP以来の今季2勝目で、通算17勝。2位のデビュー以来4戦連続表彰台獲得とF1史上前例のない偉業を達成したL.ハミルトンは、総合ポイント争いでは、F.アロンソと並び38ポイントでドライバーズランキングトップの座を守り、マクラーレンは通算150勝を、マレーシアGP以来今季2度目、モナコでは1989年以来のワン ツー フィニッシュで飾っている(写真-C)。3位には、2位L.ハミルトンから65秒の差をつけられたフェラーリのF.マッサが入りポイント33に伸ばした。
4位に前年度のコンストラクターズチャンピオン、ルノーのジャンカルロ フィジケラがつけた。5位と6位の順でロバート クビサ、(写真-D)N.ハイドフェルドのBMWザウバー勢が並び、7位は今季初入賞となるウィリアムズのアレクサンダー ブルツ。K.ライコネンが8位に入ったが、タイトル争いではマクラーレン勢、チームメイトから大きく遅れをとることとなった。後方では、1ストップ作戦を採ったマシンが続々と入賞圏内に入り、フェラーリのK.ライコネンも8位まで順位を上げ、辛うじて1ポイントを獲得し、ポイント23で総合4位となっている。
ホンダはレース中盤に入賞圏内を走行する場面もあったが、2ストップ作戦が裏目に出て、ルーベンス バリチェロが10位、ジェンソン バトンは11位(写真-E)。トヨタはヤルノ トゥルーリが15位、ラルフ シューマッハが16位、スーパーアグリは佐藤琢磨が17位、アンソニー デビッドソンが18位に終わっている。
過去、ジャッキー・スチュアート、ニキ・ラウダ、ネルソン・ピケ、アラン・プロスト、ナイジェル・マンセル、アイルトン・セナ、ミハエル・シューマッハ等、偉大なレーサーの出現があったが、名門チームに所属と云った恵まれている事はあるが、ルイス・ハミルトンにも、彼等と同じ、あるいは、それ以上の実力が、その新人離れしたテクニックからも窺え見れたモナコであった。

回想・天才レーサー、そして音速の貴公子
モンテカルロ1991、リビエラの海を望む宝石の様な街に、祝祭のF1-モナコ・グランプリが夢馳せる。
モナコの多彩な顔を楽しむには、静かな街から訪れるのがいい。金、土、日の3日間で行われるF1のなか、モナコGPだけは木曜から始まり金曜が社交のための休みになる。この狭間の1日は公道がクローズされ、コースをクルマが走ることはない。
ラスカスと呼ばれる最終コーナーからハーバーの桟橋へ向かうと、海燕の声にベンチテストの爆音が重なる。ここはピットの裏側にあたり、設営された各チームのテントの無防備な隙間から、マシンの流麗なボディをピープショーのように楽しめるのだ。
なかでも目を引いたのは、ティレル・ホンダ。黒白の車体はシャチのように精悍で、海によくマッチしていた。
1991年は、ホンダが充実のセナが駆るマクラーレンとともにティレルにエンジンを供給。引退間近の中嶋悟を男にしようとしていた年だった。
1984年からは自動車レースの最高峰、F1世界選手権にトールマンからデビューし、ルーキーイヤーで、いきなり雨のモナコGPを予選13位から追い上げて2位となり、モナコGP(89〜93年)5連勝、通算6勝の常勝セナ(第2戦ブラジルグランプリ、セナは悲願の母国初優勝を飾った。 無線を通して聞こえてくるセナの嗚咽とギアトラブルで6速のみで走りきったというエピソードが、セナの大きな喜びを感じさせた、あの年でもあり、彼が最後のワールドチャンピオンの年でもあった)とともに王権をゆるぎないものにしていたホンダのピットは、自信に満ちた熱気を強烈に漂わせていた。
※ミハエル・シューマッハは1991年のスポット参戦後のルーキーイヤーは1992年で、その年のモナコ・グランプリは、4位に終わっている。
サーキットになる公道を辿った。ヌーベルシケインから有名なトンネル、フェラーリやロールスの並ぶローズホテルからグラン・カジノへ。

時空を越えて体感させてくれるモナコは、ブルーシグナルの点灯とともにひとつの興奮に飲み込まれる。
抜きどころのないモンテカルロで、ひとつでも前の出走グリッドを得ようと刻まれるラップ。その気迫がパーマネントサーキットではあり得ないマシンとの近さで伝わる。
レースはセナのひとり旅となったが、2位以下はアクシデントが重なる波乱の展開となった。応援するティレル・ホンダの2台をはじめ、リタイアが続く。マシンを降りた選手は、延々と海岸を歩いてピットに帰る。ベネトンのネルソン・ピケは陽気に手をふりながら、拍手とともに。中嶋は残酷な黙殺のなか、ただ静かに歩いていった。レースを失ったドライバーたちの姿もまた、表情がはっきりと見えるほど近い。
先頭を往くセナがチェッカーを受けるとすべての船が汽笛を鳴らす。ポディウムへの海のファンファーレの中レースは終わった。

モナコでは、シャンパンファイトは勝者一人で行われる。王族に祝福されるセナの姿を港に向かって設営されているディスプレイビジョンが写し出す。これほど大きいビジョンはおそらく他のサーキットでは見られない。また、縦長なところが不思議な迫力を生む。横ワイドなビジョンと違い、縦長の映像は人を生々しく映すのだ。歓声のなか岸壁に写し出される巨大セナは、モナコの街を征服した皇帝として、圧倒的な迫力を見せていた。
すべてが終わり、静けさを取り戻していく街。その余韻もまた、心に残るものだった。エキゾーストに聴覚を失った耳に、徐々に海燕の声が戻るころ、世界一豊かな夜へと向かうセレブたちのシルエットが黄昏に溶けていく。パーティのざわめきとヨットの軋む音を想い起こす度に、僕はあの祝祭の街にもう一度立ち、夢の続きを見たいと目を閉じるのだ。あれから16年――。新しい日本F1チームの挑戦が、私の思いを加速させる。

※元F1ドライバー2世の活躍
F    G    
故アイルトン・セナの姉ビビアーニの長男ブルーノ・セナ(写真-F)は、偉大な叔父に戦績は、及ばないが、同じくイギリスF3に2005年から参戦し、モータースポーツファンの注目を集め、今季からGP2にステップアップし、12日、当地郊外のカタルーニャ・サーキットで第2戦の1レース目が行われ初優勝し、早くも結果を出した。
ネルソン・ピケの息子、ネルソン・アンジェロ・ピケ(写真-G)は、2006年にGP2シリーズに参戦し、今季はルノーのテストドライバーに抜擢されています。
日本人初のフルタイムF1ドライバー中嶋悟の息子でウィリアムズのテストドライバーに抜擢された中嶋一貴(写真-H)は、GP2に参戦中です。
「元祖フライングフィン」のケケ・ロズベルグ(82年F1チャンピオン)の息子ニコは早くもF1、2年目。
F1ルーキーへのステップ
最近のF1ルーキーたちはジュニアフォーミュラ、F3、GP2(GP2について簡単に説明すると、国際F3000に替わって2005年から始まったF1とF3の中間に位置するカテゴリー。)と十分に経験を積み、各カテゴリーで確実に結果を残してからF1へのステップアップを果たしています。“マクラーレンの秘蔵っ子”として今季センセーショナルなデビューを果たしたルイス・ハミルトン(2006年GP2王者)しかり、ウィリアムズのニコ・ロズベルグ(2005年同王者)しかり、ルノーのヘイッキ・コバライネンもそうです。しかも彼ら、中でもハミルトンやニコのようなエリートたちの強みは、それだけ段階を踏んで経験を積んでいても、まだ若い(ハミルトン、ニコともに1985年生まれ)ということです。
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ポール・ニューマン

2007-05-27 07:44:30 | 映画
アメリカの顔、反逆児ポール・ニューマン引退
                              
米俳優ポール・ニューマンさん(82)が24日、現役を引退することを、出演したABCテレビの番組で表明した。
この中で、ニューマンさんは「自分が求めるレベルの演技ができなくなった」「記憶力も自信も創造力も失い始めた」と引退理由を語った。
今後はレストラン経営などに専念するという。
アニメ「カーズ」(2006年)での声優出演が映画界での最後の仕事となる。インタビューでは「この仕事を50年も続けており、もう十分だ」と語った。 (共同)

私には、若い頃のニューマンは、アイビー・ルックの似合う、代表的アメリカ青年の風貌があり、年齢を重ねる中でも、ヤンチャな面影が残る、洒落たアメリカ人を演じた名優であった。私生活ではジョアン・ウッドワードへの愛妻家でも有名で、六本の共演と彼女主演の二本の演出もし、また、スクリーン等のグラビアにも夫婦揃って仲睦まじく載っていた事が、つい昨日の様に思い出され、ご健在ではありますが、スクリーン上でお眼にかかれないのは、実に寂しい限りです。
本名:ポール・レオナルド・ニューマン
職業:製作者、俳優、監督、脚本家、(レーサー)
生年:1925年1月26日出身国:アメリカ
出身地:オハイオ州 クリーブランドハイツ
妻  ジョアン・ウッドワード
息子 スコットスコット・ニューマン
娘  スーザン・ケンダル・ニューマン
前妻と合わせて6人のこどもがいる。
オハイオ州クリーブランドで父親が町一番のスポーツ用品店を営む裕福な家庭に生まれ、子供の頃は意外にも体が弱かった。演劇好きの母親の勧めで児童演劇団に入団。7歳の時に学校劇『ロビン・フッド』の道化師役で舞台デビューを果たしたが、この頃は演じることが好きではなかった。12歳でクリーブランド・プレイハウスの児童部に入り、以後、スポーツにも励んでフットボールの選手として活躍。
やがて、高校を卒業すると、定職に就かず百科事典の訪問セールスなどをしていたが、第二次世界大戦が激化すると海軍予備将校訓練隊に入隊。三年間、軍隊に身を置く色盲のためパイロットになることができずに爆撃機の通信兵として太平洋戦争に従軍するが、実際の戦闘は体験せずに除隊した。除隊後は家業を継ぐことを嫌って46年、ケニヨン・カレッジに入学。大学ではフットボールに打ち込んでいたが、喧嘩が原因でチームを除名されてしまい、子供の頃にかじった演技に打ち込むようになる。卒業後は地方劇団を転々としながら幾つもの舞台に出演して演技修行に励み、49年には劇団で知り合ったジャッキー・ウィットと結婚。
50年に父親が他界すると家業を継いだが、店を弟にゆずって、演劇講師になるため同年イェール大学に進学、演劇科を専攻。学生演劇での演技がエージェントの目に留まってニューヨークに招かれると、テレビドラマや舞台の端役で生活費を稼ぎながら修行を積み、 52年にはその演技力が認められてアクターズ・スタジオに入学(同期にはジェームズ・ディーン、マーロン・ブランド)。ここで彼の演技に大きな影響を与えるメソッド演技を習得した。ブロードウェイの舞台『ピクニック』では初の大役を獲得。
その演技は高く評価されただけでなく、彼の才能に目をつけたワーナー・ブラザーズ社と5年間の専属契約を交わすが、『エデンの東』(54)の主役を逃し、映画デビュー作となった史劇『銀の盃』(54)は批評家に酷評され失敗作の烙印を押されてしまう。満足できる映画に出演させてもらえない上に、「第二のマーロン・ブランド」の触れ込みで売り出すスタジオや批評家のやりかたに失望したニューマンは、古巣のブロードウェイに戻って舞台『必死の逃亡者』やテレビドラマ『わが町』などに主演し、反逆児の異名を取り、その演技は絶賛を博する事となる。
56年にはハリウッドに戻って実在の世界ミドル級チャンピオンでプロ・ボクサーのロッキー・グラジアーノ(イタリアの種馬・世界ヘビー級チャンピオン、ロッキー・マルシアノとは、別人)の伝記映画『傷だらけの栄光』に出演。原作はグラジアノ自身とロウランド・バーバーの合作によるベスト・セラー小説、脚色は「重役室」のアーネスト・リーマン、監督は「トロイのヘレン」のロバート・ワイズ、撮影は「白鳥(1956)」のジョセフ・ルッテンバーグ、音楽はブロニスロー・ケイパー。主題歌は作詞サミー・カーン、歌手はペリー・コモ。ボクシングの基本とボクサーの体型を身につけただけでなく、グラジアノに会って彼の話し方や癖を研究するなど役作りのため入念なリサーチを行った。その甲斐もあって、ニューマンの演技は映画と共に高く評価され一躍注目を浴びる存在となった。 56年にはウィットと離婚。
哀調のトーチ・ソングをもって往年ブロードウェイの女王といわれたへレン・モーガンの伝記映画『追憶』(57)の後、『ピクニック』の舞台で知り合ったジョアン・ウッドワードと恋に落ち、オーソン・ウェルズ等との『長く熱い夜』(58)で初共演を果たしたことが切っ掛けで58年に再婚。 58年のテネシー・ウィリアムズの戯曲の映画化『熱いトタン屋根の猫』では、エリザベス・テイラーと共演、アカデミー主演男優賞に初ノミネートされた。映画作りでのスタジオの方針に不満を募らせていたニューマンは、ワーナーに50万ドル支払って契約を解消。
フリーになった彼のもとには出演依頼が殺到し、イスラエル建国を描くスペクタクル映画『栄光への脱出』(60)、ウッドワードと共演した『孤独な関係』(60)や『パリの旅愁』(61) (ルイ・アームストロング、シドニー・ポワチエ出演のジャズメン達のドラマ)などに出演。 61年の『ハスラー』では徹底したリサーチでプロのビリヤード・テクニックを身につけ、ビリヤードに人生を賭けるハスラー、エディ・フェルスンを熱演。 63年の『ハッド』では身勝手で無情なタイトルロールのカウボーイを演じて、アンチ・ヒーローとしての魅力を存分に引き出し女性ファンを虜にした。同年、エルケ・ゾンマー共演の『逆転』でのポール・ニューマンは当時37歳。実際にひょうきん者らしく、デビュー当時似ていると言われたマーロン・ブランドを真似て、サインする時“マーロン・ブランド”と書いてしまうのだとか。
シャーリー・マクレーン、ロバート・ミッチャム、ディーン・マーティン、ジーン・ケリー等、少し以外な共演のコメディ映画『何という行き方!』(64)、ソフィア・ローレンとの共演『レディL』(65)、ロス・マクドナルド原作の『動く標的』(66)では私立探偵ルー・ハーパーを演じて好評を博し、67年の『暴力脱獄』では自由を求めて脱出を繰り返す囚人ルークを演じて絶賛を浴びた。出演作の中には、黒澤明監督の『羅生門』(50)を、舞台はメキシコ、西部劇に置き換え、ほとんど話題にならなかった作品、マーティン・リット監督、ポール・ニューマン主演『暴行』(64)や、アルフレッド・ヒッチコック監督と組んだスパイ・サスペンス『引き裂かれたカーテン』(ジュリー・アンドリュース共演)など失敗作も少なくなかったが、青い瞳と端正なルックスのセクシーな反逆児としてのイメージは男女問わずに受け入れられマネーメイキング・スターとして安定した人気を保った。 68年には、シルヴァ・コシナ共演の『脱走大作戦』そして、監督業に挑み、妻ウッドワードを主演に迎えて孤独な女性教師の自立を描いた『レーチェル・レーチェル』を演出、映画は絶賛され、ニューマンの幅広い才能の一端を見せつけ、ニューヨーク映画批評家協会の最優秀監督賞を獲得する。
また、人権擁護、非核武装運動家として公民権運動や反戦運動などの政治問題にも積極的に参加し、68年には民主党大会でコネチカット州代表に選ばれ、その活発な行動は第36代合衆国大統領リチャード・ニクソンの反感を買って、「現政府に好ましくない人物」とまで言われ、73年にホワイトハウスが発表した政敵リストにあげられた。それでも彼は、人種差別の反対に止まらず、慈善事業にも積極的に参加している。

69年のロバート・ワグナー共演の『レーサー』ではリサーチのためレーシング・スクールに参加し始め、70年には映画監督ばかりではなく、製作にも乗り出し、この頃は、熱烈なカー・マニアとしても知られ、レースにも毎年のように出場する。
反核運動などに力を入れる一方、レースの世界にのめり込んで44歳にしてカーレーサーとしてデビュー。次々と記録を更新して同僚のレーサーからも一目置かれる存在となっただけでなく、75年には業界一のスピード狂でもあるカール・ハースとともに自分のチーム、ニューマン・ハース・レーシングを結成、CARTに参戦し、77年のデイトナでは5位、79年には、あのル・マン24時間耐久レースにも出場し、2位という華やかな成績を残した。
反核運動などに力を入れる一方、業界一のスピード狂でもある。カール・ハースとともにニューマン・ハース・レーシングを結成し、CARTに参戦した。あのル・マン24時間耐久レースにも出場し、2位の成績をあげている。
日本では、日産自動車のスカイラインR30型(1981年-1985年)のTVCMに出演しており、スカイラインR30型は、彼がTVCMに出演していた事で「ニューマン・スカイライン」の名で現在も親しまれている。
以後、82年にはダットサン280ZXに乗ってストックカー・レースに出場し優勝する等、日産のスカイラインのコマーシャルにも出演している。
最近でも79歳のポール・ニューマンは、米国最大の自動車耐久レース「デイトナ24時間」へ向けた公式テスト走行中にスピン事故を起こし、エンジン再始動で炎上したが、彼は無事に脱出し、健在振りを発揮していた。

69年には後輩のロバート・レッドフォードと共にアメリカン・ニューシネマ・スタイルのウェスタンで、ニューシネマ時代の女優キャサリン・ロス等と『明日に向って撃て!』に出演。実在の銀行強盗ブッチ・キャシディをコミカルに演じて生涯最高のヒットを記録し、同年にはマネーメイキング・スター第一位にも選出された。また、製作の自由を求めてシドニー・ポワチエ、バーブラ・ストライサンドと共に独立プロダクション「ファースト・アーティスツ」をも設立する事となった。
71年にヘンリー・フォンダとの共演で、自身監督第二作『わが緑の大地』、72年、アンソニー・パーキンスとの『ロイ・ビーン』、73年、ドミニク・サンダ共演の『マッキントッシュの男』等に出演後、再び73年にはレッドフォードと再びコンビを組でギャングをカモるペテン師の活躍を描いた『スティング』に出演。この脚本を書いたのは当時弱冠27歳のデビッド・S・ワードです。最初は監督も兼ねることになっていたのが、出演依頼を受けたレッドフォードの難色で、ジョージ・ロイ・ヒルに変更されたのだとか。さらにポール・ニューマンがこれを聞きつけ、「僕の役はないのかい」と言い出したため、結局、「明日に向かって撃て!」のトリオ再現になったのだそうです。
最初の脚本では詐欺師ゴンドーフは粗野で屈強な男という設定でしたが、ニューマンの個性に合わせて腕力よりも知力の洒落た男に書き直したのだとか。映画は大ヒットしただけでなくアカデミー作品賞を獲得。

74年には、100万ドルのギャラで出演したオールスター・パニック映画『タワーリング・インフェルノ』も大きな成功を収めた。裏話として、本作品では当時2大俳優として肩を並べる、今は亡きスティーブ・マックィーンとポール・ニューマンの二人だが、マックィーンにとって、ニューマンは憧れのスターであった。実は、マックィーンの映画デビュー作は、ニューマン主演の「傷だらけの栄光」だった。それも名前すらないチンピラ役。一方、ニューマンはデビュー作から主役を演じる人気者だった。常にニューマンを目標としてきたマックィーンは、必ずといっていいほど、似たような映画に出演していった。ニューマンがギャンブル映画「ハスラー」(61)に出演すれば、マックィーンは「シンシナティ・キッド」(65)に。カーレース映画「レーサー」(69)に出れば、「栄光のル・マン」(71)といったように、ニューマンの直後に似たジャンルの映画に出演している。
その二人が、この映画で見事な競演を果たした。しかし、今やビッグネームの2人。ポスターや本編クレジットの順番をどちらが先にするかでスタッフ一同、頭を悩ませてしまった。基本的に、ポスターや本編に出てくるクレジットは名前が先に出てくる方が主演であり、複数の名前を同時に出す場合は左(上)から右(下)と序列が決まっていた。マックィーンとニューマンを2人同時に出す事は簡単に決まったが、どちらが左側を取るかで揉めてしまった。結局、左側をマックィーン、右側のニューマンはマックィーンより上というように位置づけられた。

85年にアカデミー賞特別栄誉賞を受賞し、86年に念願の主演男優賞を「ハスラー2」で獲得した。
その後はヒット作の続編『新・動く標的』(75)、若手のロバート・アルトマン監督と組んだ『ビッグ・アメリカン』と『クインテット』(79)、パニック映画『世界崩壊の序曲』(80)などの失敗作が続いた。
最初の妻ウィットとの間に生まれた息子のスコットも父親の後を追って俳優となり、『タワーリング・インフェルノ』では父子共演を果たしたが、有名人の息子という重圧に耐えられずにドラッグや酒に溺れ、78年にドラッグと酒の過剰摂取が原因で死亡。ニューマンはスコットの死を無駄にしたにため、麻薬撲滅運動などにも力を入れ、ドラッグの弊害を描く映画やテレビ番組などに奨励金を与える「スコット・ニューマン基金」を設立した。
80年代に入ると、衰えを知らないルックスに円熟した大人の魅力を加えて『アパッチ砦ブロンクス』(80)、『スクープ・悪意の不在』(81)、『評決』(82)などに出演。濃厚な見ごたえのある演技で新境地を開拓した。

長年自家製のサラダを自慢していたニューマンは 82年に食品会社「ニューマンズ・オウン」を設立。ラベルにニューマンの似顔絵をあしらったホームメイド・スタイルのフレンチ・ドレッシングは好評を博し、ドレッシング以外にもスパゲッティ・ソースやポップコーンなどを製造。冗談で始めた事業は現在に至るまで莫大な利益を上げ、全ての純益は恵まれない子供達を支援する団体等に寄贈。その総額は82年以来1億5000万ドル以上にもなり、93年には、自らオーナーを務める食品会社「ニューマンズ・オウン」の純益の寄付としての慈善事業への取り組みが評されて、(サラダ・ドレッシングやミート・ソースは日本でも購入可能)アカデミー協会からジーン・ハーショルト友愛賞が贈られた。

85年には『熱いトタン屋根の猫』、『ハスラー』、『ハッド』、『暴力脱獄』、『スクープ〜』、『評決』の演技で過去に6度アカデミー主演男優賞ノミネートされながら、一度も受賞していないニューマンに、アカデミー賞特別栄誉賞が贈られたが、25年後のエディ・フェルスンの姿を描いた、トム・クルーズとの共演『ハスラー2』(86)では念願のアカデミー主演男優賞を獲得。
その後も監督として『ガラスの動物園』(87)を演出し、俳優として『ブレイズ』(89)や『未来は今』(98)などに出演。少年の心を持った老人を演じた『ノーバディーズ・フール』(94)(その他出演、ブルース・ウィリス、メラニー・グリフィス)では、ベルリン国際映画祭、ニューヨーク評論化協会賞の男優賞を獲得。『メッセージ・イン・ア・ボトル』(99)では、息子役のケビン・コスナーを遠くから見守る、芯のある父親と悲しみを奥に隠しこんだ姿にモノ言わぬ存在感があり、忘れ得ぬ作品であった。また、それぞれアカデミー主演男優賞と助演男優賞にノミネートされた作品で、今回の引退で実質最後の作品となる『ロード・トゥ・パーディション』(02)をリアルタイムにて鑑賞出来た事は、長きに渡りニューマンを見てきたモノとしましては、幸せな事とも感じ、この役柄の様に自身でも静かに映画界から姿を消し、その決断の潔さからも、見事なまでに我々の記憶に一時代を残させた事では、アカデミー主演男優賞でしょう。
長い間、ご苦労さまでした。そして何時かまた。
『カーズ』(06)では、ニューマンは声の出演なのだが、「ルート66」への熱い想いがこめられた、知的で魅力的なフル3Dによる傑作品となっている。
(心ある人から誤字等の指摘があり、先に、読まれた方には誤った情報を流しました事で、お詫び致します。)
最近のキャサリンロス(サム・エリオットと夫婦で)UPします。




   
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「天使の詩」その2

2007-05-17 22:05:32 | 映画
『天使の詩』 Incompreso 上映時間105分
イタリア映画、日本ヘラルド映画配給、大阪映画実業社(日本・1967年11月)
 
フィレンツェ駐在の英国領事が、妻を失った。彼は幼い二人の息子のうち、しっかり者の兄にだけ母の死を知らせ、弟には黙っていることを約束させる。しかし兄の方は、父親の考えている以上に、母の死にショックを受けていた……。父と子のすれ違いから起こる悲劇を描いたドラマ。
 写真-1     写真-2     写真-3        
※ステファノ・コラグランデ、(写真-1)1955年5月3日、ローマ出身
天文学と物理が好きで天文学者が夢だったようだ。その後の映画出演は無い。
ステファノ・コラグランデの両親は裕福な実業家で、映画出演に反対だったようであったが、監督の熱意により実現。
黒い髪と澄んだ瞳を持ち、とても綺麗な顔をした子供らしい少年である。
撮影が始まると彼は、演技の魅力に夢中になり、才能が開花し、亡き母への想いを押し殺し、感受性の強いアンドレアを演じるステファノ・コラグランデ主演で名作『天使の詩』は完成する。
※シモーネ・ジャンノッツィ、(写真-2)
ミーロの、あどけなさや可愛らしさ、父や兄に甘え、何にも知ず母を慕う感情を素直に上手く表情に出しきり演じたシモーネ・ジャンノッツィも「わんぱく旋風」のベベール(プチ・ジュビス)に似た、愛くるしい顔つきの才能あふれる子役である。

スタッフ及びキャスティング
製作 アンジェロ・リッツォーリ
脚本 ルイジ・コメンチーニ(ルキア・ドゥルディ・デンビィ、ジュゼッペ・マンジョーネ)
脚色 ピエロ・デ・ベルナルディ、レオ・ベンヴェヌーティ、(ルキア・ドゥルディ・デンビィ、ジュゼッペ・マンジョーネ)
監督 ルイジ・コメンチーニ
音楽 フィオレンツォ・カルピ、(ラファエロ・ギグリァ)
撮影 アルマンド・ナンヌッツィ
原作 フロレンス・モンゴメリー(原作「誤解」を映画化)
出演 
アンドレア少年  :ステファノ・コラグランデ 
ミーロ少年    :シモーネ・ジャンノッツィ 
ダンカン     :アンソニー・クエイル
ヴィル叔父さん  :ジョン・シャープ
ミス・ジュディ  :ジョルジア・モル
ドラ       :グラジェッラ・グラナータ

物語:(全ストーリーは、昔の記憶を思い出しながら記載しておりますので、前後している場合があるかも知れません)
初めに
イタリア、フィレンツェに駐在するイギリス領事ダンカン=アンソニー・クエイル。妻を亡くし、深い哀しみの中、残されたふたりの息子と暮らしていた。見た目には気丈な8歳の兄のアンドレアはには厳しく接し、病弱で無邪気な4歳の弟ミーロを可愛がり甘やかす父だった。弟ミーロは病弱で家に居る事が多く、わがままを言ってしまうだが兄アンドレアを慕い、アンドレアもミーロを思いやる。でも本当は母を無くしたことにひどく悲しみ、それにも増して理解してくれない父への悲しみ、深まる溝、だがアンドレアは、ひたむきに父に接っしながら愛情を望んでいた。(この父と兄の心のすれ違いから悲しい結末につながっていく・・・。)
ストーリー
利発なアンドレアは既に母の死を予感し、悲しみに小さな胸を痛めていた。しかし不器用でもあるが為、亡き母の事を誰にも話す事が出来ず、募る想いを懸命に耐えていた。
ある時フトした事から父親の書斎で、偶然父が大事にしていたテープレコーダーのテープに収められていた母の声を聴く事になる。それは、紛れも無い優しい母の声であり、つかの間の慰めでもあった。(写真-3)
しかし母の死を受け入れざるおえない現実に、母を慕いながらも堪えてきた気持ちも崩れ、会う事の出来ない悲しさに自然と込み上げてくる涙が頬をつたう。
懐かしい母を求め、幾度となく聴き続けるのだが、やがて誤った操作から母の声を消してしまうのであるが、彼がそれを受け入れるには、余りにも残酷な事でもあった。
このシーンのステファノ・コラグランは主人公が母の死を察する事で、心の葛藤から悲しみ、慕い、張り裂けんばかりの懐かしさへと実に上手く、見事な表現は実に感動させられる場面である。
母の声を永久に失った事は、直に父親に分かる事となり追求され叱られる。
父との、どうしようも無い距離感が漂う。
その事から父親のダンカンは、アンドレアには隠せない事を知り、仕方なく母親の死を告げるのだが、既に母の死を受け止め、深く悲しんでいたのであったが父の前では、そんな様子を見せなかった。
そんな事も知るはずも無い父は、幼いミーロを心配する余り、アンドレアに気遣うことなく、母の死をミーロに話さないように約束させる。
ところがある雷雨の夜、ミーロは恐怖と寂しさから、側にいない母に悲しみ、怒り、とっさに「ママは死んでしまったんだ」と、父親の前で泣き叫ぶのであった。
驚いた父は、アンドレアが喋ったと思い込み、激しく責める。
必死の説明にも、一方的に信じてくれない父親に落胆し、一人泣くアンドレア。
そんな日には、アンドレアは傷つき、満たされない孤独な心の捌け口を庭にある「度胸だめしの枝」に、ぶらさがる事で自身を慰めるのであった。
やがて父の友人である、ヴィル叔父さんが滞在した事で、家の中の雰囲気も少しは明るくなるのだが。
そんなある日、無邪気なミーロの我がままを聞く為にアンドレアは、バスに手をかけ自転車を走らせる。
アンドレアには、容赦なく続く運命なのか、その時、帰りの車から父親に見られていたのだった。兄としての行動と責任に、きつく叱責される。
しばらく滞在した自称子供嫌いのヴィル叔父さんではあるが、純粋で優しい、そして愛情に飢えているアンドレアの理解者でもあり、そんな父親との関係を見ては、不憫にも感じながら密かに気に留め、悟られない様に可愛がるのである。
そんな事もあって見かねたヴィルは友人であるダンカンに、アンドレアと話す機会を作るよう忠告するのであった。
理解した様にダンカンは、仕事にアンドレアを連れて行く事にする。
その日が来た。
兄を慕うミーロは「僕も行く」と、泣いて皆を困らせる。そんなミーロを見て、父を独占する事にアンドレアは、嬉しくもあった。
ミーロをやさしく諭し、アンドレアを見送るヴィル。
領事館でのアンドレアは楽しくて堪らない、父の部下にも紹介された事や用事を依頼された事で、父に認められた様で喜びを感じ、期待通りの挨拶や用事もこなす。それを満足そうに微笑む父、そして明るく振舞うアンドレア。互いに心が通じ合えた時間を過ごすのである。
ダンカンも、そんな息子の姿に安心し、ご褒美として、次の海外出張にアンドレアを連れて行く事を約束する。
父が自分を理解した事に、孤独で無い事を確信出来たかの様にアンドレアは、嬉しくて仕方がない。
おそらく、これからの、新たな幸せな家族の生活を夢見た事であったのだろうか。
外国の賓客との食事会もヴィル叔父さんと家族で共に過ごし、久しぶりに家族の笑いが取り戻せた様であった。
この家族から離れる時がきたヴィルには、気がかりではあったが、以前の快活な子供のアンドレアに戻った事で安堵感が漂う様でもあったのだが。
だが、ヴィルの気がかりが現実になる事が起きるのである。
そんな家族の葛藤を知る由も無いミーロの、兄への我がままは納まる事は無く、朝早く兄の前から、ふざけて外に出てしまった。
心配し追いかけ部屋に戻そうとするアンドレアだったが、嬉しそうにホースの水を掛けてくるミーロを優しく窘める。その事でミーロは高熱を出してしまうのである。
父との海外出張を約束した出発の日、楽しみにしていた嬉しさから学友にも話し、急いで家に帰ったアンドレアの目の前を、家から出て行く父を乗せた車が通り過ぎるのであった。
玄関には、用意しておいた自分のトランクが置かれ、それは同行を許されなかった事を悲しく物語っていた。
アンドレアの信頼と愛に希望を持てた喜びも、ミーロの体を気遣う父には理解されなかったのだ。
傷ついた心は、以前の母が亡くなり厳しくなった父との日々の様に、アンドレアを、あの「度胸だめしの枝」に、ぶらさがらせる事になる。
しかし枝の先まで行くと、側にいない兄を捜しにミーロが来た。
兄と同じ様に登ろうとするミーロ。
弟が危ない。「ミーロ来ては駄目だ」
アンドレアが叫び制止するも、その瞬間アンドレアのぶらさがっていた枝が折れる。
子供の事故の連絡が入り、とっさにミーロと思い、急いで家に帰ったダンカンの目に入ったのは、横たわって瀕死の重傷を負ったアンドレアの方であった。
アンドレアは背骨を打って危険な状態なのだ。
何て事なんだ、ダンカンは思った。
事故の連絡を受け、直にミーロの事で頭が一杯になった。
私には、かけがえのない二人の息子がいたのだった。
そう云えば、常に体の弱いミーロの事ばかりを考え続けていた自分であり、そんな自分を気付かせ、戒める様なアンドレアの事故であった。
ダンカンは、知っている限りの医者に手当ての依頼をするのだが、医者からは既に手の尽くしようがない状態であった。
ヴィルは、この悲しくもいたたまれない現実に激しく胸を痛める。
「ママの肖像画の部屋で・・・」と、父親に最後の願いを言うアンドレ。
父ダンカンも「許しておくれ」・・・この時初めて、アンドレアの心も知り、死の淵にいる大事な息子への誤解し、理解いてやれなかった事にも気付き、アンドレアには、もう届かない自分の非を認めるのであったが・・・。
「お兄ちゃんは、何処かに行くの」
何も知らないで、また一緒に遊べる事を信じながら兄を気遣うミーロの言葉が寂しく響く。
アンドレアは、母の肖像画が見える部屋で、そっと息を引き取り優しかった母の元へ。

美しい背景が、アンドレア少年の汚れの無い純粋な心を物語る様に映し出され、ゆえに、崩れそうで、はかない未来をも予感させた映像美となり、演技力と云った枠を超えた、ステファノ・コラグランデ少年の端整なマスクから生み出された自然なままの繊細な表現の美しさと、綺麗なまでに見える線の細いが故の存在感を、上手く調和させ、理解される事の無かった悲しくも短い小さな生涯を、美しく心に焼き付けさせた、忘れえぬ作品であった。
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「卒業」その3・カリフォルニア州道1号線

2007-05-06 17:42:48 | 映画
映画・卒業の撮影場所をたずねて

◎南カリフォルニア大学のキャンパスはとても緑が豊かで、「フォレスト・ガンプ」や「卒業」など、多くの映画・ドラマ等の撮影で使われており、現在も大都会の中心にあることを忘れてしまうほどの様で、キャンパス内には伝統の重みを感じさせる古い建物も残っており、映画撮影時と変わらない事であれば素晴らしい事ですね。
映画・TV学部で学び卒業した人達の中では世界的な評価を受けており、多くの監督、脚本家を生み、「荒野のガンマン、わらの犬、ゲッタウェイ」の巨匠サム・ペキンパーや「スター・ウォーズ」で知られるジョージ・ルーカス監督をはじめロバート・ゼメキス、ドワイト・H・リトル、スティーヴン・ソマーズ、レス・メンフィールド、ジョン・ミリアス、ケビン・レイノルズ、新鋭ジョシュ・シュワルツ、ジェイ・ローチ。著名な映画人、俳優ではジョン・ウェイン、リチャード・クレンナ、フォレスト・ウィッテカー、子役のジョセフ・マゼロ。その他ミュージシャンを輩出し、映画・メディア界の第一線で活躍しています。
またUSC名誉教授であるスピルバーグ監督など、世界第一級クラスの監督が、学生のために公演や講義に訪れます。
他分野では、建築家のフランク・ゲーリー、作家のラング・ルイスが卒業しています。

※-9※-9※-9※-10
※-9エレーンに会いに行ったとき、大学の噴水のところに座って待っているのですが、そのシーンは南カリフォルニア大学でも一番古いドヒーニー記念図書館前の噴水で撮ってます。
※-10は、現在のドヒーニー記念図書館前の噴水。

※-11※-12※-13※-13
※-11ベンジャミン(ダスティン・ホフマン)がエレーンを待っていたカフェ。実は撮影当時のオーナーが、このカフェでの撮影を許可しなかったため、別のカフェで撮影したものと、道路を挟んだ向かいの古書店(モーズ)を合成して制作された。
共に現在も営業中である。
※-12は、現在の古書店(モーズ)。
※-13、そしてエレーンが乗ったバスを追いかけ、ベンが乗り込むシーン。

※-14               ※-15
※-14、エレーンと別の男性が待ち合わせをしていたサンフランシスコ動物園。
1970年に、自然に近い環境で動物たちを飼育しようと、全面改装された。
撮影当時まだ子どもだったチンパンジー(トゥルーラ)が50才になるが、まだ元気に暮らしている。
※-15は、現在のサンフランシスコ動物園。

◎他の男と結婚する決心を固めているエレーンにベンが求婚しているシーン、逆上し大声になるベンであったが。(図書館内)
Elaine "He said he thought we'd make a pretty good team."
「彼が、私たちはいいチームになれると言ったの」
Ben "Oh, no. He said that?" "Where did he do it?" "I'd like to know where it happened." "It wasn't in his car, was it?"
「本当?どこでそう言ったの?もしや、彼の車の中じゃないだろうね?」
...ロビンソン夫人との会話の中で、エレーンが車の中で出来てしまい、仕方なく結婚するようになってしまったことを思わず確かめた様になって・・・。

ベンジャミンは手をつくし、ついに式当日に式場を探しあてる。 車を飛ばして式場に向かうが車はガス欠、最後に両の足で走り始める。

※-16               ※-17
※-16クライマックス、ベンジャミンがエレーンを奪い去る伝説のラストシーンの撮影が行われた教会。1963年に建てられたユナイテッド・メソジスト寺院。
そのユニークな形が映画関係者の目に留まり、撮影場所に選ばれたのだそうである。祭壇の向こうはガラス張りで、大きな木の全体が見渡せる。
※-17は、現在のユナイテッド・メソジスト寺院。実はベンジャミンが駆け上がる外階段はもともとあったものではなく、美術スタッフがセットとして作ったもので、現在の建物の左側には階段は存在していない。

(その1・2での資料は、不特定に集め参考としました。写真の鮮明度が悪く見苦しい点ご容赦願います。)
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「卒業」その2・カリフォルニア州道1号線

2007-05-06 16:50:59 | 映画
映画・卒業の撮影場所をたずねて
                     サイモン&ガーファンクル
Hello darkness, my old friend,       ハロー、暗闇よ、ひさしぶりだね
I’ve come to talk with you again     また君と話しにきたよ
Because a vision softly creeping     幻影がそっと忍びこんできて
Left its seeds while I was sleeping    種をまいていったんだ、僕がねむっているあいだに
And the vision that was planted in my brain 僕の頭に植えこまれた、その幻影はい
Still remains                    まだ残っているんだ
Within the sound of silence         沈黙の音のなかに

And here's to you,Mrs.Robinson,      ねえ、ロビンソンさんの奥様
Jesus loves more than you will know   想像以上に神は貴方に愛を捧げてくださってるん
                         ですよ

(Wo wo wo)
God bless you, please, Mrs.Robinson,    神のご加護がありますように、ロビンソン奥様
Heavens holds a place for those who pray 祈りを捧げる者には、必ず天国での居所をご用
                           意下さいます

(Hey hey hey, hey hey hey)

「サウンド・オブ・サイレンス」「スカボロー・フェア」「ミセス・ロビンソン」「四月になれば彼女は」「プレジャー・マシン」などの挿入歌が効果的に映像を引き立てています。
ポールは、「オーヴァーズ」と「パンキーのジレンマ」(アルバム「ブックエン ド」収録の傑作)を映画用に提出しましたが、監督には却下され、結局新作は「ミセス・ロビンソン」だけとなりました。しかもこの歌には逸話があり、タイトルを「ミセス・ルーズベルト」としてアイデアを絞っていたのを、監督に一喝され、しぶしぶ映画に合わせ内容を書きかえたというのです。そんな訳でタイトルも「ミセス・ロビンソン」としました。完成したこの歌は全部が映画で使われたわけでなく、歌を部分的に、またはポールのギター演奏だけで使用しています。
サントラ「卒業」と同アルバムに収められた「ミセス・ロビンソン」は、1969年のグラミー賞を受賞しています。

   
ベン役のダスティン・ホフマンは1937年8月8日、カリフォルニア州ロサンゼルス生まれ、ダスティン・ホフマンのダスティンは、無声映画時代のカウボーイ・スター、ダスティン・ファームからとった名で、兄のロナルド・ホフマンは「心の旅路」に出演していたロナルド・コーマンからとったという事であり、兄のロナルドは経済学者でアメリカ国防省の健康、教育、厚生部に所属していた。
サンタモニカ私立大学・演劇科に入学、やがて俳優を志しパサデナ・プレイハウスに入り58年に卒業し、その後リー・ストラスバーグのアクターズ・スタジオ、ロニー・チャップマン、ヘレン・タミリス、ダニエル・ナグリン等について演劇を学び、生活のためにダンス・ホールのピアノ弾き、神経病院の付添人、ウェイター、皿洗、ビルの清掃人、メーシー百貨店のオモチャ部に勤めたりした。
ニューヨークの演劇街ブロードウェーやハリウッドでも、型破りなパーソナリティを求め、ニュー・シネマ時代が到来したのだった。
彼の初舞台はセイラ・ロレンス大学が上演したガートルード・スタイン原作の舞台劇「YES IS FOR A VERY YOUNG MAN(若者にはイエス)」で、続いて夏期劇団、ボストン・シアター劇団、テレビ出演を経て1961年にブロードウェイで初舞台を踏み、64年、ユール・グロスバードを助けてオフ・ブロードウェーの演目「A VIEW FROM THE BRIDGE(橋からの眺め)」の演出を行う。
66年「JOURNEY OF THE FIFTH HORSE(第五番目の馬の旅)」に出演してオビー賞を獲得する。その後、ヘンリー・リビングスの舞台劇「EH?」でドラマ・デスク賞とシアター・ワールド賞を獲得した。
67年に「TIGER MAKES OUT」でわずか45秒の出演で映画デビューする。
その後、舞台劇「HARRY, NOON AND NIGHT(ハリーと昼と夜)」で監督マイク・ニコルズに見出され1970年の「卒業」で、アカデミー賞助演男優賞にノミネート、英国アカデミー賞新人賞を受賞、ゴールデングローブ賞有望若手男優賞受賞。
以後は、「ジョンとメリー」、「真夜中のカーボーイ」、「小さな巨人」、「わらの犬」「パピヨン」、驚異的な早口の演技を披露し、凄まじい気迫の演技であった「レニー・ブル−ス」等、独特な個性で次々と名作を残す。
この時代の彼は「卒業」に代表される様に、もっとも沢山のアメリカン・ニューシネマに出演した俳優のひとりでもある。
1979年には「クレイマー、クレイマー」で、素晴らしい演技でお父さん役をこなし、52回アカデミー主演男優賞を受賞、ゴールデングローブ賞主演男優賞を受賞。
1982年には「トッツィー」で女装にも挑戦、ゴールデングローブ賞主演男優賞を受賞、個性の幅も広げ、演技も磨かれていった。
1988年の「レインマン」も、61回アカデミー主演男優賞を受賞し、ゴールデングローブ賞主演男優賞を受賞する。以後も「フック」、「アウトブレイク」、や「ネヴァーランド」等、数々の作品に出演し、現在も元気な姿で大活躍している最高の名優に数えられる一人である。
1969年5月に結婚した最初の妻アン・バーンとの間に二人の娘カレンとジェンナがおり(カレンはアンの連れ子)、アンとの離婚後、1980年10月に再婚したリサ・ゴットセーゲンとの間に四人の子供、ヤコブ、マックス、レベッカ、アレクサンドラがいる。息子の俳優ジェイク・ホフマンが活躍中。

エレーン役のキャサリン・ロスは、カリフォルニア州ロサンゼルス生まれ、「歌え!ドミニク」、1964年にはアカデミー賞助演女優賞にノミネート、1970年、「明日に向かって撃て!」、「夕陽に向かって走れ」等に出演し、英国アカデミー賞主演女優賞を受賞。その清楚な雰囲気でアイドル的存在で、ファン投票も長い間、トップクラスにいました。
その後児童文学作者として2冊の本を出しています。
1984年に俳優のサム・エリオットと結婚し、1人の娘が居る。

ミセス・ロビンソン役のアン・バンクロフトは、1931年9月17日、ニューヨーク市内ブロンクスで、イタリア移民の両親の間に生まれる。身長168センチ・体重52キロ。
17歳で市内の演劇学校に入学し、アン・マーノの芸名で創成期のテレビに出演。誘いを受けてハリウッドに移り、著名プロデューサーのダリル・ザナックの勧めで、芸名をアン・バンクロフトに変更。
役に恵まれずニューヨークに戻った後、「メソッド」で有名なアクターズ・スタジオに学ぶ。
1958年にアーサー・ペン演出の舞台劇「二人でシーソーを」で1960年、トニー賞を初受賞。
翌年に再びペンが演出を手がけた、3重苦のヘレン・ケラーを描いた感動作「奇跡の人」のサリバン先生役が当たり、同賞の2年連続受賞を達成した。
「奇跡の人」を舞台で認められ、それを映画化した1962年の同作品で同じサリバン教師役を熱演して、1962年に第35回アカデミー主演女優賞を獲得。
1964年の「女が愛情に渇くとき」で カンヌ映画祭女優賞も受賞している。
1967年では、映画「卒業」のロビンソン夫人役を好演し、アカデミー賞では主演女優賞にノミネートされる。
彼女は、ロビンソン夫人役の人と云われる事は嫌だった様なのですが、私の彼女のイメージは、この年上の女性ですね。
その後「愛と喝采の日々」、「エレファント・マン」、「アグネス」、「トーチソング・トリロジー」等に出演した名女優です。
2005年6月6日、子宮ガンでニューヨーク市内の病院で死去、享年73。

監督のマイク・ニコルズは、1931年ドイツ・ベルリン生まれ。ナチスから逃れて米国へ移住。シカゴ医大を中退後、アラン・アーキンと劇団を結成。俳優としてオフ・ブロードウェイやテレビに出演。やがて演出を担当するようになり、63年にニール・サイモンの“裸足で散歩” などを手掛け、ブロードウェイ公演からトニー賞を初め、さまざまな賞を受賞し、舞台演出の巨匠となる。映画監督デビューは、1966年の「バージニア・ウルフなんかこわくない」で映画監督デビューし、オスカー13部門にノミネートされ、第39回アカデミー賞を5部門で受賞、英国アカデミー賞では、3部門を受賞。翌年「卒業」でオスカー7部門にノミネートされ、第40回アカデミー監督賞を受賞、1968年の英国アカデミー賞では、監督賞を含め5部門を受賞。1988年「ワーキング・ガール」では、5部門でノミネートされ第61回アカデミー賞1部門で受賞。コメディ・センスあふれる都会派ドラマからホラーまで幅広い活躍を続け、その他「愛の狩人」、「キャッチ22」、「イルカの日」等々、最近でも「ブルースが聞こえる」、「心みだれて」、「心の旅」等を監督しています。

※-1※-1※-2※-2※-3
※-1西海岸の両親のもとを離れて、東海岸で陸上部のスター、成績も優秀であった大学生活を卒業した青年ベンジャミンは、故郷へ帰る。家族や親戚、両親の友人たちの期待を背負う重圧の中で、ベンの心の中は空虚な世界が支配していた。
自宅プールのシーン。
※-2ふとしたことがきっかけでロビンソン夫人の必要な誘惑に戸惑う。
※-3場所はタフト・ホテル。
ベンジャミンがホテルの部屋内で、壁に頭を何回もぶつけて「こんなこと(不倫)をしちゃだめだ」というシーンは、その前にある、後ろからロビンソン夫人の胸を触るシーンを見たマイク・ニコルズ監督が笑ってしまい、ダスティン・ホフマンが(壁に頭を何回もぶつけて)笑いをこらえるためにやったことを実はシーンにいれているのだそうです。

「エレインを誘わない」と夫人に約束したベンだが、両親の強い要望で、エレインとデートすることになる。
ロビンソン家を訪問し、ミセス・ロビンソンに言い訳するベン。エレインの白い服。黒いサングラスをかけて、ひさしぶりに会うエレインに心を開かず、ストリップ劇場へ連れていくベン。そんなベンの仕打ちに涙を流す純粋なエレインに、ベンは心を動かされ、街に飛び出した彼女を追いかけ、キスをする。
そこには、ミセス・ロビンソンとの時の様な、ぎこちなさは無かった。
夜中、エレインを家へ送るころには、夫人と別れる決意をするのであった。

※-4※-5※-5※-5※-6
※-4ベンジャミンは、夫人との秘密を知り傷つき逃げる様に戻ったUCBのエレーンに会いに行く為カリフォルニア州道1号線を走りバークレーへ。
※-5上下2段に別れているサンフランシスコ・ベイブリッジの上側を赤い車(アルファ・ロメオ・スパイダー・ジュリエッタ)で走っています。
実際には上側はバークレー方面からサンフランシスコに行くために使い、物語の設定では下側の逆方向への通行となる。
撮影は空撮である事から上側を走らせたい。よって上側を通行止めにし、逆行する事で無事撮影したとの事です。
※-6は、現在のサンフランシスコ・ベイブリッジ。

※-7   ※-8   ※-8
※-7ここでも物語の設定では、エレーンは、この大学に通う学生。1868年創立の(UCB)カリフォルニア大学バークレー校。(写真は現在の大学)
※-8実際の撮影に使った大学は、1880年に創立されたアメリカ西部最古の名門私立大学(USC)南カリフォルニア大学で行なわれた。(写真は現在の大学)
しかし、この時代は学園紛争が盛んであった為、治安上良くなかった事で、大学のシーンはロサンゼルスの別の所で撮影された。

・・・・・続きは、その3へ
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旧国鉄周遊券の旅(初めに)

2007-04-03 11:32:24 | 国内の旅
旧国鉄周遊券の旅での最初の部分を投稿させて頂きます。

不適切な言葉と思われる箇所が、あるかも知れませんが、当時を反映する事からもご理解願います。又、話を解り易くする為、人物は仮名にしました。

旅行当日は朝早くの出発の為、当時私は大阪市内に住んでいた理由というから、北村は前日から私の家で泊る事になった。
「おばさん、お世話になります」
玄関の方を見れば、ジーパンとTシャツ姿にマジソン・スクウェアーガーデンのロゴ入りの私と色違いのスポーツバッグを片手に提げ、もう一方の手に土産の心算なのか、タダのドーナッツを持ち、既に旅行から帰ってきた様にも感じられる出で立ちで、愛嬌のあるニコニコした顔で、母の前に立っていた。
(普段着以下やな、ニヤニヤしやがって、こいつにしたら今日が実家から離れる初日になるから、旅行の始まりってこっちゃな)
やたら、笑顔と言うより笑っている友人の心の分析をして、少し楽しんでいる自分があった。
「おー、」・・続けて「入れや」と、言おうとしたが、母が先に挨拶をした。
「いらっしゃい」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「いらっしゃいませ」
この日より数日前、私は某ドーナッツ店のバイト先でオールナイトの勤務についていた。
「お忙しい処、申し訳ないですが、ホームカットとホット二ツづつ頂けますか」
ひと際ていねいで、紳士的な言葉遣いのポッテリと肥えた色白のこの常連客は、おそらくヤクザ屋さんの幹部にも思われ、ほぼ毎日アメ車で、綺麗な婦人と一緒に来店され、酔っ払いや若いチンピラ風の嫌な客が来店する中で、私にすれば、どの客よりむしろ安心出来る、お客でもあり又時間帯でもあった。
厨房に入る開けっ放しのドアー付近では、今日から入った新人のバイトが、軸足を厨房に置き、ビビっている。
(まあ、先輩のバイトとしてええとこ見せとかなあかんな、よう見とけよ)
頼まれたホームカットとホットを持って行けば、指定席の様に決まって座られているテーブルの上には、当時の日本社会では馴染まれなかったシステムで品物より先に価格通りのお金が既に置かれていた。
「ありがとうございます」「失礼します、ごゆっくり」っと、言ってお金を下げる。
その筋の人といった事もあるが、好きなお客には、必要以上に丁重であり、どちらかといえば無愛想な私では、あったが自然と出る笑顔が何よりも物語っていた。
「あ、すんませんな」
時には、励ましの言葉をかけて頂くが、今日は声をかけられない様であった。
様子を見ているであろう新人の方を見る。(どや、見たか・・・お、おらんがな?)
新人のバイトは、厨房に入ってしまっているではないか。
(根性無しやな、って言うか要領かますのが、上手い奴ちゃ)
やや、ムカついて厨房の方を睨んでいるとコンコンと外部ショーケースの上の窓を叩く音がする。
友人の北村が約束した時間通りに立っており、指で奥の休憩場所を指示している。
北村も同じ様にここでバイトをしているのだが、今日は休みであり、今日朝、彼からの電話で、国鉄周遊券で来週から山陰・山陽を旅行する、急な誘いを受け、朝一番に周遊券を購入し、その打ち合わせに来るとの事であった。
「お、解った」心でつぶやく様にした後、指示した休憩所に向う。
厨房に居た新人のバイトに「店の方頼むわ」と、声をかけると予想通りの返事がくる。
「・・・出来るかな」
バイトが続けられるか不安な様である。
(前向きやないな、草食動物みたいな奴やけど、とりあえず励ましといてやろか)
「最初は、皆一緒や、見た目で判断せん方がええで、あの客は一般の客よりええ人やから、大丈夫や。あの人見てみいや、全然平気やろ」
と、指差す方には、ラジオから井上揚水の「心もよう」が流れている厨房で先輩の佐竹さんが力強い振り付けをして歌っている。
「悲しさだけを手紙に詰めて、故郷に住むあなたに送る・・・・・」
最近のファーストフード、いや、当時でもこの店だけかもしれないが、長髪で口ひげを生やし、色つきのメガネをかけた考えられない出で立ちは、深夜勤務専用でもある事からも許されている様にも思われ、男っぽく体育系過ぎるきらいがあるが、その人柄は面倒見がよく、自身それに酔っている風でもあり、私は特に、そのいい恩恵を受けていた。
(相変わらず元気や、歌詞の意図に負けたらあかん気持ちは解るけど、歌以上に、この店にも合わんけど、何か好っきゃなあ)
「おおきに、どうも」
歌っていた声以上の度デカイ声を店の方に佐竹さんが、ぶっ放した。
そして、笑いながら私の前に居る先の見えない新人のバイトに「おい新人、お客さんがお帰りやぞ」
迫力に押され、迷いも覚めたかの様に新人が店の方にすっ飛んで行った。
大きな声で「ありがとう、ございます」
(無理やり吹っ切れたみたいや、大丈夫みたいやなあ)
元気を取り戻した新人を見ている私に「おー、北村来とるぞ」「何処かに行くんか」懲りずに歌ってる途中にもかかわらず、思ったまま聞いてきた。
「あいつと、周遊券で旅行する打ち合わせの為、今日ここで待ちきってたんですわ」と言って開けっ放しの休憩する部屋にはいった。
私の後を追う様にレギュラーの山路さんも歌いながらすぐ後から入ってきた。
「へえー、旅行かええな」「何処に行くの」
既に、北村が旅行の話しをしたらしく、レギュラーと言えど年齢は、二十五、六である団塊世代の山路さんも新しい情報には興味を持ってくる。
「北村が山陰山陽の周遊券を持って来た訳で」
「こいつ、前の日に俺ん所泊まるのに、そん時渡したらええのに、暇やから来よったんですわ」私の図星の言葉に北村が反応してきた。
「お前、折角持って来たったのに、よく言うなあ」
続けて目的の一つを要求してきた。
「オレンジとドーナッツ」
山路さんが、新人のバイトに客でも無い友人のオーダーを通してくれた。
当時の規約では、この様な事は違反なのかどうかは、知らないが店長を始めアウトローの店でもあり、またレギュラーの心遣いでもあったのか、やや自由な、この店の雰囲気は心地よく、バイトとのチームワークも良く、その事が少々レギュラーからの無理な依頼も率先して引き受けた要因にもなっていた。
「注文は、俺が店に居る時に言えや」
持って来てくれた新人のバイトに「悪いなあ」と、声をかけてジュースを飲みほした。
「い、」と、山路さんが言いかけた時「毎度う」厨房から佐竹さんの大声が割り込んで来る。
「中央市場みたいやな」と、私が言えば、必要以上に受ける山路さんではあるが、言った私が引いてしまう程、やはり予想を上回る反応を示し、帽子を飛ばし笑いながら「い、いつから行くの」と勤務表を見ながら山路さんが気を取り直し尋ねてきた。
「急な旅行で、申し訳ないですけど、店長には今日の夕方、言ってあるんすけど」
「あの人は、肝心な事話さないからなあ。北村君も一緒やな」
「おっ、来週やな、代わりのモン入れとるわ」
「良かったあ、もう慌てるわ」
「冗談や、みんな知ってるよ」と、山路さんがニコーっと笑いながら、厨房を見た。
「佐竹さんもしってたんすか」と、厨房に向けて確認をする。
「あったりまえやんけ、お前等の行動は把握済みや」
「ワシ等には、悪い事は出けへんぞう」
留まる事を知らない大きな声で、子供に言い聞かせる様に言ってきた。
拡声器無しの体育舘で喋っている様に、話のイニシアチブを取る大声は、私と云う目標物をも突き抜けて遥か彼方に行ってる。
「何でやねんな、悪い事ちゃいますで」
(あの声に比べ、なんと影が薄い返事やろ)
「そらそうや」ラジオの深夜放送から流れている曲に合わし、曲も変わったのか「こんな時、誰かにほら・・・」
と、口ずさみながら、人差し指を上下し、横に振りながら、相変わらずのパフォーマンスをしながら答えている。
その姿を呆然と三人が見ていたが、気を取り戻した様に、ニヤっとして冗談交じりで山路さんが尋ねてきた。
「ドーナッツ持って帰るか・・・話は変わるが旅行中は、車空くな、貸しといてくれへんか」
当時の私には分相応ではない自家用車を持っており、中古車である為電気系統が弱く、バッテリーは新品のにも拘らずあがってしまうのである。
そんな事からも本当は車で旅行をしたかったのが本音でもあった。
「別にいいですけど、バッテリーが直ぐに、上がってしまいますよ」
それを聞いて、既に新車の自家用車を乗り回していた佐竹さんが、「忘れとった、こないだ見たとこ、ダイナモと違う見たいやし、旅行から帰ってきたら、知り合いの車専門の電気屋を紹介したるわ」
(ええ人や)
「え、ほんま、頼みますわ」
悩まされていた車から開放される気持ちで、旅行の次の楽しみも増してきた様であった。
「借りるのはいいんやけど、その前に癖のある車やから、多分クラッチの遊びが大きいから、慣れんと初めて乗る人はスタート時にノッキングしますで」
と、佐竹さんがアドバイスを山路さんに送った。
「え、そんなら今度練習してから乗せて貰うわ」
確かに、癖のある車で、半クラッチ時は少なめに、しないと滑らかにスタート出来ないのである。
「何泊で、行くの」と、山路さんが本題を聞き出した。
「七泊八日の周遊券で山陰から萩を周って、山陽線に乗り広島なんかを経由して戻ってこようと思ってますねん」
観光地に詳しい山路さんや佐竹さんから押し付けのアドバイスを受け、盛り上がった頃、ドーナッツを揚げながら佐竹さんが、相変わらずの大声で聞いてきた。
「処で、その周遊券って奴は、何処の遊園地でも、タダなんか」
「えー」・・・(何を今迄喋ってたんやろ)
後日談ではあるが、私の驚きとは異なり、その時点では佐竹さんが、公共の乗り物音痴であった事に、初めて知った北村と山路さんの驚きが、言葉に出せなかった様で、佐竹さん同様に私自身も、何とか車を持ち得た喜びから車の事で思考が支配され、国鉄の周遊券は、公共の乗り物の利用が多い北村から聞く迄は、知らなかった。
この時期は車社会に入った日本でもあるが、若くて車を購入出来た者と、それで無い人では行動に伴う好奇心の方向に差があり、その事はそれぞれの情報の差にも当然現われ、一つの優越感もあったが逆に、そんな私に、ありがたい情報を与えてくれた北村と、その日を迎えたのであった。
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ディープよ、伝説となれ。

2006-09-27 11:31:34 | 世界の競馬
スーパージョッキー武豊が26日、決戦の地フランスへ向かった。彼にとっても、過去、凱旋門賞には2度挑戦。初参戦で当時25歳の94年は、ドーヴィル大賞典を勝った本命馬だった1番人気のホワイトマズルに騎乗したが、欧州で実績のない騎手が、日本人オーナー(吉田照哉氏)の馬というだけで騎乗して、現地関係者の厳しい視線を受けながらのレースは、後方から差を詰めただけの6着に終わり、その厳しさを味わった。
武豊にとって、凱旋門賞は、是が非でも持ち帰らなければならない“忘れ物”であり、20年の騎手生活の集大成を見せる時が来たのです。
そして、何としても勝ちたいレースに、デビューから騎乗する日本最強馬にまたがって臨む、世界が注目のロンシャンの大舞台。
25日、自身のホームページにこう記した。「ボク自身の人生に悔いを残さない、そんなレースをディープインパクトとともに戦ってくるつもりです。それでは、行ってきます」強い決意を胸に秘め、武豊はフランスへ旅立つ。

私にとりましても、競馬歴35年間待ちに待った日本馬での悲願の世界ナンバー1であった。
昭和52年12月18日「有馬記念」(中山芝2500)スタートから延々と続き、4コーナーを回る2頭が西日を浴びて黄金色に輝くシーン、そして一騎討ちにピリオドを打ったのは、最後の直線でグイッと前に出たテンポイントであった。史上類を見ない壮絶な一騎討ちは、荘厳なまでの美しさで見事に完結し、明け5歳になったテンポイントの充実ぶりは、凄まじいものであった。しかし、最強馬として挑む海外遠征前に、日本のファンの為にもと日本最後のレースでの楽勝と思わせた瞬間であった。懸命の関係者の手当ての甲斐なくテンポイントは、静かにターフを去った。
次世代の最強馬シンボリルドルフの故障、等過去当時日本最強馬の挫折が続いたのであるが、上手くスタート出来たにしても、おそらく勝てなかっただろうとも考える。
1999年、エルコンドルパサーがフランスに渡った。戦績は4戦2勝、2着2回というもので、その中にはGIのサンクルー大賞勝ち、凱旋門賞2着が含まれている。この年、エルコンドルパサーは日本のレースに一度も出走しなかったにもかかわらず、年度代表馬に選出された。欧州でのGI制覇に加え、凱旋門賞で好勝負したという事実が、日本馬をどれだけ高く評価されたかの証左といえるだろう。
そして今こそは、実力的にも手の届く処にまで、来たと実感する。

ディープインパクトを見るに、脚質こそ違えれど、鹿毛で小柄でスピード、スタミナを兼ね備えたイタリアが世界に誇る(私が思う、史上最強馬・牡・鹿毛・英国産 1952-1972)ちびっこ・リボーがだぶる。世に多くの名馬を送り、彼を創り出した、天才と呼ばれたイタリアの馬産家フェデリコ・テシオ(1855〜1967)のもう一頭の傑作馬、ネアルコ(14戦無敗馬)と異なり、調教では助手を振り落とし、レースでは騎手のことは一切聞かずに我が道を行く。とても意志の強い馬だが、彼の意見を尊重すれば素晴らしい結果を出してくれるのであったが、その様に気性が悪くその遺伝子を伝える事から、凱旋門賞等の多くの活躍馬を出したが、ネアルコほどの繁栄はしていないのである。日本で供用された彼の直仔マロットからは、4歳時(現年齢方では、3歳)に菊花賞、有馬記念を勝ったイシノヒカル、同じくロムルスからは中京3歳ステークス勝ちのランドジャガーがいる。
雨の降る中で行われた1956年の弟35回凱旋門賞(仏GI)。
このレースでは、1頭の鹿毛馬が、観衆の注目を一身に集めていた。大柄な馬たちに混じった子馬のように小さな、その馬の名はリボーといい、これが引退レース。
そして、この華奢な馬が前人未踏のある偉大な記録を達成しようとしてた為、この偉業見たさに、多くの人が詰め掛けたのである。
15戦全勝、勝ちは殆ど楽勝で迎えたこのレース。勝てば、タンティエーム以来、史上5頭目の凱旋門賞2連覇となり、未だ無敗での連覇達成記録はなかった。
こうして未だ無敗で迎えた2度目の凱旋門賞。これがリボーにとっての引退レース。
斥量60kg、圧倒的な一番人気にも当馬はおじけることなく、ただ当たり前に事が過ぎようとしていた。レースはやはり、リボーが愛ダービー馬タルゴにの6馬身差を付け圧勝。
この着差はシーバード(1963〜1972)と並ぶ凱旋門史上最大着差でもある。
(公式記録では6馬身差となってるが、実際には8馬身〜9馬身はあったとも言われている。)通算競走成績、16戦全勝、リボーはこの日、伝説となった。
だが最も驚くのは、このレースでリボーは最後まで馬なりだったという事実である。「ちびっこ」と呼ばれた鹿毛の小さなその馬は、結局生涯負けることがなかった。
その事からも、リボーより50年になる今年のディープインパクトは何か巡りあわせの様な気がするのである。そして伝説となれ。

当日の輸送は
日本では通常、早朝に輸送し、競馬場内にある馬房で装鞍(そうあん)を待つが、フランスでは直接、装鞍所に入ってパドックへ向かう。「レース当日はどれぐらい道が混雑するか想像できないが、あまり早く行っても仕方がない。2時間から1時間半前に着きたいところ」と池江泰郎師。ここまで順調に調整してきただけに、レース当日に輸送でテンションがあがるようなミスは避けなければならない。「いかにスムーズに輸送できるか、準備していきたい」。
「ロンシャンの馬場は芝が生え揃って、クッションの利いたいい状態でした。雨が降って馬場が悪くなっても、ディープなら克服してくれると信じている」とトレーナーは絶対の信頼を寄せている。ロンシャンでは、レース当日の後半、秋シーズンとして初めて馬場を全面開放。仮柵で保護されていた約15メートルの“グリーンベルト”が登場する。今年は少頭数が確実で、ディープが外目からレースを進めても、グリーンベルトの恩恵に浴することができるはずだ。


出走予定馬 馬番・ゼッケン番号、( )は枠番・ゲート番                      
1、(2)ディープインパクト(Deep Impact) 牡4 日 日 59.5 武   豊 池江 泰郎 (10、1、0、0)                

3、(6)シロッコ (Shirocco)牡5 独 仏 59.5 C.スミヨン A.ファーブル (7、1、3、1)              

2、(1)ハリケーンラン(Hurricane Run) 牡4 愛 仏 59.5 K.ファロン A.ファーブル (8、3、0、0)            

4、(5)プライド(Pride) 牝6 仏 仏 58.0 C.ルメール A.ドゥロワイユデュプレ (7、4、4、8)       

8、(3)ベストネーム(Best Name) 牡3 英 仏 56.0 O.ペリエ R.コレ (2、2、0、1)              

5、(4)レールリンク(Rail Link) 牡3 英 仏 56.0 S.パスキエ A.ファーブル (4、1、0、1)

6、(8)シックスティーズアイコン(Sixties Icon) 牡3 英 英 56.0 L.デットーリ J.ノセダ (3、0、1、2)

7、(7)アイリッシュウェルズ(Irish Wells) 牡3 仏 仏 56.0 D.ブフ F.ロー (3、1、3、1)

現地時間10月1日に仏・ロンシャン競馬場で行われる凱旋門賞(仏G1)に出走を予定していた今年の英ダービー馬サーパーシー Sir Percy(牡3、英・M.トレゴニング厩舎)が、調教中に肩の筋肉を痛めた為、同レースを回避することが分かった。
サーパーシーは、父Mark of Esteem、母Percy's Lass(その父Blakeney)という血統の英国産馬。05年5月のデビュー戦からデューハーストS(英G1)まで無傷の4連勝を達成。英2000ギニー(英G1)はジョージワシントン George Washingtonの2着に敗れたが、続く英ダービー(英G1)を大接戦の末に制し、その後は凱旋門賞に向けて調整が進められていた。通算成績6戦5勝(G1・2勝)。

日本調教馬の過去、凱旋門賞成績
開催回 年度 馬名 着順 騎手 調教師
第48回 1969年 スピードシンボリ 10着 野平 祐二 野平 省三
第51回 1972年 メジロムサシ 18着 野平 祐二 大久保末吉
第65回 1986年 シリウスシンボリ※ 14着 M.フィリッペロン 二本柳俊夫
第78回 1999年 エルコンドルパサー 2着 蛯名 正義 二ノ宮敬宇
第81回 2002年 マンハッタンカフェ 13着 蛯名 正義 小島   太
第83回 2004年 タップダンスシチー 17着 佐藤 哲三 佐々木晶三
※=フランス調教馬


凱旋門賞が開催されるロンシャン競馬場は、
特別なコースで、スタート後すぐに上り坂、そのあと下り坂で、いかに上手く下るかであり、下りにまかして走れば、直線での足が止まりかねない為、そこでの位置取りが大事です。
ヨーロッパ競馬の道悪は想像を絶する。ここ10年の凱旋門賞で最も速い決着は97年パントルセレブルの2分24秒6(良)。最も遅いのが99年モンジュー(エルコンドルパサーが1/2馬身差2着)の2分38秒5(不良)で、その差13秒9。85日本ダービー馬シリウスシンボリが86年春に同じロンシャン芝2400メートルのGIIIエドヴィル賞に出走(6頭立て5着)した時は極悪馬場でスローペースの影響もあり、2分57秒6(優勝馬ベイビーターク)と2ハロン以上長い距離と勘違いしかねない遅い決着となった。
ジャパンCを例に取ると、日本はコースがよく整備されていることもあって不良は1度もなく、昨年英国のアルカセットがマークしたレコード2分22秒1(良)に対し、最も遅いタイムでも85年シンボリルドルフの2分28秒8(重)と差は6秒7でしかない。フランスの競馬場はヨーロッパの中では整備されている方だが、簡単にいえば路盤が粘土質のため、雨が降ると非常に重くなる。
ディープインパクトは、重でも克服はしてくれるだろうが、何といっても最後の切れ味勝負の馬であり、出来れば、スピード競馬に持ち込みたい。
又、ロンシャンは直線が長い割には前が残る競馬場でもある。
秋のロンシャンでは、日本同様に仮柵を外して凱旋門開催を迎えるので、どうしてもインが強くなりがちであり、スローで団子の展開となった場合にはインを取れる先行馬に味方する。一方で重くなったら想像以上に、先行馬が有利になる。そして、前記しました様に、下り坂とフォルスストレートのコンボは、差し馬にとって仕掛けのタイミングを容易ならざるものとなり、人馬共に我慢が要求される。
ステップレースでのニエル賞では、直線Youmzain(ユームゼイン)が追いんだが、ゴール前では、脚が止まりRail Link(レイルリンク)の半馬身差の2着となり、フォア賞でも、あのキングジョージでハーツクライを抜かせなかったHurricane Run(ハリケーンラン)が、やはりゴール前では、脚色が劣り始めShirocco(シロッコ)のクビ差2着となった様に、仕掛けが、早い又は、同じでも前の馬が有利な展開になっているが、逆に仕掛けが遅くなれば、Rail Link(レイルリンク)がラスト3Fは34.6で、長くいい脚を使えることを証明した様に届かないおそれがある。
その事から、ディープインパクトが、ラスト3Fを33秒代でくるであろと思うが、仮に、ロンシャン競馬場の馬場で難しいと考えれば、おそらく34秒前後になると推定し、最大の武器でもある、他馬に比べ驚異的に長くいい脚を使える強みを発揮するタイミングとしては、小頭数の利を活かせる為、特に大事なポイントとして、直線では、馬なりで先頭に近い位置からロングスパートをかけ、なるべくならば、並ぶ事なく抜き去るのが、(ディープインパクトの何時ものパターンなのですが、有馬記念の様な展開では、この相手では勝てないおそれがある)より効果的とも思えます。
ただ、希望的観測から申せば、常識を覆す処がおおいにある馬でもある事から、案外楽勝って事も信じたいものです。
10月1日は、幸い晴れの模様であり、ハリケーンラン、シロッコ、とのレベルの差は、正直、解らないが、充分差し切れると考える。
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感激!ヨーロッパ「シックス」ティーズの時代が薫る街並を後に

2006-09-19 22:10:53 | 海外の旅行
今日の宿泊のホテルには夕刻に着き、今後の予定は、何か世界一美味しいソーセージを食した後、ナチス結党のホーフブロイハウスやビヤホール、その後は自由で各自ホテル帰る段取りである。
まずは、地下鉄にて切符を買って、次は、しかし改札が無い、無いって事は、妙な事に入り口が判らないし、ケジメが無い事からか、何か落ち着かない、変な気持ちである。
添乗員の女性に、「買わないで乗ればどうなるんですか」なんて下世話な質問に「時々検札に来るのですが、無賃乗車になる訳ですから、罰則としての追徴金が多いらしく、日本の比ではないらしいのです」との事、なるほどリスクが大きい。
そんな事より、無事この地下鉄でホテルに帰れるかが、心配ではあるのだが、世界一美味しいと言われた事でソーセージを食べる時には、何時もながら夫婦でその事で頭がいっぱいであった。
日本のソーセージを食べ慣れている為か、そんなには上手くは無かったのが率直な感想であり、それより、サラいっぱいに盛られたポテトには、何と飾り気のない、無造作な盛り付けかと思うのと同時に、小学校の給食でのポテトサラダを思い出し、美味しくないと言うか、量の多さにも正直うんざりする思いであり、食べ慣れたマクドナルドのフライドポテトを思い出す始末である。
「こんなポテトばかり食べてるわりには、大きく育つんだなドイツ人は」と妻に言ったが、その表情からも言わんとする事が理解でき、周りのコンさんや河さん達夫婦もお皿にはポテトだらけであり、案の定食べきれなかった様であった。
ソーセージのハズレの次はナチス結党の場所である、ビヤホールは、あのヒトラーに関係する所でもあったが、歴史や映画好きな私には、感慨深いものがあるが、我が妻や他の奥さん達は、そんな事には興味が全くないのであって、ソーセージとポテトの憂さ晴らしか、ビールではご満悦であり、小さな老夫婦のダンスを見ては、「可愛い」の連発、又何かといえば写真の連射であり、趣味とか思いが異なれば、こうも違うものかと、関心させられる。ヒトラーも、もし生きて、こんな人達を見たならば、あれだけの事をした自分を無視されているどころか、眼中にもない現実に、自身の小ささを始めて経験した事であったろう。平和が生んだ産物は強いし、歴史の重みも吹っ飛んだ。
中途半端な満足感で、街に繰り出す。街は、何かヨーロッパの別な味わいがあり、1960年代の映画の中に居る感じがして、百貨店や繁華街を歩く、フィルムと8ミリテープ、ビヤジョッキ等を買い、帰りは他の人達とは別れ、コンさん夫婦とまともに戻れそうなタクシーでホテルまで帰る事にした。
タクシーの助手席には、私が座らされ、運転手担当になった。
行き先「Please go to the ○○○hotel.」を言うとドイツ人ではない、何か中東風な運転手が、気さくな感じで返してきた。
別に聞かなくても良いのであるが、何となく質問「Where is your country?」・・・「I am Greece.」と聞いた。「おー、ギリシャらしいで」と後ろの席に言うと、そこからが勢いで、ホテルに着くまで喋り捲りだった。知ってるだけのギリシャの名詞を並べるも、運転手は陽気な人で、何とか意志の疎通が可能であり、気が合う。向こうはどう思ったかは知らんけど。
約1/5程度の理解度で、こうも話せるのか、愉快でもあったが、運転手の方は、時折、私の言った事に理解出来ないのか、目が遠くを見つめ、必死に考えていた処があったが、自分なりの解釈が出来たのか、満足したのか笑顔で返してくる。率直に、実に可愛い奴である。
「これは、チップもはずまないといけないな」なんて妻に日本語で言っても、会話に関係ないのであるが、やはり、運転手は、目を白黒させ、考え込んでいる。
その表情を見て、「チップだけ解ったかも知れんな」とみんなに説明、そんなやりとりでおそらく、この運転手が、初めて経験する騒がしい、陽気な日本人の車内であった。
妻には、言ったものの、小銭がなにやら多く、じゃまであった。ホテルに着くとポケットから全てを出し、笑顔で「For you.」。運転手は満面の笑みで「Thank you.」
頭の中では、小銭の量は多かったのだが、金額的には、少なかった様にも思えていたのだが、コンさんの奥さんの言葉で、ハッキリした。
「あの運転手さん、最初は物凄く喜んでいたはったのに、お金数えながら不満相な顔でこっちの方見てたよ」とその状況説明で「やっぱりな、少ないとは思っていたんやけど、小銭がじゃまで、整理したんやわ」と運転手のポカーンとした表情の意味を話す。
妻が、「可哀そうに」と言葉と違い、運転手の表情のギャップが滑稽だったのか、おもいっきり笑っていた。
あくる日は、ノインシュバインシュタイン城へ出発である。
ホーエンシュヴァンガウ城等をバスから見ながら、ルードヴィッヒ2世とノインシュバインシュタイン城等の話を聴く、しかし素晴らしい眺めであり若きルードヴィッヒ2世の身の上も理解出来るものでもある。

ルードヴィッヒ2世について(他、ルードヴィッヒ2世記事参照)
[今から150年程前の1845年8月25日、バイエルン王国の首都ミュンヘン郊外にあるニュンフェンブルグの宮殿で、バイエルン王国皇太子マキシミリアンとプロイセンの王女であった妻マリーとの間に待望の世継ぎが誕生。父マキシミリアン2世は王子にとって祖父にあたるバイエルン王ルードヴィッヒ1世の名をもらい、この王位継承者である赤ん坊にルードヴィッヒ2世と名付けた。
その後王子は弟オットーと共に少年時代の殆どをバイエルンアルプスの山麓にある父の城、ホーエンシュヴァンガウ城で過ごした。この城は父マキシミリアン王が皇太子時代に中世の城跡に建てたもので、城内は白鳥の騎士ローエーグリーンを始め、沢山の北欧やバイエルンの中世伝説を題材とした壁画で飾られている。こうした絵に囲まれて育った王子は、山の中の城で母マリーや少数の召使い達に囲まれ、外の世界に触れることなく想像力豊かなロマンティックな感性を育んでいく。
ルードヴィッヒ2世が少年の頃から抱いていた中世の憧れに火を付けたのはワーグナーとの出会いである。ルードヴィッヒ2世は15才の時にミュンヘンの宮廷劇場でワーグナーのオペラ「ローエーグリーン」を観劇する。子供の頃から慣れ親しんできた壁画の世界が、舞台の上で踊っている。彼は全身が震えるほどの感動を覚え、ワーグナーとその作品世界の虜となる。
1864年マクシミリアン2世が急逝し、ヴィステルバッハ家の王位継承者としてルードヴィッヒ2世は18才で第4代バイエルン国王となった。王としての権力を使い彼が最初にやったことは、ワーグナーを呼び寄せることであった。
若き王は国民の信望を集め、自らも理想の政治を行うことを願った。就任当初から執務にまじめに取り組み、公の場所にも頻繁に姿を見せ、190センチを超える長身に、母親ゆずりの美貌を持ち合わせていた王は国民の人気を呼んだ。
王のワーグナーへの傾倒はとどまるところを知らなかった。もともとカトリックの勢力が強く保守的な土地柄であるバイエルンは、新教徒で革新的な芸術家ワーグナーへの反感が強く、ミュンヘン市内では王の莫大な金銭贈与と保護に反感を抱き、反ワーグナー機運が高まっていく。ワーグナー反対運動の盛り上がりに王も仕方なくワーグナーに国外退去を進め、ワーグナーはミュンヘンを去っていった。しかしその後20年間、王のパトロンとしての立場は変わらず金銭的援助は続けられた。ワーグナーがヴェネツィアで客死するまで2人の親交は続き、行き交った手紙や電報は700通にものぼった。
1866年ドイツ国内では統一問題をめぐってプロイセンとオーストリアの対立が顕著となり、バイエルンを初めとするドイツ連邦諸国を巻き込んでいく。中立を主張するルードヴィッヒの意見は聞き入れられず、バイエルンは大ドイツ主義の立場で、対プロイセン戦争に参戦した。ビスマルク、モルトケを擁するプロイセンはオーストリア・ドイツ諸国同盟軍を一方的に打ち破り、わずか7週間で戦争は終わる。オーストリアはドイツからはずされドイツ連邦は解体、プロイセンはマインツから北の諸国を併合し、北ドイツ連邦を築いた。バイエルン他南部諸国は多額の賠償金の支払いとプロイセンとの軍事同盟を結ぶ事で独立を保たれたが、ビスマルクのドイツ統一の戦略が終わったわけではなかった。
1867年王の婚約が発表される。相手は従姉妹に当たるゾフィーである。この発表はバイエルンを沸かせ、記念硬貨まで作られ、婚礼用の豪華絢爛たる黄金の馬車までも準備されたが、結婚の日取りは王の希望で先へ先へと延ばされ、半年後王の側から一方的に婚約が解消される。これにはゾフィーの姉でオーストリアに嫁いだエリザベート(シシ)への思慕、あるいは王が性倒錯者で女性に関心が持てなかった事などがあげられているが真因は分かっていない。ときに王は22才であった。(ゾフィーはすぐに又いいお婿さんを見つけ嫁いでいる)
ゾフィーとの婚約解消後、政治と人間性の葛藤の中で王は人間嫌いになっていき、しばしば少年の頃を過ごしたシュヴァンガウの城に逃れるようになっていった。ある日城の窓から山上にある崩れ掛かった古い塔を眺めていた王は、「これを壊して中世風の美しい城、白鳥の騎士の住むような城を作ろう」と思いつき、この計画はたちまち王の心を虜にしていった。
1870年普仏戦争が起こる。戦後ビスマルクは南ドイツ諸国を北ドイツ連邦に加入させ、23の君主国と3つの自由都市の連邦としてドイツ帝国を結成しようと各国を説得する。バイエルンではプロイセン国王とバイエルン国王が交互に皇帝の位に就くという案を出した。バイエルンはプロイセンに次ぐ大国であり、軍事力ではプロイセンにかなわないが歴史的に見て王家の格という点でプロイセンよりはるかに上であると自負していた。しかしこの提案は受け入れられなかった。ルードヴィッヒが描いていたのはかつての神聖ローマ帝国皇帝のような象徴的な皇帝だったのに対し、ビスマルクが目標としていたのは名実ともに備わる統一帝国の君主としての強い皇帝であった。
1871年1月18日ヴェルサイユ宮殿・鏡の間においてドイツ帝国皇帝ウィルヘルム1世の戴冠式が盛大に行われた。全ドイツの王侯貴族が参列したが、バイエルン国王、ルードヴィッヒ2世の姿はなかった。ときに王は25才であった。
ドイツ帝国の成立により、ルードヴィッヒにとって国務は完全に無意味なものとなった。外交上の権限は全くなく、すべての重大事の決定はベルリンでなされた。権力の喪失とますます強まる現実逃避、そして王の築城への情熱が高まっていく。
ノインシュバインシュタイン城の工事を進めながら、ルイ14世と絶対王政への憧れから、キームという湖の男島と呼ばれる島にヴェルサイユ宮殿そっくりの城の着工にかかり、オーバーバイエルンにロココ風の宮殿リンダーホフ城を完成させた。王の3つの城(ノインシュバインシュタイン城・ヘレンキームゼー城・リンダーホフ城)の中で唯一完成された城である。王の築城への情熱には限りが無く、これらの城の建設と同時にノインシュバインシュタイン城よりも大きな中世風の城、ファルケンシュタイン、ビザンチン風の宮殿や中国風の宮殿など次から次へと計画が進められていた。
1871年王の弟オットーは精神病の悪化により、ミュンヘン近郊のフュルステンリート城に監禁された。前年の10月にはドイツ統一問題を話し合うヴェルサイユ宮殿での会合に兄に代わって出席するほど元気だったのに。このことはルードヴィッヒをますます孤独にしていく。即位したときのすらりとした長身と美貌はすっかり失われ、不規則な生活のために太り、歯が欠け落ち、人前にでることをできるだけ避け、国民の前にも殆ど姿を見せなくなってしまった。
当時の王の生活は昼と夜が逆転し、食事はいつも一人でとっていたが、時折数人分の食事が用意され、幻想の中でブルボン王朝の代表的人物達、ルイ14世、16世、ポンパドール婦人やマリーアントワネットらが招かれた。王の城の食堂は、人の出入りを嫌うために、食卓が自動昇降式(ノインシュバインシュタイン城は違うが)となっている。王はまるで目の前に王や王妃達がいるかのように語りかけ、食事を楽しんだと伝えられている。バイエルンの国民達は、滅多に姿を見せぬ王を「孤独な王」「おとぎの国の王」と呼び始めていた。
1886年、王の財政は築城の情熱により大きな負債を抱えていた。ときの首相ルツは早期に王室財政の危機に対応しなかった自分の責任を問われることを恐れ、王を退位させ、伯父のルイポルトを摂政にたてようと企てた。そのためルードヴィッヒ2世廃位の工作がなされ、王の側近達から精神異常を証明する証言を集め「王はパラノイア(偏執狂)という不治の精神病にかかっている」という診断書を作った。6月12日ノインシュバインシュタイン城にいた王のもとにミュンヘンの宮廷から役人達がやってきて、ついに王は捕らえられミュンヘン近くのベルク城に監禁されてしまった。かつて王が愛したこのベルク城は今や監獄と化し、窓には鉄格子が扉には覗き穴が付けられていた。そんな扱いを受けても王は静かに平静を保ち礼儀正しかったといわれている。
1886年6月13日は聖霊降臨祭の日曜日だった。朝から激しい雨が降っていた。午前中、王の希望で散歩が行われ、医師であるグッデンと看視人が付き添った。夕方6時過ぎ、王は再び散歩を希望した。今回は看視人はグッデンの指示で退けられ、雨の中黒いコートに帽子、黒い傘を持った二人は散歩道を歩いていった。長すぎる散歩に不審がもたれ、夜8時過ぎに捜索が始まる。本来ならこの時期、北国ドイツの空はまだ明るい時間なのだが、この日は雨が激しく、暗くなっていた。夜10時過ぎにシュタルンベルクの湖で、2人の帽子、王の上着、そして傘がみつかり、11時過ぎに二人の遺体が湖の中で見つかる。
王の遺体はミュンヘンに運ばれ解剖の結果、溺死ではなく急病死であると発表されたが、王の突然の死に暗殺説、自殺説、逃亡説、事故説などが囁かれた。二度目の散歩で王が逃亡か自殺を決意していたのは確かであろう。散歩中突然湖の中へ走り出した王を62才のグッデンがとめようとして格闘になり、誤って王はグッデンを殺してしまう。そのまま水へ入り突然の激しい運動、降りしきる雨、湖の冷たい水といった悪条件に心臓発作を起こしたのではというのが一つの説だが、二人の死は、いまだに深い謎として残っている。
王の葬儀はミュンヘンにて盛大に行われ、聖ミヒャエル教会に埋葬された。40年という短い生涯であった。]

バスを降り、ホテルミューラー近くから馬車やミニバスに乗る人もいるが、徒歩でゆっくりと眺めを楽しみながら坂道を上り、ノインシュバインシュタイン城に着く。
外観と違い内観は、少し暗い気がするも、外の景色の素晴らしさが一望できるのは、住人であった城主のセンスの良さであろう。
しかし、城内を説明する日本語の女性の声が、尚更、暗い。その為か不気味ささえ感じるのであるが、とにかく、ビデオ撮りに夢中になって進んでいたのであったが、突如ファインダーの中で遠くの方からこちらに近づいて来るものがある。ガイドのドイツ人であった。
近くに来た顔をファインダーで見ていると、この雰囲気に合った顔つきである。
んー、思いだした。昔のホラー映画に出ていた、狼男で有名なロン・チャニーJrそっくりである。
(彼は、身長189センチもあり、フランケンシュタインドラキュラ、ミイラ男、等四大モンスター全てを演じた俳優でした。写真は若いのですが、中年期の太った時期にそっくりでした))
その狼男が、この城で寝ているドラキュラでも起きてしまう程の大きな声で「Outside okay」「Inside no」と言ってるではないか。
最初は、何言うとるんや、と思っていたが、妻の「写真撮り駄目と違う、さっき書いてあった様にも思うわ」の言葉で直ぐにカメラを外すと、まじかな狼男が更に「Outside okay」「Inside no」と三連発言い放った。
お蔭で全員私に注目である。日本人に似て勤勉な仕事ぶりであったが、おそらく見えにくい所に写真の禁止の看板があったのだろうとも考え、又そんなに大きな声で言わなくても聞こえる距離であった。実に恥ずかしい。
「Understood」続けて「何度も言わんでも解った。外ならええんやな」と日本語にて返してやり、外の景色を引き続き撮りながら、「Outside okay」と狼男の顔を見れば納得していた様でもあった。
今から思えば大人げないが、盗む訳でもないのにとも思い、カメラ没収、場外撤去を覚悟で城内全てを撮ってやった。
旅行から帰った後、ビデオを編集した処、写真撮影の禁止の文字が映っていた。とほほ。
その様な自身の不注意から、ガイドの狼男にけんせいされながら、又妻の顰蹙にも耐え無事ビデオ撮りも完了し、城外に出た時は、腹が減っており、そんな腹ヘルシング状態からノインシュバインシュタイン城をバックにみんなで写真撮りを素早く済ませ、再び駐車場近くのレストランで、食事を取る事にした。
食事のメニューは忘れましたが、雰囲気の良い店であり、風景等からも先ほどの、ガメラ対狼男の件以外、お気に入りの場所にもなりました。
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旧国鉄周遊券の旅(ろく・広島編)

2006-09-14 13:00:41 | 国内の旅
とにかく、行き当たりばったりの旅は辞める事にした。そうと決まれば早く広島のホテルに予約をしなければならない。
「広島は旅館よりホテルにしようや、ちょっとええ所に予約しょうか」と決めにかかって友人に言った。そしてとどめに「トイレも洋式やど」
ニヤッとして友人が「大分節約したから、パッ行こうか」・・・出発する前に、洋式だったら長時間、納得出来るまで入れるだろうし、思いっきり頑張れる事から、ご互い色んな意味で助かる。しかし、何を下らない事で理屈をこね、納得しているんだと我にかえる。
この友人が、その後に私に言った事で、知らない所に行けば、まず、最初に確認するのは、トイレの位置と申しておりました。その事での情報収集能力は、他の追従を許さないぐらい、瞬時に機能を果たし、この旅の様な迷惑ばかりな事では無く、たとえば彼と土地勘の無い所に行動を共にした場合には、トイレは彼に聞けば必ず教えて貰った事が多々ありました。
そして、そんな事から予約は問題の主役の友人に任せる事にして、私は駅弁を買いに行き無事列車に乗り込んだのである。
広島駅に着いた時は日も暮れていたが、食事は車内で駅弁にて済ませ事から素泊まりでホテルに入ったが、たいして良いホテルでもなく、何がパッと行こうかだ。どんな基準で予約したのか訳が分からない。
トイレも和式で共用とは、むしろ、この様なホテルを見つける方が難しく、凄い事だと変な感心をしてしまう程であった。
肝心の宿泊料金を聞いたが、今までの宿泊料と差がないので何故なのか確認したところ「予約する時に、安いのがあったから」「それだけの理由でか、何がパッとや」と納得出来ない為、再度確認したが・・・「夜に着くんやったら、居てる時間が少ないし、もったいないやろ」・・・今までの旅の癖がまだ取れてないのか。次の適当な言葉が出てこないので、黙っていると、悪いと思ったのか「明日は豪華に行こうや」と続けて言ってきたので、「当たり前や、明日一日しかないんやから」まあ後は寝るだけだから一理あるとも思い、またも的を得た様な得てない様な納得をさせられる始末である。
「暇やし、パチンコでも行こか」と絶好調の男が聞いてきたが、こっちはこいつの為に今日は疲れていたのだが、久しぶりの町でもあり、行く事にしたのだが、いざ歩いていると、柄の悪い兄ちゃんが多いのである。パチンコ屋に入ると益々多い、別世界であった。今でこそ眉毛を手入れしている若者が多いが、その時の周りにいる兄ちゃんは、もっと鋭い眉毛になっており、何が気に入らないのか眉毛に合わし眼光も鋭く、しかも剃り込みの頭であり、ほとんどがそんな感じの有様で、ここの奴等はみんな同じ散髪屋に通ってるのかと思う程、見事に揃っていた。
誤解されては、いけないのですが、私の地元でも夜の繁華街では、この様な雰囲気の場所はありましたが、不慣れな土地であった為か余計に感じたものと思えます。次の日は、勿論の事、変りない観光都市でした。
しかし、その様な分析の余裕はこの時は無く、何時しか、そんな時代錯誤の環境にも慣れ、遊び台の様なパチンコに没頭していると、私から、かなり離れた端の台を打っていた友人が何やら玉が詰まったのか、台を叩いているではないか。
気は強くない友人なのだが、時おり理解に苦しむ行動をする。しかも、こんな柄の悪いパチンコ屋で何をしでかすのか。
しかし、注意をするには遠い為ほっておくと、益々激しくなっており歯止めがきかない、今度は足で蹴ってやがる。んー・・こいつは先の見えない奴だとこの旅で認識したが、その先を行く、真に天下無敵だ。
これから、どんな展開が彼に待ち受けているのだろう。なんて結果は、見えている。まあ従業員が来て怒られよるやろと思って、ほおっておく事にした。
しばらくして、友人の方を見ると、案の定従業員に怒られているではないか、頭を掻きながら真っ赤な顔をして、平謝りである。予想通りの展開に、こちらは可笑しくて、息が詰まる思いである。彼には悪いが友人の無様な姿に笑いを堪えるのがやっとであった。
帰り道、「おい、怒られとったな」と懲りたであろうと思い、にんまりして返事を期待するも・・「ほんま、恐いとこや」・・今頃何言ってるのか「剃り込みの頭の兄ちゃんばっかりやったな」「気付いて、あれかい」もう言う事無しやな、ご立派やこいつは。
「そやけど、チューリップの上の詰まった玉を落とそうと思ったら、あーするしかないやろ」・・今後の為にも教えておいてやろうと思い「その場合は、従業員の人に言えば、ガラス戸を開けて、チューリップに2個程玉入れてくれるわ」友人が不納得げに「水臭いやないか、言ってくれたら良かったのに」
確かに、言ってやれば良かったなと思った。しかし、離れた所に走って助言も何か、不自然で、カッコ悪いとも思え、自身の行動が凄く理解出来る事からも、友人には確かに水臭かった。うなずくだけにしておく。
今日は、友人と仁義無き戦いであったが、友人も汚い話だが、便器無き戦いの一日でもあった。
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