朝顔

日々の見聞からトンガったことを探して、できるだけ丸く書いてみたいと思います。

長篠設楽原の戦い

2016-06-29 | 国内各地の風物

新東名高速道路を走っていて、この場所にて休憩しました。(岡崎よりは東に位置します)

ここは、織田信長・徳川家康の連合軍が、武田勝頼を打ち破った古戦場に造られたSAでした。

駐車場の脇に大きな公園があって、ここが織田信長が陣を置いた茶臼山です。

当時の両軍が対峙した配置図が掲示してあります。

左ギリギリの中央の青い半円形がこのSAです。家康配下の長篠城は右の中央に赤く書かれた場所で、武田軍に包囲され籠城作戦を取りますが兵糧が尽きて落城寸前でした。起死回生のため決死の使者鳥居強右衛門を岡崎にいた家康に援軍派遣を依頼しました。鳥居は承諾を得られた良い知らせを持ち帰るのですが、到着寸前で武田軍に捉えられて長篠城の門前で磔に架けられるのですが、「援軍は来ない」と言明する約束を破って、もうすぐに徳川軍が来ることを伝え、そのため直ちに処刑されてしまいます。しかしその言葉に勇気を得た籠城軍は持ちこたえることができました。

数日後、徳川家臣の酒井忠次率いる精鋭部隊が深夜密かに大きく迂回をして長篠城を監視し攻撃する鳶ヶ巣山砦を背後から襲撃して成功し、長篠城を危機から救いました。

このSAの眼下に広がる場所で両軍が対峙しました。武田軍の戦術で優れていたのが騎馬戦でした。そこで、このような高い木の柵を作り「防馬柵」を張り巡らして、騎馬隊の侵入を防ぎました。

一方、織田徳川軍は大量の鉄砲を持参していて、次々と武田の騎馬を撃ち落としていきました。兵力数の大差もあり、武田勝頼はこの戦いで大敗し、家臣の多くも失ってしましました。その後、武田は滅亡するに至ります。

展示室に飾られた当時の鉄砲と大砲です。

武器の進歩と戦術の変化にいち早く対応した織田信長と徳川家康。一方、過去の成功体験によって変革を怠った武田勝頼の敗戦でした。

最近、京都新聞の連載小説「家康」(安部龍太郎)を楽しんで読んでいます。(画像引用:京都新聞web)

この挿絵をみると、三河と駿河、そして信濃、甲斐の位置関係がよく理解できました。「遠江」(とおとうみ)の国とそこを縦断する天竜川(上流は信濃の諏訪湖)があります。

家康は、三河の平定と天竜川の河口にある掛塚港の領有を狙っていました。

~追記~

「遠江」とは、「近江」(今の滋賀県)と対をなす地名です。

都(京都)から近い湖(琵琶記)の国「近江」に対して、遠い湖(浜名湖)の国を「遠江」(とおとうみ)と命名しました。近江は現代でも残っていますが、遠江はもう知らないですね。・・一つ、賢くなりました。うれしい。

 

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