玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

カルロス・フエンテス『遠い家族』(4)

2017年04月19日 | ゴシック論

『遠い家族』の中で、主人公ブランリー伯爵が「ぐっすり眠りながら夢の中で、だがあたかもなかなか寝つけないかのように、ラテンアメリカ生まれのフランス人たちを羊のように数えて気を紛らわした」と言う場面がある。
 ブランリー伯爵はそこで、カール・マルクスの娘婿でキューバ生まれのポール・ラファルグ、マルセル・プルーストと交友のあった作曲家でベネズエラ生まれのレイナルド・アーン、象徴派詩人でウルグアイ生まれのジュール・ラフォルグ、『マルドロールの歌』を書いたロートレアモン伯爵こと、同じくウルグアイ生まれのイジドール・デュカスを挙げている。
 この中で重要なのはジュール・ラフォルグとイジドール・デュカスということになる。なぜならフエンテスは1928年、パナマ市で生まれているが、父親が外交官であったため、幼少時代をモンテビデオ、リオ・デ・ジャネイロなど南米各都市で過ごしていて、小説中ではウルグアイ生まれということになっているからである。
 ラフォルグとデュカスはウルグアイの首都モンテビデオの生まれだが、どちらも両親はフランス人。ラフォルグは6歳でフランスへ戻り、デュカスは13歳でフランスに戻っている。フエンテスは6歳で南米を離れて、1934年からはワシントンで暮らしている。
 小説の中でフエンテス自身である〝私〟は、ブランリー伯爵に次のように話す。

「ブエノスアイレスとモンテビデオは私にとっては失われた都市です。それらは死んでしまったので、私がそこに戻ることは決してないでしょう。ラテンアメリカ人にとって最終的な故国はフランスです。パリは決して失われた都市にはならないでしょう。」

 わずか6歳でアメリカに渡ったフエンテスにしてみれば、アルゼンチンのブエノスアイレスもウルグアイのモンテビデオも〝失われた都市〟なのに違いない。ではなぜ「ラテンアメリカ人にとって最終的な故国はフランス」であるのか? そこにはフエンテス自身の個人的な体験が影を落としていると思われる。
 フエンテスは1950年、ジュネーブに留学し、国際労働機構に勤めながらフランス語に精通し、フランス文学に親しんだ。つまり最終的な故国としてのフランスとは、フエンテスにとっての文学上の故国を意味しているのに違いない。この小説がフランスを舞台にしていることもそうした意味を強化している。
 ラテン・アメリカ文学はそれを担った作家たちのほとんどが、故国を離れてアメリカやヨーロッパで暮らしたことから、〝越境の文学〟として位置づけられるが、そこで言う〝越境〟とは言語的な越境という意味を持たざるを得ない。
 たとえばイジドール・デュカスは、物心つくまでモンテビデオで生活し、スペイン語の環境の中に身を置いていた。そのことを捉えてデュカスの文学を〝越境の文学〟と位置づけたのが、石井洋二郎の『ロートレアモン 越境と創造』という本である。
 石井はデュカスがフランス語とスペイン語のバイリンガルであったこと、また『マルドロールの歌』にはスペイン語の影響が多く見られることを指摘している。そのことを石井は「フランス語もスペイン語も、ともに自分を無条件にまるごと包み込んでくれる「母語」ではありえず、絶対的な「外部」としてしか表象され得ないこの二重の疎外状況」と呼んでいる。
 そのような二重の疎外状況に対する抵抗と反抗の中から、あの凶暴な『マルドロールの歌』の表現が生まれてきたのであったろう。デュカスにとって越境とは言語的なそれをまずは意味していたのであった。
 フエンテスはブランリー伯爵に「新大陸はヨーロッパ普遍主義の最後のチャンスであったと同じく墓場でもあった」と語らせている。「発見と征服の世紀のあと普遍的であることはまったく不可能なことだった」とブランリー伯爵は言う。
 つまり、ヨーロッパ普遍主義は新大陸を征服することが出来ず、そこには相対主義や他文化主義とそれによる「無気力」な衰退が生じてきたという。ならばデュカスのあの人倫を越えた凶暴さは、新大陸から旧大陸への越境によってもたらされたのであったろうか。ブランリーは次のように言う。

「いいかね、君、マルドロールの情け容赦のないペンは、数多くの罪なき者の背中に、鞭のごとく痛烈にその詩を書きつけたのだよ。」

と。しかしフエンテスは、イジドール・デュカスをブランリー伯爵のリストの中から「永久に除外する」と言っている。それがなぜなのか、今の私には分からない。
 なぜなら、この小説の中でブランリー伯爵がリストの最後に挙げ、フエンテスが最も重要な詩人として扱っているのが、やはりモンテビデオで生まれ、6歳でフランスに戻ったジュール・シュペルヴィエルであるからであり、この人の作品を私がまったく読んだことがないからなのだ。
 シュペルヴィエルの詩「隣室」はXX章のウーゴ・エレディアの告白の部分のエピグラフにも掲げられている。

 誰ひとり寝室に入らせないように
 そこからは記憶を喪失した
 大きな犬が出ていくはずだ
 それは陸海の果てまで
 探し回ることだろう
 身動きできぬ身のまま
 残してきた人を……

 この詩の一節をどう読んだらいいのかも私には分からない。「大きな犬」が新大陸からの越境者を意味し、「身動きできぬ人」が新大陸の人々を意味しているのかも知れないが、確証はない。
 かくして私は、ジュール・シュペルヴィエルの詩作品を読んでみる必要に迫られるのである。本というものは読めば読むほど、読まねばならない本が増えていくのである。まるで無間地獄である。

石井洋二郎『ロートレアモン 越境と創造』(2008、筑摩書房)
(この項おわり)

 

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