玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

Ann Radcliffe The Mysteries of Udolpho(7)

2016年02月28日 | ゴシック論

 第15章、16章まで進んだ。ところで困ったことがあるので、お断りしておかなければならない。「北方文学」73号用の原稿も仕上がったので、そろそろ以前のペースに戻らなければならないのだが、The Mysteries of Udolphoを読んでいるとほかの本が読めない。この調子でいくとあと一か月は現在のペースで行かざるを得ない。
 まだ全体の3分の1までしか進んでおらず、The Mysteries of Udolphoの連載が長くなりそうで、「ゴシック論」全体の中でバランスを欠いてしまう。しかも私は自分で「小説の要約なんか読みたくもない」と言っておきながら、まさにそれを書いているわけで、自己矛盾に陥っている。
 ただ、あらすじを書いておかないと全て忘れてしまいそうで、メモのつもりで書いているだけなのだ。しかし、ゴシック小説の流れの中でThe Mysteries of Udolfoがどう位置づけられるのかということについての批評的視点は忘れずにいたいとは思っている。
 さて、第15章ではまだ休戦状態が続いていく。アルプスを越え、イタリアに入って半島の付け根を横断し、エミリー一行はヴェネツィアに到着する。そこにモントーニ氏の家があるのである。
 エミリーはしばし苦悩を忘れ、ヴェネツィアの景観に見とれることになる。サン・マルコ広場、グランド・キャナル(カナル・グランデ)とそこを行き交うゴンドラ、サン・ソヴィーノ宮殿(ドゥカーレ宮殿)の描写はまさに"観光案内"そのものである。人の手の加わらぬ大自然にこそ至上の価値を見ていたはずのエミリーなのに、ここでは人工的なヴェネッィアの景観に圧倒されているのである。
 ラドクリフの観光ガイドは、当時流行していた"グランド・ツアー"というものを背景としていることはよく知られているが、このヴェネツィアのくだりを読んだら誰しもそこに行ってみたいと思うのは必定で、ラドクリフの小説はグランド・ツアーへの誘いとしての役割を果たしていたのに違いない。ゴシック小説が観光ガイドとしての役割を持っていたが故に、それが大衆的な人気を博したということも指摘されてよいであろう。

 

カナレットの描くサン・マルコ広場

カナレットの描くカナル・グランデ


 第16章でもしばらく休戦は続く。ヴェネッィアの貴族達は朝まで続くゴンドラ上の歌舞音曲にうつつをぬかしている。エミリーでさえそこでリュートを手に歌を歌い、満場の喝采を得るであろう。
 さてここにヴァランクールの恋敵が登場する。モラーノ伯爵Count Moranoである。彼はエミリーの再三にわたる拒絶をものともせず、執拗に彼女に言い寄るのである。そしてそれは二人の結婚に利益を見出すモントーニ夫妻の認めるところとなり、すぐにそれはエミリーに対する有無を言わせぬ命令と化していく。
 まったく絵に描いたようなメロドラマなのだ。ヴァランクール一人を愛しているエミリーがどうやってこの強制される結婚から逃れていくか、というのが読者にとっての大きな興味の焦点となっていくだろう。また、この結婚に反対し、エミリーの見方となる人間が一人もいない孤立無援の中で、エミリーがどうやって苦境を乗り越えていくかということも読者を虜にするテーマとなるのである。
 ところでそんな苦境の中で、エミリーはヴァランクールから一通の手紙を受け取る。その手紙はヴァランクールの代わらぬ愛情を伝えると同時に、父の義兄である(brother in lawとあり、義兄か義弟かは分からない)ケスネル氏M.Quesnelによってラヴァレの屋敷が、エミリーに何の相談もなく勝手に貸し出されたことも伝える。
 ヴァランクールの手紙はシェロン夫人の屋敷では厳重にチェックされたはずなのに、ヴェネツィアではそんなチェックは行われず、自由にエミリーのもとへ届けられるなどということはあり得ない。
 こんなところにゴシック小説のご都合主義は現れてくるので、それなしにはゴシック小説というものは成り立たないのである。我々は今後も、何度となくそのような場面に遭遇することになるだろう。

 


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