難しい地名

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難しい地名

2017-07-18 17:12:02 | 日記
記忘庵日誌2015・11・8 荻野源吾
難しい地名
数年前各駅停車の鉄道に乗り奈良までの日帰り旅をしたことがあった。
掖上駅(注1)という駅舎前に駐車した。鄙びた駅舎で今は無人駅。ここからJRで高田まで行き乗り換え、橿原神宮駅を経由して桜井線(万葉まほろば線ともいう)で奈良までのコースをたどった。
奈良駅に着く一つ前の駅は京終(注2)とあった。はて何と読めばよいか戸惑ったことを覚えている。恐らく昔平城京の端、あるいは京の都の果てるところを意味したのか。奈良県にはなかなか読みづらい地名が多い。奈良の地は古い。そこに歴史あり。
大台ケ原に通じる道筋に井光(注3)という地名の土地がある。白洲正子が愛した「大和のかくれ里」である。集落には<井光神社>がある。
祭神の井氷鹿(いひか)は吉野首(よしのおびと)の祖とされ、 『古事記』や 『日本書紀』では、神武天皇が宇陀から吉野へ巡幸した時に井戸の中から人が出てきて、その人は体が光って尾があったので、 天皇が「お前は何者か」と問うと「国津神、名は井氷鹿」と名乗ったと言われています。おそらくこのいわくが地名になったと思われる。

昔大和と河内は政権の地。政権は大和朝廷から河内政権へと移った。河内(大阪)から金剛・葛城山系の間にある水越峠を越えて大和(奈良)へ入る。昔はもう少しなるい坂の竹ノ内峠が幹線道路であった。この道は日本最古の官道。今の高速道であった。この二つの峠を越えたところに御所(注4)や葛城がある。今はどちらも市になっている
この周辺は古代巨勢族や鴨族や葛城族の拠点でもあった。特に「御所」はその昔「巨勢」「許勢」「古瀬」という字を当てている。名前のいわれは天武天皇時代の巨勢朝臣、その祖は許勢宿祢ともいわれている。御所の高鴨神社は京都の鴨社の始祖になる。
当時古代の氏族社会では佛教伝来はじめ、盛んに渡来の文化との交流が始まっていた。韓国や中国の渡来人が住み着いたと思われる。この御所には五百家(注5)という地名の土地があるが役小角などが闊歩した地。これも読みづらい地名の一つ。蛇穴(注6)に至っては最も読みづらい。これは恐らく渡来系の言葉の当て字か。韓国や中国を蔑視する人が多いがちょっと歴史を紐解けば日本文化にはその影響が多く残っている。こうした地名に残る文化には渡来系の文化の移植があったことを忘れてはならない。
注1 わきがみえき 2 きょうばて 3 いかり 4 ごせ 5 いうか 6 サラギ
補遺
 余談ながら日本の地名で一番多いのは「中村」だと言われる。(天声人語1981・3・22)
 次に②原③新田④山田⑤中野⑥上野⑦大野⑧中山⑨大谷⑩本郷の順。集落の元の村,「中村」や元村、本村から新田ができ次第に分かれていく様がわかる。これは日本地名索引をつくった金井弘夫さんの調査でわかってきたこと。

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