真夜中の映画&写真帖 

渡部幻(ライター、編集者)
『アメリカ映画100』シリーズ(芸術新聞社)発売中!

草森紳一『絶対の宣伝/宣伝的人間の研究 ヒットラー』の復刊と1978年の『スターウォーズ』

2015-11-28 | 作家


 草森紳一の「絶対の宣伝 ナチス・プロパガンダ」の第2巻目『宣伝的人間の研究 ヒットラー』が12月7日に発売されることが決まった。
 版元はサブカルチャー本に強い文遊社。もうだいぶ前になるけど初めて企画を持ち込んだ日が懐かしい。
 単純に「復刊」と言っても、その作業にはさまざまな困難がともなった。テクニカルな面だけでなく、昨今の時代状況も少なからず影響したからだ。しかし念願叶って、順調に刊行されている事実が嬉しい。
 新たな装いで再登場した全四巻を早く揃いで本棚に並べて眺めてみたいものだ。

 冒頭にある画像が今回の「絶対の宣伝 ナチス・プロパガンダ」(文遊社)の第一巻『宣伝的人間の研究 ゲッベルス」と第二巻『宣伝的人間の研究 ヒットラー』のカバーデザイン。全四巻が揃うとひとつながりのデザインになるはずなのだ。

 ちなみに[目次]は次のような内容。
◎民衆の孤独を撃つ ◎ヒットラーの柔らかい髪 
◎ヒットラーの妖眼 ◎ヒットラー青少年団 
◎平和(ピンフ)の倦怠(アンニュイ) ◎アドルフおじさん 
◎陳列効果と象徴 木村恒久・草森紳一 
◎附録Ⅰ ヒットラーとレーニンの煽動術 ◎附録Ⅱ ムッソリーニのスキンシップ 
◎跋章 知識と官能の無力


今回の復刊にあたり[解説]を書いてくださったのはなんと池内紀さん。
ちょうどいま、池内さん翻訳のホフマン『砂男』を読んでいたところで、これが最高に面白いのだ。

  

 このブログは映画が中心なので、本書の[跋章]から「映画ネタ」の部分を抜粋する。
 2015年の年末は『スターウォーズ』の新作が公開で、街のあちこちで宣伝が盛んだが、本書の初版はジョージ・ルーカスが監督した最初の『スターウォーズ』の日本公開と同じ1978年の刊行であり、当時は現代とでは比較にならないほどド派手な「絶対の宣伝」が繰り広げられているように見えた。そのことからはじめる視点が草森らしく、同時にそれは「70年代後半という時代」を思い起こさせるものでもあり、37年後の新作がまさにこれから公開されようとしている21世紀のいまと比較すると、ちょっと考えさせられるものがあって面白い。

 以下、引用。

 『スターウォーズ』という前宣伝の華々しかった映画を見た、超満員かと思って入ったが、案外、空席が目立った。現代人は、宣伝には、相当にすれっからしになっているな、と思った。理屈抜きに面白いという前評判がたっていた。この「理屈抜き」は、宣伝の決まり文句のようでいて、すこし綾がある。それは、ひところのあの騒がしかった理屈時代の反動の言葉で、他愛なく楽しがることを好む風潮に乗じていたからである。(略)
 『未知との遭遇』には、戦慄があった。『スターウォーズ』は、他愛なく楽しむものでよいにしても、あまりにも玩具的であった。現代人は、他愛ない中に、もうすこし現実感がほしかったのではないか。
(略)
 日常のファシズムが、資本主義社会に進行しているというのは、常識になっているが、これだけしたたかであれば十分、と安心することはできない。
 『スターウォーズ』は、私に言わせれば、理屈をつけて見なければ、どうにもならぬ映画に思えたからである。
 このスペースオペラの道具立ては、すべてパロディになっている。パロディは、前承知で動くシビアな世界だから、なんのパロディかがわからなければ、その楽しさは減じる。パロディは記号の美学だから、その発せられた信号を傍受できなかったら、なにがなにやらわからないということになる。『スターウォーズ』は、このパロディ記号の集積でできあがったモザイクであり、わかった分だけ喜びは増えるが、わからなくても、まあ楽しめるような作りになっている。他愛ないといっても、きわめてソフィスティケートな映画であったとも言えるのだ。ソフィスティケーションは、日本人のもっとも苦手とするところであり、満員になるはずもない。(略)
 『スターウォーズ』の宣伝口車にのらなかった大衆を思う時、(もっとも興行収入は本年度第一位だそうだが)かえってその危険性を私は感じる。インテリたちの理屈と知識は、無力であり、理屈を語っているだけヒットラーの言う通り、どうしようもない滑稽な存在だが、「理屈抜き」の感性主義もまた泣きを見やすい精神状況である。しかし現代人の官能は、どうしようもなく渇いていることだけは、確実なのである。


( 草森紳一『絶対の宣伝 ナチス・プロパガンダ2 宣伝的人間の研究 ヒットラー』の「跋章」より抜粋)

渡部幻


〈僕もこの光景を記憶している。ここと渋谷東宝で観た。http://wearenocturnalnyc.tumblr.com/より〉

ピータ・ボグダノヴィッチの新作『マイ・ファニィ・レディ』の自伝的な「突き抜け方」。

2015-11-17 | 試写
   

 ピーター・ボクダノヴィッチの『マイ・ファニー・レディ』が嬉しくなる出来栄えで、ちょっとビックリさせられる。『ラスト・ショー』『ペーパームーン』のボグダノヴィッチが、かのウディ・アレンの向こうを張り、ほとんど自虐的ともいえるユーモアを横溢させた――しかしアレンには不可能と思える――「スクリューボール」ならぬ「トルネード」コメディをつくりだした。

 

 彼のコメディ志向はむかしからのことで、『おかしなおかしな大追跡』や『ニッケルオデオン』などがあったが、『マイ・ファニー・レディ』はよりアンモラルかつエキセントリック。すっかりピカピカに元気なのである。今回ボグダノヴィッチを奮い立たせたのはイモージェン・プーツに違いない。彼女扮するチャーミングなコールガールを軸にもつれにもつれていく男女関係が愉快に実感を込めて描かれるが、ここで想起するのがボクダノヴィッチの女性関係。最初の妻で製作者のポリー・プラット、美人女優のシビル・シェパード、そして『プレイボーイ』誌のスター、プレイメイトのドロシー・ストラットンとの関係はことに有名だ。

 

 ドロシーはボグダノヴィッチに『ニューヨークの恋人たち』に出演(ベン・ギャザラ、オードリー・ヘップバーン共演)。しかし彼女の成功に嫉妬した狂気の夫に殺されてしまい、ボクダノヴィッチもまたスランプに陥ってしまった。その顛末はボブ・フォッシーの『スター80』に描かれているが、あれから30年以上のときを越えて彼はついに突き抜けたのだ。なんと本作の共同脚本はそのドロシーの妹で、ボクダノヴィッチの元妻のルイーズ・ストラットン。さらに彼の代表作『ラスト・ショー』の撮影時にポリー・プラットから彼を奪った主演女優シビル・シェパードも出ている。プラットはすでにこの世になく、出てこないのが寂しいけれど、生きていればきっと出ていただろう。近ごろ映画のドキュメンタリーで語る姿しか見かけなかったボグダノヴィッチだが、ここまで居直られてしまうと思わずこちらまで笑ってしまう。

  

 ボグダノヴィッチは60年代に「エスクァイア」誌のマニアックな映画ライターとして注目され、そのシネフィルは有名である。ゆえにファンを喜ばせる名作ネタが溢れ返る作品だが、僕にはそれよりもボグダノヴィッチの男女観、人生観が透けて見えるのがおもしろかった。
 「過去は捨てなければ、未来が乱れてしまう」というようなセリフが後半に出てくるが、この感慨のなかに、本作を貫く「居直りの哲学」がある。紆余曲折の映画人生を生きてきた「回顧派」の急先鋒ボグダノヴィッチのこれは「自伝的なセリフ」に違いない。(渡部幻)


アメリカ映画のジャーナリズム魂――『大いなる陰謀』と『フロスト×ニクソン』

2015-11-10 | 映画
 

 近年のロバート・レッドフォード監督作はいい。リンカーン暗殺事件を描いた『声をかくす人』(10)、ベトナム反戦を訴えた実在の過激派ウエザーマンの現在を描いた『ランナウェイ/逃亡者』(12)は、いずれも地味ながら興味深い主題を持つ作品で、70年代の政治の季節に『候補者ビル・マッケイ』(72、マイケル・リッチー)や『コンドル』(75、シドニー・ポラック)、そして『大統領の陰謀』(76、アラン・J・パクラ)に出演して時代と併走したレッドフォードらしい問題提起とその生真面目さが、いまあらためて貴重に感じられる。

   

 2007年の『大いなる陰謀』は、イラク戦争真っ只中のブッシュ政権時に公開された、過小評価されている作品である。原題は Lions for Lambs 。第一次大戦の時にあるドイツ兵がイギリス歩兵を讃えて、彼らを何万も死なせたイギリス司令部をバカにして記した――「ライオンが羊に率いられている」が由来で、イラク戦争時のアメリカに例えている。この国の政策とメディア、教育、そして戦争の関係にメスを入れるディスカッション・ドラマとして8年後のいまも普遍性があり、現在の日本に照らし合わせて考えさせる力には、シドニー・ポラックやアラン・J・パクラが70年代につくったリベラルな社会派エンターテインメントの良き血筋を感じさせる。

  

 ディスカッション・ドラマということで言えば、ロン・ハワードの『フロスト×ニクソン』(08)もそうだ。『大いなる陰謀』が三つの主題についての複数の対話を同時進行で絡めたフィクションなのに対し、こちらはウォーターゲート事件発覚後の1977年に実放送されたイギリス人司会者リチャード・フロストによるリチャード・ニクソン大統領のテレビ・インタビューの実話をもとに、その背景を描いている。ニクソンによる民主党本部盗聴事件など、世界中を傍受している現在では、大した問題に見えないかもしれないが、そこに本作の眼目があるのだろう。思わずニクソンとブッシュを比較してしまうが、いまの日本の問題でもある。そんな本作が優れているのは、ニクソンという「人間」を決して裁いてはいない点だ。『大いなる陰謀』もそうだが、単純な勧善懲悪の物語ではなく、その抑制がいいし、考えさせる部分だ。

    

 ニクソンを演じた俳優が正確に何人いるのかは知らないが、『名誉ある撤退/ニクソンの夜』(84、ロバート・アルトマン)のフィリップ・ベイカー・ホール、『ニクソン』(オリヴァー・ストーン)のアンソニー・ホプキンスが印象に残っているが、『フロスト×ニクソン』のフランク・ランジェラもまた、先の二人とは違った形で、米史に残る「悪役ニクソン」に人間としての尊厳を与えて見事であり、同じことは反ニクソン派だったアルトマンやストーンの演出姿勢に対しても言える。
 因みに、ランジェラはベテランだが、老いていよいよ貫禄の名優。まったく異なる役柄だが、『素敵な相棒/フランクじいさんとロボットヘルパー』(12、ジェイク・シュライヤー)でも絶品の味を見せていた。

 たまたまこの2本を再見したのだが、両作には決定的なつながりがある。レッドフォードは、ニクソンを辞任に追い込んだワシントンポスト紙の記者ウッドワードとバーンスタインを描いた『大統領の陰謀』の出演者というだけでなく仕掛け人でもあるのだった。
 しかし、こういうジャーナリスティックな映画を、何十億かけたエンターテイメントとしてつくりあげることができるアメリカ映画界の凄みを感じないわけにいかない。勿論、実現は一筋縄でいかないだろうが、それでも、対等な対話=対決や白熱した議論の機会と表現の可能性を信じる土壌が存在しなければ、辛うじてでも、成立しえないだろう。過去の人間の振る舞い、美術、衣装など様々な要素からなる時代の空気管を再現する映像力もそうだが、いまの日本映画はその点でいかにも寂しいのである。これはどうにも仕方のないことなのであろうか。(渡部幻)

『キャノンフィルムズ爆走風雲録』と2度と吹かないだろう「時代の風」

2015-11-07 | 試写
 

 『キャノンフィルムズ爆走風雲録』は、イスラエルからハリウッドに向かいアメリカンドリームの実現を求めたムービー・ギャング二人組メナハム・ゴーランとヨーラム・グローバスの栄達と凋落を描いた秀作である。
 彼らの夢の物語は、例えば『スカーフェイス』(84、ブライアン・デ・パルマ)『グッドフェローズ』(90、マーティン・スコセッシ)などのギャング映画を思わせる勢いとハチャメチャさで、そのあまりにも映画的でフィクション的とも言える人生物語が滅法おもしろい作品に仕上がっているのだ。

 彼らが最も活躍したのは1980年代。チャック・ノリスの『地獄のヒーロー』や『デルタフォース』、シルヴェスター・スタローンの『オーバー・ザ・トップ』、ジョージ・P・コスマトス×スタローンの『コブラ』、トビー・フーパーの『スペース・バンパイア』などを何故か観に行ったし、いまも印象に残るが、同時に彼らは、映画祭で話題になるような芸術家肌の監督たちの作品にも出資。アンドレイ・コンチャロフスキーの『暴走機関車』、ジャン=リュック・ゴダール×シェイクスピアの『ゴーダルのリア王』、ジョン・カサヴェテスの『ラヴ・ストリームス』、バーベット・シュローダー×チャールズ・ブコウスキーの『バーフライ』、ロバート・アルトマン×サム・シェパードの『フール・フォア・ラブ』、リリアーナ・カバーニ×谷崎潤一郎の『卍 ベルリン・アフェア』、ノーマン・メイラー監督・原作の『タフガイは踊らない』などを製作したのだった。これらは必ずしも彼らの代表作とはいえないが、ちょっと驚くような顔ぶれなのである。

 そしてこのラインナップが象徴するのは、この時代の映画好きの若者にとって映画を観るということが、C級、B級からアートフィルムに至るまで――間違って「観てしまう」こともしばしばだったが――何でもむさぼり観ることであったという特有の時代状況だ。ビデオレンタルの隆盛、テレビの洋画劇場、ロードショー館とミニシアターと名画座、映画を楽しみ方が最も混乱し、多彩を極めた時代であり、いま思われているほどの分裂にはまだまだ到ってなかったと思える。このことは、さらに昔の映画人やファンにとっても同様で、例えば60年代にB級映画の帝王ロジャー・コーマンは、安物の娯楽映画と同時にイングマール・ベルイマンのアートフィルムをアメリカに輸入していた。ファンにしても国内外の、A~C級の娯楽映画、芸術映画、個人映画、実験映画、テレビ映画を、ごちゃまぜに観ていた人は多い。

『キャノンフィルムズ爆走風雲録』は、「映画」という娯楽であり芸術が、階級やジャンルの垣根をこえた刺激物としてかなり乱暴に観る者の前に投げ出され得た「最後の時代の記録」である。そしてその時代を駆け抜けた「最後の映画冒険家たち」の友情物語として感動的だ。「もう二度と戻らないだろう時代の風」に乗って彼らが製作した数々の映画は――控え目に言って――いわゆる「本物の傑作」はあまりない。いまとなっては知られていない作品のほうが多いだろうが、このドキュメンタリーに関して言うなら、「知らない」「興味ない」「観たが覚えていない」のいずれもに関係なくおもしろい。上出来のバディ・ムービーなのだ。


 一度は業界のトップに躍り出たこともある独立系二人組の友情と華々しき成功の物語も、しかしそう長くは続かない。それはままならぬこの世の摂理なのだ。キャリアが下降し、やがて悲しい決裂の時を迎えることになるのだが、このドキュメンタリー製作者たちは、あざといまでのラストシークエンスを仕掛ける。誰もが身に覚えあるだろう「過ぎ去った時の記憶」を「現在(いま)」に甦らせる映画の魔法が突如として立ち現れてくる。その予想外な展開のビタースウィートな感慨が、例えば『ニューシネマ・パラダイス』などよりよほど感動的で、思わずしみじみと人生を感じさせられるのだ。

テレビ東京で『カサンドラ・クロス』を。監督コスマトス、そのシリアスな背景を語る。

2015-11-06 | テレビで見た映画
  

 昼にテレ東で『カサンドラ・クロス』を放送していた。録画したが、この映画は子どもの頃に『ジョーズ』の次に感激した作品なので、逆にあまり真面目に語りたくないという想いが強い。無邪気な気分のままにしておきたい作品があるのである。でも、実際のところ、かなりシリアスな内容なのだ。

 監督のジョージ・P・コスマトスは1976年の公開時の記事で、ニコラス・ローグの美学重視志向を批判、自作『カサンドラ・クロス』を「娯楽映画の要素を満載」の作品としつつ、「これは、はっきり言って政治的な映画です」とし、『Z』『告白』などで知られたフランスの社会派エンターテインメント監督コスタ・ガブラスを引き合いに出している。
 「何をかくそう、私の体験から生まれてきたものなのです」と語るコスマトスは、幼年時代をエジプトで過ごし、「その時、エジプトの街にコレラが発生し、やがて、この疫病の魔手は全市内を覆ってしまったのです。私はこの時、疫病というものは爆弾と同じように、全世界を抹殺することが可能な恐ろしいものなんだな、という事実、それが現代にも存在するという事実に気づいたわけです」「この映画の影の主役は、疫病をもたらすバクテリアですが、アメリカ以外にも、現実に細菌実験を行なっている国があるのです」と語る。
 幼年の恐怖体験とそこで得た感慨をベースに本作を構想し、同時に、映画は大衆に向けられるべきと考える彼は、「プライベートな思考のために作られた映画というのは、私には敵です。」と豪語。当時の近作としてスピルバーグの『激突!』がベストだと語り、なるほど『カサンドラ・クロス』はスピルバーグの成功に続こうと気持ちの分かる趣向の作品だが、人生はままならぬもので、実際のところ、その後コスマトスは失速。スピルバーグどころか当然ローグの足元にも及ばず、『ランボー/怒りの脱出』『コブラ』など大ざっぱなアクション映画ばかりをつくることになった。
 だが、僕にとって『カサンドラ・クロス』は冒頭シークエンスを含む数シーンの印象だけでもあまりにも鮮烈でどうにも忘れがたい作品である。公開時は幼く、政治性などひとつも分からなかったが、怖かったし非常に興奮もした。白い防護服に身を包んだ男たちが夜闇に浮かび上がる映像の無気味さに目が釘付けになったが、そうした感覚を観る者に与え得たことこそ、幼いコスマトスが経験した恐怖感の賜物ではないか。また、『カサンドラ・クロス』は疾走する列車のなかで展開する物語であり、そのスピード感が幼い僕を夢中にさせた要素のひとつである(5年後に『マッドマックス2』で再度、疾走の興奮を味わうことになるが、かつての世代が『駅馬車』に興奮したように、これは映画の原初的形式のひとつなのだ)。

 とにかく、たった1本の映画を人の記憶に焼きつけることも至難なのであり、コスマトスは本作を1本残し得ただけで十分偉い監督なわけだ。そして、同じカルロ・ポンティ製作、R・バートン、M・マストロヤンニ主演の『裂けた鉤十字/ローマの虐殺』(1973年)という「新作」を、いつか観る機会が訪れる日を楽しみしているのである。(渡部幻)