トラッシュボックス

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「だまされた」という言い逃れ

2012-08-19 00:06:12 | 日本近現代史
 12日付け朝日新聞朝刊社会面に「だまされる罪 向き合う」というタイトルの記事が載っている。
 「今だから 伊丹万作の伝言」というシリーズの「上」となっている。

 7月29日、夕暮れ時の国会議事堂前。脱原発の声を上げ、道いっぱいに広がる人の渦に、吉村栄一さん(46)がいた。
 東京在住のフリーライターで編集者。音楽家の坂本龍一さんたちと反原発イベントを企画する。昨年8月、その仲間と「いまだから読みたい本―3.11後の日本」(小学館)を出版した。きっかけは一つのエッセーだ。
 「戦争責任者の問題」
 昭和初期に活躍した映画監督、伊丹万作が書いた。同じ映画監督の道を歩んだ伊丹十三の父。〔中略〕「戦争責任者」は敗戦翌年の1946年8月、亡くなる1カ月前に映画雑誌に発表した。
 〈だますものだけでは戦争は起(おこ)らない〉
 〈だまされるということもまた一つの罪〉
 戦中は結核にかかり、戦争賛美の映画こそつくらなかった。ただ、望んだのは国の勝利だけ。日本人全体が夢中でだまし、だまされあった。自己反省がなければ過ちを繰り返す――。
 福島第一原発事故から数週間後。吉村さんは、ツイッターで紹介されているこの文章を偶然見つけた。
 敗戦から六十数年。深刻な原発事故を経験した日本社会に、「安全神話」にだまされた、という悔いが残る。戦争を原発事故に置き換えて読むと、3.11後の今と重なった。
 14基の原発を抱える福井県出身。〔中略〕国内で事故が相次いだ90年代、原発問題はだんだんリアルに。2007年の新潟県中越沖地震の後は、原発再稼働の署名を呼びかけたこともある。
 だが、メルトダウンまでは想像していなかった。万作の言葉が胸に落ちた。自分もだまされていた。そして、誰かをだましていたかもしれない、と。
 この夏、野田政権は大飯原発の再稼働に踏み切った。それでも首相官邸前で、路上で、人々は、「原発ノー」の声を上げ続ける。動員されるのではなく、自分の意思で。始まったばかりだが、吉村さんは「この変化は希望だ」。
 翻訳家の池田香代子さん(63)は昨夏、ブログで「伊丹の予言は当たった」と引用した。今だから響いたのでは、と思う。
 著作権切れの文学作品が読めるネット図書館「青空文庫」のアクセスランキングでも、500位圏外から事故の1カ月後には6位に急浮上した。
 しかし、と池田さんは言う。「もうだまされない」と思うあまりか、政府と同じ意見を一つ言うだけで「御用」とレッテルを貼る動きも目立つ。「大切なのは情報を集めて自分の頭で考えること。でも、それが本当に難しい」
〔後略〕
(この連載は多知川節子が担当します)


 伊丹万作のエッセイの抜粋も載っている。

戦争責任者の問題

 さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。
 〈略〉日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
 〈略〉だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばっていいこととは、されていないのである。
 〈略〉「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。


 そういえば、わが亡き祖母も、あの戦争について、自分たちはだまされていたんだと言うのを聞いたことがある。
 それが多くの戦中派の感覚だったのだろう。

 しかし、当時のわが国民は、本当に「だまされた」のだろうか。

 そりゃあ、満洲事変が、日本側の謀略によって始まったのにもかかわらず、中国側の破壊工作に対する自衛行動であるとされていたということはあった。
 大本営発表が架空の戦果を宣伝していたこともあった。
 そういった意味では、「だまされた」面は確かにあった。

 しかし、権益擁護を理由に満洲に進出し、さらに華北分離工作を試み、その結果日中戦争に突入し、その展望が開けないと南方に活路を求め、ついには米英蘭との戦争に至るという大きな流れは、おおむね国民は支持したのではなかったか。

 「だまされた」のなら「だました」者がいるということになる。
 負けるとわかっているいくさを、勝てるとだまして引っ張っていった者がいるということになる。
 わが国にとって必要のないいくさを、無理強いした者がいるということになる。

 だから自分たちには責任はない。悪いのはだまそうとした奴らだ。もうだまされないぞ――と。

 しかし、当時のわが国の社会の一員に、一切責任はないなどということがあるだろうか。
 子供にはあるだろう。しかし、いい年をした大人たちはどうだろうか。

 1980年代のことだったと思うが、満洲国を扱ったテレビ番組を見ていると、当時のニュース映画のフィルムだったと思うのだが、こんなシーンがあった。
 満洲国での何かの式典。皇帝溥儀をはじめとする政府高官と群衆。
 高官らしき日本人が叫ぶ。

「だいにっぽんてーこくー、てんのーへーか、ばんざーい」
 万雷の拍手、歓声。
 そして、それに続いて、
「だいまんしゅうこくー、こーてーへーか、ばんざーい」
 続く拍手、歓声。
 カメラは溥儀の微妙な表情を捉える。

 これを見て祖母は、満洲国の式典なのに、天皇陛下万歳が最初に来るとはどういうことか、何ということをしていたのかと慨嘆した。

 たまたま祖母は知らなかったかもしれない。
 しかし、多くの日本人がこの式典に参加し、あるいはニュースでそれを見たのだろう。
 にもかかわらず、それに異を唱える声は上がらなかったということだろう。
 ならそれは、「だまされた」のではないのではないか。

 朝日の記事によると、吉村栄一には、原発事故について、「安全神話」にだまされたという思いがあり、それが伊丹のエッセイと重なるのだという。
 しかし、私は、以前は当然のように原発を支持し、事故後はこれはいかんと転向した者だが、「だまされた」などという認識はない。
 原発の危険性を訴える声はあった。だが、まさかそんなことにはならないだろうと、わが国の技術力を信じて、たかをくくっていたのだ。
 事故の直接の原因は地震と津波である。それらは原発関係者の想定外の規模であった。
 彼らの責任を問う声は強い。しかし、私はそれに与する気にはなれない。
 私もまた原発を支持したのだ(しかも戦時中のように言論統制がなされていたわけでもないのに)。その責任は負わなければならない。 

 戦争責任についても、同じことが言えるのではないだろうか。

 もちろん、一億総懺悔などというのは愚論である。責任はそれぞれの立場によって異なる。国民皆等しく反省しなければならないなどとは、立場の違いを無視した暴論でしかない。

 だが、責任が全くないなどということがあるはずもない。

 「だまされた」と言って、自らの責任を考慮しない者は、これからも何度となく「だまされ」ることだろう。
 「だまされた」として責任を回避することではなく、自らの責任を直視することこそが肝要だ。
 伊丹が言いたかったのは、そういうことではないのか。

 青空文庫で伊丹のこのエッセイを読んでみた。

 朝日の記事は全く触れていないが、このエッセイは、当時わが国の映画界にあった、戦争責任追及の動きを批判したものである。「自由映画人連盟の人たち」が映画界の戦争責任者の追放を主張しており、その主唱者の中には伊丹の名もあると聞いたが真意かと問われ、自らの考えを述べたものである。

 以下のような記述が興味深い。

 さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
 すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
 このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。

〔中略〕

 しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。
 そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかつたか」と。たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたしているだろうか。
 いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。
 もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。
 しかし、このような考え方は戦争中にだました人間の範囲を思考の中で実際の必要以上に拡張しすぎているのではないかという疑いが起る。
 ここで私はその疑いを解くかわりに、だました人間の範囲を最少限にみつもつたらどういう結果になるかを考えてみたい。
 もちろんその場合は、ごく少数の人間のために、非常に多数の人間がだまされていたことになるわけであるが、はたしてそれによつてだまされたものの責任が解消するであろうか。
 だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
 しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
 だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。

〔中略〕

 また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
 つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
 このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
 それは少なくとも個人の尊厳の冒涜、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
 我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
 一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。
 こうして私のような性質のものは、まず自己反省の方面に思考を奪われることが急であつて、だました側の責任を追求する仕事には必ずしも同様の興味が持てないのである。


 時間のある方は是非全文を読んでほしい。

 伊丹は、映画人の戦争責任追及については、「ただ偶然のなりゆきから一本の戦争映画も作らなかつたというだけの理由で、」「人を裁く側にまわる」ことはできない、と言う。そして、自由映画人連盟には「文化運動」として単に名前を使うことを認めていたに過ぎないとし、連盟に対して自分を除名するよう求めたことを明らかにして、このエッセイを締めくくっている。

 これは、「反原発イベントを企画する」吉村や坂本龍一ら、そしてそれを好意的に報じる朝日新聞とは対極に位置する姿勢ではないか。

 朝日の記事が報じる池田香代子のブログを見てみると、たしかにこの伊丹のエッセイを引用した記事がある。

伊丹はきびしくたたみかけます。「だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。」そして極めつきは、「『だまされていた』といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう」。

この暗澹とした伊丹の予言はあたったのです。絶対安全な原発というウソで塗り固められた、経済成長という名の一本道を、私たちはむしろ意気揚々と突き進み、世界のトップに躍り出るかと思われた時期もありました。けれど、人口減少や世界情勢といった状況に、有効な手も打たずにのみこまれ、1人あたりGDPは08年には17位、2位のシンガポール、4位の香港のはるか後塵を拝することになっています。幸せ度ランキングだと、順位はもっと下がります。

そこへきて、今回の大地震津波による原発事故です。私たちは半世紀かけて滅びの支度をしてきたのかもしれません。
〔中略〕
もうやめませんか、騙されるのは。


 また、朝日の記事によると、吉村はツイッターで伊丹のエッセイに触れてこう感じたという。

万作の言葉が胸に落ちた。自分もだまされていた。そして、誰かをだましていたかもしれない


 しかし、伊丹はそもそも「口を揃えてだまされていたとい」い、「「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々」の姿勢を批判していたはずである。
 そのエッセイを、今また「だまされた」と見る材料として持ち出すのは、果たして伊丹の本意に沿っているだろうか。

 池田はこうも説いている。

伊丹は書いています。「現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。」この「現在」は、残念ながら2011年でもあることを認め、思い切りへこんだらそれをバネにして、これからはすこしでもましな選択を重ねていきませんか。なによりも、このていたらくにたいして責任の軽い、なのにより放射能に影響を受けやすい若い人びとや子どもたちのために。


 しかし、伊丹はこのエッセイで、戦争責任者を映画界から追放せよという運動に与しないことを明らかにしたのである。自分にそんな資格はないと。また誰にそんな資格があると言えるかもわからないと。
 そんな伊丹が述べた「脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めること」とは、果たして吉村や坂本龍一らが企画するイベント、あるいは首相官邸前や国会議事堂前での示威行動といったようなものを指すのだろうか。
 そうではあるまい。それならば、伊丹がわざわざこのようなエッセイを書く必要はなかった。

 私には、自らの責任を顧みず(あるいは自らの責任を免れるために?)この当時戦争責任の追及にいそしんだ人々と、こんにち脱原発運動に興じる人々がダブって見える。

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好都合な「だまされた」感 (オス)
2012-08-19 23:30:37
ご指摘の趣旨に賛同です。
その意味で、趣旨にだまされてみることにしました。感じ入るところに合致する部分が多くあり、私はだまされることに決めました :-)。

いまの官邸前などに出てきている人に違和感を感じる大部分は、その部分です。
だまされていたという被害者意識と後世に汚点を残す罪悪感やなんとなくな不安感などのマイナスを一気に解消してくれる善人になるために、騙されていた部分を肯定して誰かを否定するだけ。そうすれば自分の汚点を浄化できる。ただし、その代償で不利益をこおむることは人たちのことを考慮しない。自分を浄化する行いを否定する人たちを徹底的に否定する。ただそれだけ。

大飯原発の再稼働は、関西電力管内の問題であり、首相官邸前に集まった多くの非関西居住者と思われる多くの都会の人たちと思われるが、関西での民主的に選ばれている代表者の決断したことを電力不足のリスク回避や引き受け手でもない非関西居住者の人たちが異議を唱えられるのか。それはまさしく浄化なり清き心を取り戻したいだけで、利己的な自己主張を認めてもらいたい承認要求にしか見えないからです。
彼らは、これまで享受してきた電力で生まれた核廃棄物を受け入れることはしないでしょう。なぜなら、彼らの清き心に反するから。責任があるのに。
加えて、そのためのコストも負担したくないという超利己主義のかたまりに見えてしまいます。

認知的不協和状態で、多くの人が脆弱な民度によって、だまされたというのは好都合なんですね。そのだまされた人たちを、報道ステーションや坂本龍一氏らは最大限利用して騙しているし、騙されたふりをして安心が得られるように、自分をほめることができるようにと、最大限のサービスを提供している。
あぁ、またいつの日か騙されたと言い出すのでしょうね。
Re:好都合な「だまされた」感 (深沢明人)
2012-08-19 23:59:50
 いらっしゃいませ。

 伊丹のこのエッセイの主旨は、「だまされた」で済ましていてはいけない、「だまされた」などという言葉を安易に用いるべきではない、ということだと思います。
 それは、伊丹が戦争責任者を追及する立場から逃れるための方便であったかもしれません。だとしても、傾聴に値する主張だと思います。

 伊丹のエッセイを紹介した池田香代子はまだしもその主旨を理解していると思います。しかし、朝日の記事で取り上げられた吉村栄一や、この記事を書いた多知川節子記者が正確に理解しているかは極めて疑問です。あるいは、理解していたとしても、単なる反原発運動のためのネタとしか見ていないのかもしれません。

>大飯原発の再稼働は、関西電力管内の問題であり、首相官邸前に集まった多くの非関西居住者と思われる多くの都会の人たちと思われるが、関西での民主的に選ばれている代表者の決断したことを電力不足のリスク回避や引き受け手でもない非関西居住者の人たちが異議を唱えられるのか。 

 関西在住者として、同様の違和感を覚えます。
 
だまされた責任の負い方 (神戸ネットワーク管理人)
2012-09-04 20:04:04
遅ればせになりましたが、この記事について拙ブログで私見を述べさせていただきました。
Re:だまされた責任の負い方 (深沢明人)
2012-09-09 23:59:57
そちらのブログでお返事しました。

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