蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

―殺人犯の家族!―甲府の殺人事件に思う

2011-05-12 01:41:42 | 時事所感
5月11日(水)雨。3月下旬の気温とか。

 先日、甲府市積翠寺町の崖下で絞殺された女性の遺体が発見された。加害者の男は日をおかず警察に出頭して、被害者の女性を絞殺し死体を遺棄したことをほぼ認めたという。

 この事件の新聞記事を見て、何故か他の殺人事件とは違って身近なものに感じた。それは、一昨年の秋だったか、死体遺棄現場付近の甲府市と山梨市の境にある太良ケ峠を車で通った時の印象が強く残っていたことや、加害者の住所が知人の家の直ぐ傍で、知人宅にも警察が聞きこみに尋ねてきたと聞いたことによるのかもしれない。

 しかも、被害者の通っていた県立宝石美術専門学校の傍も同じく車で通りかかったことがあり、珍しい学校があるものだ。一体ここではどんな勉強をするのだろうかと思ったことがあったことも重なってのことかもしれない。

 そして、報道によれば、加害者は妻子があり、高校時代にはレスリング部で全国的に活躍し真面目で練習熱心な選手でもあり、現在勤めている会社でも信頼の篤い社員だったという。彼を知る周囲の人々はとても信じがたいという。

 そんな彼がどうして交際相手の前途ある女性を殺してしまったのだろうか?
加害者は被害者の女性と自宅から6Kほど離れたところにアパートを借りていて、近々現在の妻と離婚して被害女性と結婚を約束し、二人で毎月貯金までしていたのを、その金を加害者が使い込んだことが原因でトラブルとなり、首を絞めて殺したと伝えられている。

恐らくは、推測するに最初は、加害者の使い込みに対して、「貴方、本当に私と結婚する気があるの?奥さんと別れる別れると言って、何時別れるのよ…」というような難詰から、言葉だけでの遣り取りですまなくなり、お互いの感情の高まりから、揉みあいとなり、加害者が相手を黙らせ怖がらせるつもりで首に手をかけているうちに、元レスリング選手として思わず力が入り、誤って殺してしまったということではないのだろうか。

もし、加害者に当初から計画的な殺人の意思があったら、死体の処理にしてももう少しなんとか、少しでも時間が稼ぎができるよに埋めるなりなんなりしたのではないか。
それが報道によれば、発見された時の様子からでは、加害者が動転して、死体をどうしてよいかわからず夢中で山中の道路を走っているうちに、恐ろしくなってどこでもいいから無我夢中で路傍の樹林の中に無造作に投げ捨てたようであることだ。

 殺された女性は、大学を出てからさらに宝飾の専門学校に入り宝蝕デザイナーを夢見ていたという。その無念さ、さらにはその家族の無念はいかばかりだろうか。
そして、加害者がどんな経緯にしろ、自分が一時は愛し合った相手を殺してしまったことの責は、いくら負っても負いきれるものではないだろう。

 だが、問題は、なんの咎も責任も無い、いわば全くの無関係とも言うべき加害者の妻子のこれからのことである。
 特に妻はともかく二人の子供が、これから将来恐らくは死ぬまで負っていかなければならないであろう目に見えない十字架である。
 刑法上は加害者の妻子には何の罪も課せられはしない。否、このようなことを書く私に対して、私の論理の粗雑さと拙劣さから、犯罪加害者の家族に対して、間違った偏見の持ち主として糾弾される方が居るかもしれない。
 それはそれとして受けざるを得ないと覚悟しよう。
 しかし、世の中どんなきれいごとや建前を言ってみたところで、現実にあるものはあるのだ。
 それは、殺人を犯した者の血に繋がるものとしての世間の厳しい眼があるということだ。

 私がこのことを改めて強く思ったのは、先般の芥川賞を受賞した作家が、父親が女の子に性的悪戯をしたことから犯罪に問われて、世間の糾弾を受け、一家離散の憂き目にあい、そのどうしようもない苦しみから逃れるためにものを書くようになったと、受賞後の会見で語ったのを知ってからである。
 私は、それを読んで、正直なところ、人を殺したわけでもあるまいに、いわばそれぐらい(注:被害者の子供にとっては決してそれぐらいなんて軽いものでないことは承知しているつもりです。殺人罪という究極の犯罪に比べての意です。)のことで、その父の子であるという理由だけで、そこまで苦しまなければならにあものだろうか。もう少し割り切ってすませられないものだろうかとの感想を持った。
 
 性的犯罪者を父に持っただけでも、その子供としては、それほどの苦しみを負わなければならなくなるのである。それがましてや殺人となればどうであろうか。
 こんな事を書く私とて、その先祖を遠くたどれば石川五右衛門にまでたどりつくのかもしれない。だが今、私が仮にそう言葉の上では言ってみても、私と石川五右衛門との繋がりを、私自身はもとより何人にも証明のしようがないから、誰からも何も言われずにすんでいるだけではなかろうか。
 ところが、私が今明々白白に石川五右衛門の息子だとなればどうだろうか…。世間の人はただではすましてくれないだろう。

 確信的な計画犯罪を別とすれば、犯罪を犯すのは、一瞬の激情による衝動であろう。その瞬間には、哀しいかな、この世界に自分と相手しか見えなくなってしまうのだろうか。
だが、その一瞬の闇が明ければ、加害者たる自分の身にも被害者たる相手の身にも累々たる血族が繋がっているのである。
 
 犯罪を犯す瞬間、人はこのことにほんの僅かでも頭にうかべられないのだろうか。
 そうして今、不幸にして犯罪者の係累として重荷を負っている人々は、それぞれにどんな思いで息を潜めて生きているのであろうか…。
人間の罪と罰。それは決して刑法が定めるような犯罪者個人としての罪だけでは終わらないのだ。
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