ガウスの旅のブログ

学生時代から大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。現在は岬と灯台、歴史的町並み等を巡りながら温泉を楽しんでいます。

旅の豆知識「飛騨製糸工女の道」

2017年07月29日 | 旅の豆知識
 近年、日本の近代史に関心を向ける人が多くなってきていますが、『テーマのある旅』として、日本の近代化の跡を追いかけてみるのも、また面白いものです。
 明治維新以後、富国強兵策のもとで、外貨を稼いで、軍備増強の元手を担ったのは、生糸でした。それは、農家の養蚕によって作る繭を原料に、10代、20代のうら若き製糸工女の手によって、紡がれていたのです。製糸業の中心は長野県や群馬県でしたが、とりわけ信州諏訪地方に集中していました。工女達は周辺農村部から集められ、粗末な寄宿舎に寝起きして、ろくに休みもなく1日12時間以上の過酷な労働に従事しました。
 その様子は、細井和喜蔵の『女工哀史』や山本茂実の『あゝ野麦峠』などの著作で知られ、後者は山本薩夫監督によって、1979年(昭和54)に映画化され、大きな反響を呼びました。続編『あゝ野麦峠 新緑篇』も、1982年に同じく山本薩夫監督によって映画化されていますが、飛騨の製糸工女達が、遠路はるばる厳冬の野麦峠を越えていく様子はとても印象に残りました。

〇『女工哀史』とは?
 細井和喜蔵著のルポルタージュで、大正時代の1925年(大正14)7月に、改造社から刊行されました。京都の貧農出身の著者が、15年間紡績工場の下級職工として働いた経験と見聞に基づいて書かれています。
 女工募集の裏表(第3章)、雇傭契約制度(第4章)、労働条件(第5章)、工場に於ける女工の虐使(第6章)、寄宿舎生活(第7・8章)、「福利増進施設」(第10章)などの労働・福利厚生の実態と、女工の心理(第16章)や生理・病理(第17章)を詳細に描き、巻末に「女工小唄」も採譜収録されていました。
 刊行後版を重ねて多くの人々に読まれ、女工の過酷な労働の代名詞としても、この書名が使われるようにもなったのです。

〇『あゝ野麦峠』とは?
 山本茂実著の飛騨地方から信州へ来た製糸工女のルポルタージュで、昭和時代後期の1968年(昭和43)に、朝日新聞社から出版され、1972年(昭和47)には、新版が刊行されました。明治時代前期から大正時代にかけて、飛騨地方の貧農の娘達は、長途野麦街道を徒歩で信州の製糸工場へ働きに行きました。
 まず、古川、高山の町に集まり、工場毎の集団になって、美女峠を越え、寺附(朝日村)又は中之宿(高根村)で1泊し、難所の野麦峠(標高1672m)を越えて信州に入り、奈川村のどこかの集落の宿に泊まり、奈川渡を経て、島々(安曇村)又は波田(波田町)に泊まって、塩尻峠を越えて諏訪地方に、だいたい3泊4日の行程で至ったのです。
 この旅は、1934年(昭和9)に国鉄高山線が開通するまで続きました。工女達は周辺農村部から集められ、粗末な寄宿舎に寝起きして、ろくに休みもなく1日12時間以上の過酷な労働に従事したのです。

☆「飛騨製糸工女の道」の関係地
 
(1)八ツ三館<岐阜県飛騨市>
 当時、飛騨北部地方の工女の集結地の旅館の一つで、製糸工場の検番たちが工女を募集する根拠地ともなり、工女の荷物の集散までやっていました。この旅館は、唯一当時の建物が残り、昔の繁栄を想起させてくれます。
 また、川をはさんだ向こう岸には、あゝ野麦峠記念碑が立ち、工女の像もあります。

(2)美女峠<岐阜県高山市・久々野町>
 工女達はこの峠を越えると、高山の町が見えなくなるため、ふるさとに向かって永の別れを惜しんだところで、見送りのもの達もたいていはここの茶屋で別れをしました。峠に上る途中からは、高山の町を遠望することができ、当時の別れの様子を思い起こさせてくれます。しかし、当時の街道は現在の自動車道の峠の位置とは異なっています。
 旧道で高山から峠を越える途中には、橋場、差手観音、接待所跡(峠の茶屋)、餅売場、比丘尼屋敷、峠観音、神力不動尊堂などの旧跡があり、工女達のつらい旅を思い起こさせてくれます。

(3)野麦峠<岐阜県高山市・長野県松本市>
 信州へ向かう最大の難所で、標高1672mあり、冬期に越えるのは至難で、谷底に転落したり、病で倒れる工女が多数いました。
 峠にはお助け小屋が復元され、石地蔵や供養塔が残り、また、「野麦峠の館」には、当時の峠越えを再現したコーナーもあり、当時の厳しかった野麦越えの旅を追想させてくれます。
 晴れれば、乗鞍岳の眺望がすばらしく、『あゝ野麦峠』の碑も立っています。

(4)川浦歴史の里・扇屋<長野県松本市>
 川浦歴史の里は、飛騨から信州へ向かう製糸工女たちが通った野麦街道沿い、野麦峠から信濃方面へ下った山麓にあります。ここにある「扇屋」は、野麦峠の山麓 旧奈川村川浦部落の当時の尾州藩旅人宿を再現した展示館なのです。昔ながらの板葺き屋根に石を載せた造りで、とてもレトロな感じでした。
 館内には、飛騨と岡谷・諏訪との峠越えをした女工の姿、わらび粉づくりの作業姿、尾州岡船「奈川牛」の道中姿が人形によって再現されています。
 また、レトロな写真や野麦街道や工女達、尾州岡船についての展示もあって、勉強になりました。尚、隣に「ふるさと体験館」が併設されています。

(5)松本市歴史の里<長野県松本市>
 ここには、飛騨から信州へ向かう製糸工女が、旅の途中泊まった工女宿「宝来屋」が移築復元されています。元は南安曇郡奈川村川浦にありましたが、民間の手によってここに移されました。
 昔の面影が色濃く残り、工女達が暖をとり、その周りで食事をしたいろり、20人以上が一つに集まって雑魚寝したこたつなど、当時の工女達が使ったものが展示されています。
 また、隣接して、座繰り製糸工場も移築復元されていて当時の工場の様子を見ることができ、レストハウス内には、『あゝ野麦峠』の著者山本茂実の記念展示室もでき、関連資料も展示してあります。

(6)岡谷蚕糸博物館<長野県岡谷市>
 岡谷は、当時の製糸業の中心地で、明治初期は水車を利用し、その後蒸気機関を動力としてたくさんの工場がありました。昭和初期の最盛期には4万人近くが働いていたといわれ、飛騨から来た工女の多くもここにいました。
 この博物館では、当時の製糸工場で使われていた座繰機が展示され、製糸業の発展の様子をうかがうことが出来、大変勉強になります。隣接している宮坂製糸所で、実際の製糸の仕事場を見学することもできます。
 また、市内にはゆかりの建物や史跡などがいくつか残されていて、当時の繁栄を偲ぶことができます。

☆細井和喜蔵著『女工哀史』(抜粋)

第五 労働条件 十三

 凡そ紡績工場くらい長時間労働を強しる処はない。大体に於ては十二時間制が原則となつて居るが先ずこれを二期に分けて考えねばならぬ。
 第一期は工場法発布以前であつて、此の頃は全國の工場殆ど紡績十二時間織布十四時間であつた。而して第二期に当たる工場法後から今日へかけては、紡績十一時間、織布十二時間というのが最も多数を占める。

(中略)

 東京モスリンでは十一時間制が原則となつて居り、織部は昼業専門だと、公表している。而し乍ら實際では十二時間制の上に夜業がある。だから凡ての労働事情は官省の調査や、第三者の統計などで決して真相が判るものではない。しからば同社は十一時間制を公表して如何なる方法によつて十二時間働かせているかと言えば、後の一時間は「残業」という名目であり、夜業は自由にその希望者のみにやらせるのだと言ひ逃れてゐる。一年三百有余日残業するところがはたして欧米にあるだろうか?

(後略)

第十七 生理並に病理的諸現象 六十二

(前略)

 女工の子供は實によく死ぬる。即ち千人中三百二十人はその年中に死亡して了ふのであつて、一般死亡率の二倍といふ高率になつてゐるのだ。独逸に於ける富裕階級の乳児死亡率が出産百に對し僅々八であった抔に比較して、貧兒のあはれを痛切に感じる。此の如く資本主義の無情は罪なき幼な兒にまでふりかゝらねばならなかつた。

(中略)

 それからまた女工には流産や死産が甚だ多い。これは説明するまでもなく母性保護の行き届かざるに依るのであつて、最少限度を示した工場法の規定も、労働組合が活動して職工自身厳重な監督機関とならざる限りは到底實行を期し難い。
 流産および死産は農村に於て總妊娠中の二割、女教員が三割以上だと言われてゐる。これより推定すれば女工は四割以上にも當たるだらう。
 女工總数三百人中有夫通勤女工八十人を出でぬ小工場で、五年間私がゐた間に大おりといふのが六人あつた。殊に織布部の某女工の如きは體が全く動けなくなるまで工場へ出勤した為、作業中に機間へぶつ倒れて機械から仕掛品から床面まで、あたり一面血の海と化して了つた。こんな鹽梅だから人に知れぬ程度の流産がどれ丈け多いことか。
 紡績工の兒童には又発育不良、醜兒、低能兒、白痴、畸形兒、盲唖などが可成り多い。私の歩いた大小工場で其の保育場を見廻はるに、何れへ行つても強く賢こさうな美しい兒供は一人としてゐず、胎毒で瘡蓋だらけな頭のでつかい醜兒ばかりであつた。さうして社宅から出る學齢兒童中には屹度低能兒が数人まじつて居り、其のほか通學さえも出来ぬ白痴や盲唖がゐるのだつた。現にいま本稿を書く為生活を支へている小工場中にでも、跛で白痴なる少年一人、唖の少女一人、生後一ヶ年にて體は生後二ヶ月にも足らぬ大きさしかなく、頭は大人より多きいところの福助一人、低能兒が數人いるのである。
 普通統計によれば畸形兒や白痴は千人に對して二人くらひしかゐない。しかし紡績工の兒童は尠くともその三倍以上だと推断することができる。

附録 女工小唄
  
  篭の鳥より監獄よりも 寄宿住いはなお辛い。
  工場は地獄で主任が鬼で 迴る運転火の車。
  糸は切れ役ゆしゃつなぎ役 そばの部長さん睨み役。
  定則出来なきや組長さんの いやなお顔も身にゃならぬ。
  わしはいにますあの家さして いやな煙突あとに見て。
  偉そうにするお前もわしも 同じ會社の金もらう。
  偉そうにする主任じゃとても もとは枡目のくそ男工。
  世話婦々々々と威張って居れど もとを糺せば柿のたね。
  此処を抜けだす翼がほしや せめてむこうの陸までも。
  主任部長と威張って居れど 工務の前にゃ頭ない。
  男工串にさして五つが五厘 女工一人が二十五銭。
  男もつならインヂ(エンヂン)か丸場 枡目男工は金が無い。
  會社男工の寝言をきけば 早く勘定来い金が無い。
  主とわたしはリング(輪具の精紡機)の糸よ つなぎやすいが切れやすい。
  主とわたしや二十手(二十番手)の糸よ つなぎやすいが切れやすい。
  余所の會社は仏か神か こゝの會社は鬼か蛇か。
  こゝの會社は女郎屋と同じ 顔で飯食ふ女郎ばかり。
  親のない子は泣き泣き育つ 親は草葉のかげでなく。
  うちさ行き度いあの山越えて 行けば妹もある親もある。
  會社づとめは監獄づとめ 金の鎖が無いばかり
  男工なにする機械のかげで 破れたシャツの虱とる。
  女工々々と軽蔑するな 女工は會社の千両箱。
  紡績職工が人間なれば 電信柱に花が咲く。
  女工々々と見さげてくれるな 国へ帰れば箱娘。
  嬉し涙を茶碗にうけて 親に酒だと飲ませたい。
  娘いまかと言はれた時にゃ わが見こゝろは血の涙。
  国を発つときゃ涙で出たが 今じゃ故郷の風もいや。
  いつも工場長の話を聴けば 貯金々々と時計のよだ。
  工場しまつて戻れば寄宿 蛙なく夜の里おもひ。
  早くねんあけ二親様に つらい工場の物語り。
  會社男工に目をくれたなら 末は篠巻まるはだか。
  こんな會社へ来るのぢゃないが 知らぬ募集人にだまされて。
  此処の會社の規則を見れば 千に一つの徒が無い。
  うちが貧乏で十二の時に 売られて来ました此の會社

                細井和喜蔵著『女工哀史』より

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