合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

321≫ センスとは  

2017-07-09 18:24:30 | 日記
 武道稽古のさしあたっての目的は自分の間合いを作ることです。そのために各種技法を手段として用いるのです。結果として技法が上達しますが、それは一所懸命稽古したことへのご褒美みたいなものであって、究極的な目的ではありません。

 各種技法、合気道においては正面打ち一教とか片手取り四方投げとかは戦いのほんの一部分を切り取ったもので、実際はその前段や後段が数多く想定されます。つまり、正面打ち一教なら正面打ち一教で、そこに至るまでにどのような攻防を経てきたか、そしてどのような展開をしていくかということについては無限級数的な状況設定が可能で、とても技ひとつを覚えたくらいで対応できるものではありません。

 だからといって合気道のように同じ技を繰り返す稽古は意味がないということでは決してありません。それは以下の理由によります。わたしたちは自分の意思によって自分の体を自由にコントロールできていると考えがちです。しかし、運動中枢に影響を与える病気はもちろんですが、そんなこととは関係ない健康体であっても自分の体が思うようにならないことはままあると思います。つまり、脳で考えたことがそのまま動きにつながらないのです。

 普通、一般の稽古者で右と左の区別ができない人はいませんが、稽古の指導者が右足を出すように命じても左足が出るというようなことはたびたびあります。これは何が邪魔をしているのでしょう。おそらく、日常の生活動作から、この状況ならこうなるだろうということが体に刷り込まれているのだと思います。

 武道的体遣いはしばしば日常動作と異なる遣い方をします。もちろん武道的といってもその多くは日常動作をもとにしています。大切なのは日常動作と武道的体遣いの瞬時の切り替えです。センスのある動きとか反射神経の鋭い動きというのは、その切り替えの上手な人の動きのことです。その切り替えもやはり稽古の賜物ですので、センスがないと思い悩んでいる人も諦めずに励めば必ず手に入れることができます。

 話しを戻しますが、一つの技法をはさんで数多くの状況設定がある、ということであればそれをかたちに表さないまでも稽古者(取りも受けも)には最適の想定をしつつ技を展開していくことが求められます。受けは、正面打ちにしろ片手取りにしろ、第2撃はしません。しかし取りはそれを想定した動きをしなければならないということです。片手取りなら、受けの空いているほうの手は本来なんらかの攻撃をしかけてくる手だと考えるべきです。また、受けは受けとして、取りが転換をしたら何を目的としているのかを察知する努力が求められます。一つひとつの技法において、取り受け双方がどう対処するべきなのか、そういうことを重ねていくと望ましい立ち位置やタイミングがわかり、それがセンスの良い動きと評されることになります。

 何かを言えば言うほど、結局は稽古が大切ということにつながっていきます。でも、わたしたちのようにごく普通のひとにとって、天性のものと断じられるよりはよほど励みになりますね。
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320≫ 背すじを立てて   

2017-06-16 17:59:12 | 日記
 先ごろ開催された全日本合気道演武大会のプログラムに幾人か存じ上げの方のお名前を発見し、頑張っておられるお姿を想像しながら嬉しく思いました。ご苦労さまでした。

 おそらく4、5千人にせまる大変な数の参加者が大会を彩っておられるわけですが、それでも合気道愛好者のほんの一部にすぎません。世界中ではその何倍(何百倍)にもおよぶ人たちが修練を重ねているわけで、そこには人数と同じ数の目的が存在しているはずです。大先生の言に従えば最終目標は地上天国の建設なわけですから、個人それぞれの目的がさらに進んで皆に共通した目標へと向かう意欲が必要です。

 最近は、目的に向かおうとする意欲を引き出す内的誘因をモチベーションと言ったり外的誘因をインセンティブと言ったりして、日本語もまともでないのに外来語に頼っている現状です。インセンティブなんてのは、言ってみれば馬の鼻先に吊るしたニンジンみたいなものですが、今日のテーマはそれではないのでまあ捨てておきましょう。

 さて、目標到達への第一歩はなんといっても技術が上手になることです。そのための日々の稽古であるわけです。しかし、その目的に向かって、稽古を積めば上手くなるはずなのにそうはなっていないという場合、その大きな原因はどこにあるのでしょう。たぶんそれは技術習得における優先順位(これも最近はプライオリティなどと気取って言うようです)を誤っているからです。

 合気道における技法習得の要素は①適切な間合いのとり方 ②有効な崩しの方法 ③個別技法の獲得、ということになります。しかし、実際の指導においては、多くがその逆の順番になっているのでははいでしょうか。逆ならまだいいほうで、間合いなんてのは意識の上にも上っていない指導者も中にはいるかもしれません。それでは稽古者はある一定のところ以上には到達しません。断言しておきます。

 ところで、合気道の理合いは剣の理合いに通ずるといわれますが、上の①②③に共通する理合いもやはり剣に通じます。それは姿勢と視線です。上体は起こし、目は相手の全体を見るようにします。武道でも、必ずしも上体を起こさない相撲や柔道(自護体)などがありますが、理合いの違いです。

 姿勢と視線の置き方が良くないと結果として下ばかり見ていることになります。つまり、上体が前掲し、目は相手の手に行っている(片手取りなど)ということです。背骨を立てて相手の全景(せめて上半身)を見るようにしましょう。

 手取りなどで、上体を立てるということは前掲した場合に比べていくらか手が離れるということになります。そうするとそれは適切な間合いではなくなるかもしれません。ですからそこで半歩なり四分の一歩なり足を進めて近間の間合いを確保しなければなりませんが、それが合気道の適切な間合いであり普段の稽古はそのためのものです。

 ついでに言うと、剣術用語で正中線というのがあります。簡単にいうと体の中心を通る線ですが、合気道ではこれは天地を貫く軸だと認識します。しかし、そういう軸が物理的にあるわけではなく、あくまでも体感の産物です。臍下丹田も同じです。これらは感じられる人には感じられるというものですが、ある種の催眠効果みたいなものですから、無理に体感しようと思わなくても差支えありません。背骨はほぼ体の中心にあり、臍下丹田は体の重心にあたりますから、普段から全身の力みを無くし、自然に背骨を立てておけばそれで十分です。その姿勢と視線で稽古に臨みましょう。

 なお、技法習得の優先順位と言うのは、①を習得したら②を、その次は③を、ということではありません。①②を身につけるために③をするのです。そこを間違えないように。
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319≫ 職人技のように  

2017-05-26 20:41:40 | 日記
 『下手な考え休むに似たり』というヘボ将棋の戒めがありますが、合気道について言えば、下手でもいいから、考えないよりは考えるほうが上等だと思います。合気道は考える武道なのです。

 それでは、何をどう考えるのか、です。答えは簡単、一挙手一投足のそれぞれの意味を考えるということです。技法練習のあらゆる局面において、たとえばこの右手はなぜこういいう動きをするのか、この左足はなぜこのように踏むのか、そういうことに秘められた意味を見つけ出すことです。このように、部分部分の動きの意味がわかってくると、合気道とは何なのかという本質的な意味も分かってきます。それがわかったら、あとはそれを飽きずに続けることです。

 でも、『余計なことは考えず、いっぱい動いて良い汗をかけ』という指導方針の方もおられるでしょう。学生さんなど体を鍛えるべき若い人たちにとってそれも間違いではありませんが、それだけに囚われるのはよろしくありません。たぶんそのようなところから達人は生まれないと思います。
 
 熟練技能者、いわゆる職人という人たちにわたしは敬愛の念をもっています。彼らは優れた製品を産み出しますが、それらは極めて合理的な理論とそれに基づいた技法に裏打ちされています。難なくやってのけているように見える動きの一つひとつが長年の努力の結晶です。合気道稽古もそのようにあってほしいものです。

 ところで、簡単に見せることと簡単なこととは大きく違います。同様に、合気道においても技法上の大切な動きは往々にしてやりにくいのです。そのやりにくい動きを自分のものにするのが稽古です。ですから、このほうがやりやすいからこうする、というのはほとんどの場合間違いです。

 その間違った動きで生み出されるのは間違った間合いです。間とは空間(崩しの方向、入り身など)と時間(タイミング)それぞれの間です。合気道の稽古とはこの間の稽古です。それを素人の感覚でやりやすい方法をとったら稽古の意味をなしません。動きの一つひとつにはそうでなければならない理由があります。ときにはとても窮屈な動きもあります。それでも理法に則ってやらなければなりません。それはいちいち教えてもらえないし、ときには先生が間違っているかもしれません。だからこそ自分で考えなければならないのです。そこから優れた合気道が生まれます。難しいことを簡単に見せる、それが職人技です。合気道も同じです。

 ところで、動きの意味はいちいち教えてもらえないと述べましたが、わたしは黒岩洋志雄先生という稀有な才能の持ち主と出会い、それを教えていただいた幸運な合気道家の一人です。間違った動きだなんだといっても、何が正しくて何が間違いか不明だという方はどうぞコメントをお寄せください。お答えできるものはわたしの理解の範囲内でお答えします。
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318≫ 意識の間境   

2017-05-04 17:59:56 | 日記
 『建物の内装はどうしようが自由だが、外装は市民の共有財産だから所有者といえども好き勝手にはできない』。これはまちづくりの勉強をしていたころ、まちの統一感をテーマにしたときの講師の話です。わざわざこんなことを言わなければならないほど、繁華街には様々な色と形があふれています。後に一部の都市で施行された景観条例等は心地よい社会を築くためには一定のルールに従うことが肝要であることを示しています。

 さてこの教えそのものもさることながら、自分の守備範囲を明確に示している点が武道と通じると感じたりしたものです。自他の間境はどこか、内と外との心構えの違いは、など考えさせられます。

 このごろは逆に自分と他人の義務や権利の境を曖昧にするような意識が蔓延しているように思われます。一番わかりやすいのは話し言葉です。たとえば『~したい』と言えば済むものを『~したいかな』とか、『~のほうが良いと思う』と言うべきところを『~のほうが良いのかなと思う』などのように『かな』を濫用する人が多く見受けられます。『かな』は主に外部の事象の可否が不明なときに使う言葉であって、自分の判断について言う言葉ではありません。間境を大きく越えているのですから。
 
 ましてやそれを、一般人ならまだしも社会的責任の大きい人までが公的な場でそのような中途半端な日本語を使っています。この現象はいったいどこから来るのでしょう。何事かを言い切ることが不安なのでしょうか。断定したことが間違っていたらみっともないとでも思っているのでしょうか。このように、心構えや料簡というものは態度、行動に表れてきます。そのためにも言葉遣いには気をつけたいとそう思います。

 武道では『出たほうがいいかな、引いたほうがいいのかな』などと考えている暇はありません。間合いの良し悪しを瞬時に判断する能力を身につける、それこそが稽古の目的です。もしそれが誤っているときその責は自分が負う、武士道などと力まなくてもそれが人間として当たり前の生き方です。合気道が現代武道として期待されていることのひとつに、このような人格形成の側面があるのではないでしょうか。

 間境といえば、このごろは国境という意味でボーダーと言ったり、その自由往来をボーダーレスと言ったりします。武道的価値観や感覚の中で生きている者(わたし)にとってはこのボーダーレスというものに若干の違和感を持ちます。玄関の敷居を平気で踏みつけるのに似た情景に映るからです。内と外の異なる価値観を一緒くたにすることが善であるかのごとき言説は、かえって多様な価値観を尊重する思潮にそぐわないものでしょう。

 オランダに入国した移民だか難民が『自分たちにもオランダ人と同じ権利を与えよ』とデモをしたというニュースが以前にありましたが、ご存知のとおり『世界は神が造ったが、オランダはオランダ人が造った』と言われるくらい、彼らは苦労して低湿地を干拓し今の国土を得たのです。その歴史を知れば難民といえどもオランダ人に敬意をはらうべきであることは言うまでもありません。

 間境ということを考えていてそんなことを思いました。
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317≫ 黒岩先生の指導風景 

2017-04-20 17:26:54 | 日記
 本ブログにコメントを寄せてくださるN氏と敬愛する道友Z氏から、故黒岩洋志雄先生の講習会の様子を記録した動画がアップされたと、期せずしてほぼ同時期にお知らせいただきました。ありがとうございます。また、動画をアップしていただいた不知詠人様、会場となっている鍬守道場の皆様に感謝いたします。勝手ですが本文にて紹介させていただきます。【動画はこちらから

 収録時間が長いのでまだ全編を観たわけではないのですが、いたるところに我が身に馴染んだ動きが映し出されていて、とても懐かしく思います。この動画の序盤で、四方投げ(ヨコ)の崩しからいろいろな技ができることを指導しておられる場面があります。黒岩先生は、四方投げとは前後左右という意味の四方に投げ分けることではなく、そこから種々の技法に応用変化することができる、そのことこそ四方の意味だとおっしゃっていました。映像と音声からそれがわかると思います。付け加えれば、その直前に指導しておられるヨコの崩しのための体遣い(左右の連続フックみたいな腕の振りを中心に)こそが大切なのだと言っておられました。『でも、それだけやっていると飽きちゃうでしょ。だからいろんな技を使うんですよ』ということのようです。

 ところでその場面で、体の前で両腕を振るときに、あると仮定したボールの表面を手のひらでなでるようにするのだと説明しておられます。わたしも稽古のときは同じように話すのですが、今の今までわたしのオリジナルの解説だと思っていました。オリジナルならわたしも大したものだということになりますが、40年も前の記憶の底から拾い上げたということかもしれません。少しがっかりすると同時に先生の教えが深くしみ込んでいたことを再認識し嬉しくもありますが、やや複雑。

 今回は動画紹介ですので、本文は短めでご勘弁を。
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