画竜点睛

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「ジェノサイド」(13)

2012-05-14 | 雑談
本能がある種の知識、一種の予言的ともいえる能力を持つ実例は枚挙に暇がありません。例えば馬の脚や肩に卵を産み付けるウマバエは馬が自分の体を舐める際に幼虫が消化管に運ばれ、胃の中で成長することになるのを前もって知っているかのようですし、獲物の神経中枢をピンポイントで刺して麻痺させる或る膜翅類の昆虫は天才的な腕を持った外科医さながらです。中でもシタリスという甲虫(ネットで調べてみましたが、詳しいことはわかりませんでした)は、その博識さの点で一頭地を抜いているといえるでしょう。シタリスはまず「ミツバチの一種、アントフォラが作る地下道の入り口に卵を産み落と」します。孵化したシタリスの幼虫は雄のアントフォラが地下道から姿を現すのを辛抱強く待ち、出てきた雄のアントフォラの体につかまります。当初はそのまま雄の体にしがみついて過ごしますが、アントフォラが繁殖のため外へ飛び立つ機を捉えて雄から雌に鞍替えし、以後雌の体に寄生して産卵の時期が来るのを待ちます。産卵が始まると卵につかまって蜜の上に降り、卵を餌とするとともに殻を即席の休憩所代わりにして過ごします。そうして殻の上で最初の変態を迎えたあとは自力で蜜の上を漂うことができるようになり、豊富な餌に囲まれ外敵のいない理想的な環境の中で蛹から成虫へと成長します。当然のことですがこれらのことは偶然に起きるのではなく、すべてがあらかじめ決められた筋書き通りであるかのように生じます。シタリスとシタリスの幼虫はアントフォラの生態を知り尽くしているかのように、また自身が生まれてから成虫になるまでに起きるであろうことをすべて見通しているかのようにあらゆることが進行するのです。確かにこの知識は暗黙のものでしかなく、人間の知識と同じものではありません。「それは意識に内面化する代わりに、正確な動作に外面化」します。しかしこの動作が「諸事象の表象を描いている」点で、またその表象の下には意識の流れが存在するという意味で、知性には翻訳不可能な一つの知識であるということができます。「昆虫は学習したことがないのに、時空間の正確な点でそれらが存在すること、あるいは起こることを知っている」のです。

一方知性も誰からも教わったことがないのに、生まれつき理解していることがあります。「等価なものと等価なものの関係、含まれるものと含むものの関係、原因と結果の関係など」関係一般です。知性はあらゆる事物について無知である代わりに、それらの属性を事物に結び付け関連付けるや否や即座にそれが何を意味しているかを理解することができるのです。知性は生まれつき関係を理解し文脈を読む術を心得ているので、原始的な言語では関係がはっきりと明示されないこともしばしばです。関係がどんなものであるにせよ、人間的思考の分析が「常に到達することになるのは、一つか複数個の一般的な枠組みであって、精神はそれについて生得的な知識を持って」います。したがって本能と知性の知識の違いをひとまず次のように言い表すことができるでしょう。「もし本能と知性が内に持つ生得的な知識を検討するならば、生得的な知識は、前者では事物に係り、後者では関係に係る」。

これを認識という観点から捉えると、本能は質料(内容)についての知識を含み、知性は形式についての知識を含む、あるいは本能の認識は定言的で知性の認識は仮言的である、等々と言い換えられます。質料が意味しているのは直接的な意識の所与で、質料についての認識は「ここに或る物が存在する」という(定言的)表現によって言い表されます。これに対し形式は「体系的な知識を構築するためにこれらの素材の間に立てられる関係の全体」であり、「あらゆる経験に先立つ枠組み」です。知性は「ここに或る物が存在する」とは言わず、「もし条件がこれこれなら、条件付けられているものはこれこれになる」(仮言的)と言うでしょう。認識の面から見たこれらの違いは、しかし行動の面からも十分推測できることです。もし本能が有機的な道具を使う能力であるなら、本能の認識がその道具とそれが適用される対象、すなわち質料に向かうのは当然です。また知性が人為的な道具を製作する能力であると想定すれば、知性は環境や条件に応じてそれに適した道具を作る必要があります。「知性の本質的な機能はそれゆえ、任意の環境の中で、困難を切り抜ける手段を見分けることになるだろう。知性は最も役に立つものを、つまり提示された枠組みに最もうまく嵌まるものを探すだろう」。当初は本能の質料的知識の方が、知性の形式的知識よりも好ましく優れているように見えます。というのも何といってもそれは特別な努力を払わなくともすぐに満足のいく結果を出すことができるからです。しかし残念ながら本能の持つ「内的で十全な」認識は特定の対象の特定の部分にしか有効ではなく、適用範囲を拡張することができません。逆に形式的知識は質料で満たされておらず空疎であるからこそ、どんな対象ででも――たとえそれが何の役にも立たないものであれ――満たすことができるという強みを持ちます。このため知性は疑いもなく有用性を目指して現れたものでありながら、その対象は必ずしも有用なものには限られないという特性を有します。つまり知的存在は生まれながらにして自分を超える手段を自己の内に携えているのです。

もっとも知性が自分自身を乗り越えるのはそう簡単ではありません。せっかく自己を超える手段を有しているにもかかわらず、知性は自分にとって有用なもの以外のものを見つけることができないからです。「これを見つけることになるのは、本能だけだろう。しかし、本能がそれを捜し求めることは決してないだろう」。

今引用した文章によってベルグソンが言わんとしていることの一つは、おそらく本能と知性が永遠に理解し合えないこと、両者の対立が一般に想像されているよりもはるかに根深く調停も和解も不可能なものだということです。たとえば「ジェノサイド」にも出てくる遺伝子研究の長足の進歩により、将来生命の謎が科学的に解明されることが期待されています。実際科学は際限なく進歩しつづけ、限りなく生命の核心に肉薄していくでしょう。が、科学が生命そのものに到達することは決してないでしょう。ちょうどゼノンのパラドックスでアキレスが亀に永遠に追いつくことができないように。――進んでも進んでも亀に追いつけないアキレスの歩みは永遠に生命に追いつくことのできない知性の歩みを象徴していると言えるのではないでしょうか(といってもそのことが科学の価値を貶めるわけではありません。科学には科学固有の方法があり、固有の対象があることはすでに述べた通りです)。

少々結論を急ぎすぎたので、話を元に戻しましょう。「知性の機能は諸関係を立てることである」と言いましたが、この諸関係は知性が何物にも依存しない「純粋な思索」によって打ち立てたものではありません。知性は「行動の必然性と相関的なもの」であって、そこから知性の形式もおのずと決まってきます。これに対して「行動は秩序ある世界で遂行されている。この秩序はすでに思考のものである。知性を行動によって説明するとき、論点先取を犯している。行動は知性を前提しているのだから」という反論も成り立つでしょう。このような疑問については次の章(「創造的進化」第三章)で検討するとして、さしあたり行動、特に製作という行為を出発点として考えると、製作が対象とするのは無機的な物質です。仮に有機的な素材を使用する場合でも、素材の持つ有機的な側面が顧慮されることはありません。加えて、気体や液体など流動的なものは通常製作の素材となり得ないことは明らかです。したがって知性の特徴としてまず第一に言えるのは、「自然の手から生まれたわれわれの知性の主要な対象は、無機的な固体である」ということです。

では無機的物質の最も一般的な特徴は何でしょうか。それは「拡がり」です。対象同士がお互いに対して外的で、対象そのものの諸部分も互いに外的なのが物質の特性です。製作(あるいは一般に行為)にとって何よりも必要なのは、「われわれが係っている現実の対象、もしくはそれを分解して得た現実の要素を、暫定的に決定的なものとみなし、それらをそれぞれ単一のもの」、つまり不連続なものとして扱うことです。なるほど拡がりの連続性について語られることがないわけではありませんが、それは物質の性質そのものを語っているというよりも、対象の分割が終局に達したわけではなく、さらに分割を進めることも可能であるという人間側の事情に言及しているに過ぎません。知性に肯定的実在として現れるのはあくまで不連続性の方で、それを否定的に言い表したのが連続性であるという見方もできます。「知性が明晰に表象できるのは、不連続なものだけなのである」。

知性が働きかけるのは静止した対象かまたは動く対象ですが、対象が動く場合も知性が関心を持つのは或る瞬間にそれがどこに位置するか、最終的にそれがどこへ行くかということであって、対象の動きそのものに注意を向けるわけではありません。「知性は、不動なものがあたかも究極の実在か元素であるかのように、そこから出発し」ます。量子力学は知性が「運動を表象しようとするときも、不動なものを並べて、運動を再構成する」事実を図らずも世に広く知らしめたと言えるのかもしれません。動的なものが知性の視界に入らないのは単にそれが知性にとって何の役にも立たないからで、逆に知性が不動なものにしか関心を持たないのはそれが有用なものだからです(もっともこの有用性は必ずしも意識できるレベルのものとは限りません。むしろ大半は感覚―運動神経系という自然の感知器によって時々刻々捕捉されるものです)。「われわれの知性が明晰に表象するのは、不動なものだけなのである」。

知性が対象を分割するのはあとで再構成するためです。「この素材に対する力、つまり好きなようにこれを分割し再構成する能力を表象するとき、われわれは、可能な分割と再構成すべてを一まとめにし、実在的な拡がりの背後に向けて、これを支える等質的で空虚で無関心な空間の形式で投影する」。したがって空間は感性の形式というより、諸事物に対する活動の中心と支点を求めるための「可能的な行動の図式」だということは以前にも書きましたが、「創造的進化」ではこれに加えて、諸事物の方も「この種の図式に収まる自然な傾向を持つ」点が明らかにされます(これは先ほどの知性の発生に関連する問題で、同じく次章取り上げられます)。「空間は人間知性の製作へと向かう傾向を象徴する表象」であり、恐らく動物はこれに類したいかなる観念も持っていないでしょう。というのもこの種の観念を持つためには「製作のための道具を製作できる」能力、「無限に二重化する能力」(ジャンケレヴィッチ「アンリ・ベルクソン」)が必要だからです(動物の知性と人間の知性とのこの差は、大脳の差に由来するものと一応は言えるでしょう。これについても後述します)。「知性は、いかなる法則に従っても分割でき、いかなるシステムとしても再構成できる無際限な能力によって特徴付けられる」。

さて、知性という能力の特徴をいくつか見てきましたが、本能を代表するアリやハチにせよ知性を代表する人間にせよ、社会生活を営む動物です。社会生活を営む以上、成員同士の意思疎通を図り、共同生活を可能にする手段、具体的に言えば言語が必要になってくるのは言うまでもありません。本能の言語がどんなものかはわかりませんが、アリやハチの社会では多型性によって個体ごとの役割がある程度決まっており、分業が自然に行われます。したがって本能的言語があるとすれば、それを構成する記号なり信号なりの数はごく限られたものであるに違いありません。そしてひとたび種が形成されると、本能的言語を構成する要素も特定の対象や操作に対して固定化され、未来永劫変化しないものと考えられます。これに対して人間は社会に対するいかなる役割も任務も前もって割り当てられておらず、それらを半ば強制的に教え込まれ、半ば自発的に学び取る必要があります。学習とは一面で未知のものを既知のもので置き換えることであり、ある事物に結び付けられた記号を別の事物へと移し変えるところに成り立ちます。他の事物と関連付けられないような事物は存在しませんから、記号のこの移し変えは際限なく行われ得るでしょう。実際言葉を発することができるようになった幼児は覚えた言葉を特定のものだけでなく、あらゆるものに見境なく適用することによって言葉の意味を拡張します。「『あらゆるものがあらゆるものを示しうる』――これが幼児の言語の隠れた原理である」。つまり幼児は言葉とその意味を一つ一つ覚えていくのではなく、意味の全体から徐々に特定の事物と言葉を限定していくのだと言えるかも知れません。このある対象から別の対象への記号の移し変えは、一般化の作用とは異なります。記号自体がすでに多かれ少なかれ一般性を帯びているからです。「人間的言語の記号を特徴付けているのは、その一般性ではなく、その動性である。本能の記号は密着した記号で、知性の記号は動的な記号である」。
(この動的な記号という表現は記号自体にそういう性質が備わっていると受け取れる点で、若干誤解されやすい憾みがあるように思われます。記号を操作するのはあくまで知性で、記号の動性は所詮知性の性格を反映したものに過ぎないからです。原文がわからないので何とも言えないのですが、この動的という言葉には「力動的」というニュアンスが込められていたのではないでしょうか。あるいはベルグソン自身がのちに「道徳と宗教の二源泉」で使うことになる言葉で言えば、「開かれた」記号(その対となるのは「閉じられた」記号)と形容するのがより適当であるようにも思えます)

記号を操作するのはたしかに知性ですが、言語が知性にもたらした恩恵にも計り知れないものがあります。むろん言語の恩恵に浴するための前提条件として、知性は「実践的に有用な努力以外に、消費可能な余力を持って」いる必要があります。そのような知性は「すでに潜在的には自分自身を取り戻した意識」です。たとえそうだとしても、言語がなければ知性は物質的対象に釘付けにされ、覚醒の時期を大幅に遅らされていたでしょう。知性は独力でも催眠状態から脱け出すことができたかもしれませんが、触媒のごとく働いて知性の解放を促したのは紛れもなく言語なのです。あらゆるものの間を渡り歩く記号は、ただ知覚された事物から別の知覚された事物へ移るだけではありません。「知覚された事物からその事物の記憶へ、その正確な記憶からより薄れゆくイメージへ、薄れゆくとはいえ、なお表象されているイメージから、そのイメージを表象する行為の表象、つまり観念へと」、あたかも強力な感染症のごとく次々と伝染していきます。こうして物質とともにまどろんでいた知性の目の前に、自分自身の「内的世界の全体」が広がってきます。「知性は、言葉それ自体が事物であることに乗じて、言葉によって運ばれ、自分自身の仕事の内部へと浸透する」のです。注意しておきたいのは、この知性の覚醒は知性みずから望んで得たものでもなければ、自然の意図したものでもなかっただろうという点です。何故なら自然が「意図」したのは道具を製作するための手段を提供することで、思考や認識のための手段を提供することではなかったのですから。知性の覚醒は言ってみれば瓢箪から駒が出るようにいくつかの条件が揃ったことによりなされたものに過ぎません。しかしそれが偶然の産物であるにしろ、知性は「自分の歩みを反省して、自分が観念を生み出せること、自分が表象一般の能力であることに気づ」きます。この覚醒によって知性が「それについて観念を持つことを望まないような対象」は最早存在しなくなり、勢い知性は物質のみならず生命や思考などあらゆるものを包括しようと目論むようになります。
(言語による知性の解放が偶然的だというのは、知性の覚醒そのものが偶然的だという意味ではありません。個々の観念と言葉との出会いが偶然的だということです。「一つの国語は、何と言っても慣用(ユザージュ)の所産である。語彙はもちろんのこと、構文規則のうちにすら、自然から出たものは一つもない。しかも話すというこのこと自体は自然に属している」(「道徳と宗教の二つの源泉」)。自由が必然性と緊密に絡み合っているように、覚醒も無意識(自然・本能)と分かちがたく絡み合っています。覚醒は重力のようにそれと意識されないまま間断なく無意識の抵抗に晒されつつ保たれているのであって、無重力状態を表しているのではありません。このような生物学的次元での知性の努力に「とくに資性のすぐれた」少数の個人の力が加わることによって自然を「出し抜」き、一瞬の無重力状態を生じさせることによって社会進歩が可能となったこと、その代償として人間の社会は常に解体の危険を孕んでいることが「道徳と宗教の二源泉」で論じられています)

知性がどういう方法で生命を包括しようとするか、どうやってそれを自分の内に取り込もうとするかは容易に想像がつきます。知性が自分の働く領域を拡げることができたのは言語のお蔭ですが、もともと言語は事物を指示するために生まれたものです。「ただ、語が動的なもので、ある事物から別の事物に進むので、知性は、事物ではない対象に語を適用するために、遅かれ早かれ、語が何もまだ対象としていないのに、途中で取り上げ」る必要に迫られます。「この対象は、それまでは隠れていて、陰から光へと移行するために語の助けを待っていた」のです。語の事物から事物への移行が同一平面上で行われるものだとすれば、この「事物ではない対象」への移行はある平面から別の平面への「飛躍」から成っていると言えるでしょう。知性が「言葉によって運ばれ、自分自身の仕事の内部へと浸透する」という先ほどの記述は、この「飛躍」を表現したものではないかと考えられます。ところが「事物ではない対象」への移行に成功したとしても、知性は結局それを新たな語で覆うことによって事物に変えるほかはありせん。すなわちそれを相変わらず「無機的な固体」として扱い続けるのです。「概念は実際、空間における対象のように、互いに外的なものである。概念はそれらの対象をモデルにして生み出されていて、それらと同じ安定性を持っている。概念は、一つに集められて、「知性界」を構成する。この世界は本質的な特徴で固体の世界に似ているが、その諸要素は、具体的な事物の単なるイメージよりも、軽く、透明で、知性にとって扱うのが容易である」。概念が表しているのは事物の知覚そのものではなく、事物に働きかける行為の表象です。記号が多かれ少なかれ一般化されていると述べたのはこのためです。一般化されたものである以上、「それらはもはやイメージではなく象徴」と呼ぶ方が適切です。論理と呼ばれるものは、「象徴を操作する際従わなければならない規則の全体」です。まず「直接的に認知される固体の一般的な性質」に関する考察から自然な(原始的な)幾何学が生まれ、そこから自然な論理学が派生しますが、その実体は無機的な固体間の一般的な関係を翻訳したものでしかありません。この原始的な論理学から科学的な幾何学が生じ、今度は「固体の外的な諸性質の知識を無際限に拡張」します。さらにこの無際限に拡張された知識から体系的な論理学が形作られるでしょう。このように、「論理学と幾何学は互いに生み出し合」います。というより論理学と幾何学は知性が対象を事物に変えることによって同時に生み出され、どちらを地としどちらを図とするかによって論理学となったり幾何学となったりするに過ぎません。「幾何学と論理学は厳密に物質に適用することができ」、物質の内では「独力で進むことができ」ます。「知性とは、外を見つめ、自分を外化し、無機的な自然の歩みを原理として採用して、実際にこれを導こうとする生」だからです。

このような知性の操作が目指しているのは、「物質を行動の道具に、つまり語源的な意味で、器官(organe)に変えること」だとベルグソンはいいます。唐突にさりげなく差し挟まれたこの総括が深い意味を持っていることは、「道徳と宗教の二源泉」の最終章で明らかとなります。それはさておき、以上のことからも明らかなように「知性は、物質に対して力学的に働きかけられるように造られてい」ます。逆に言えば「事物は、知性には力学的に思い描かれてい」るということでもあります。知性は自然から切り取られた機能の一つに過ぎず、自然の掣肘から解き放たれているわけではありません。知性が自然を「出し抜く」といってもそれは一瞬のことでしかないのです。

知性が自然の懐の中にあり、あらゆる領域に力を揮えるわけではないことは、「理性を賦与された唯一の存在たるこのホモ・サピエンスこそが、また不合理きわまるしろものにすがって生きてゆける唯一の存在でもある」(「道徳と宗教の二つの源泉」)という事実からも窺い知ることができるでしょう。知性を純粋な認識者と仮定する限り、この事実を合理的に説明することはできません。せいぜい科学と魔術の親近性をまことしやかに語ってみたり、知性の根底にはもともと不合理な要素があると想定してみるのが関の山です。知性が「産み出されるが早いか迷信に侵される」のは、知性の有する手段と、その一方で知性が自然の掟に従わなければならない必然性から難なく説明することができます。知性を有する個人はもともと利己主義的な存在です。個人と自然の利害が一致している間は問題ありませんが、個人の利己主義を放任しておくわけにはいかないケース、利己主義の放任が自然の構造自体を揺るがしかねないケースがいくつか存在します。そのような場合、自然(本能)は無理にでも知性に自分のいうことを聞かせなければならないでしょう。しかし知性は知性自身のいうことしか聞き入れない以上、直接個人を動かすことは叶いません。そこで自然は知性の内部に知性のイミテーション(といっても知性以外の何物でもないのですが)を忍び込ませ、これによって一時的に知性を乗っ取ってしまうのです。このイミテーションを発生させる機能をベルグソンは「仮構機能」と名付けています。仮構機能は個々人にとっては何の意味も持たないにしても、少なくとも自然の意に沿っているとは言えるのです。したがって不合理と言っても、最初から全く道理に反していたわけでもなければ、何も根拠を持たなかったわけでもありません。ただそれが意味もなく繰り返され、誇張されているうちに当初の根拠が見失われ、形骸だけ取り残されたものが不合理さの正体です。知性はいついかなるときでも知性として振舞っているに過ぎません。
(したがって知性のイミテーションは不合理なものの発生源であると同時に、その拡散を抑制する役割をも果たしていることになります。「道徳と宗教の二源泉」ではこのような自然下での知性の生態が詳細に分析されています)

他方、知性が無謬でも万能でもない証として、「創造的進化」では衛生学と教育学の例が挙げられています。「(前略)医学もしくは教育学が実践される際の欠陥が、明白な弊害によってあらわになり、この弊害によってその附けを払わされているのを思い浮かべるとき、知性の犯す数々の過ちの粗雑さ、とりわけその根強さにしばし茫然としてしまう」とベルグソンは述べています。「知性は、不活性なものの扱いにかけては抜群の巧妙さを見せる」のに、「生命的なものに触れるや否や、手際の悪さを露呈する」のです。それもこれも知性が何よりも「物質に対して力学的に働きかけられるように造られてい」るところから来ています。

知性の特徴はこれ以外にいくらでも挙げることはできるでしょうが、あたかも方位磁針がどんな場所にあってもN極(とS極)を指すように、これまで述べてきたことがすべて同じ一つの事実を指し示しています。それは知性が反生命的だということ、知性と生命が逆向きに働く力だということです。――これはよくよく考えると驚くべき事実であり、恐ろしい事実ではないでしょうか。知性は自分は何でも知っているつもりでいるのに、実は肝心なことについて何も知らないのです。「知性は、生命を生まれつき理解できないことによって特徴付けられる」。

(つづく)

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