画竜点睛

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「ジェノサイド」(6)

2011-11-01 | 雑談
手の甲をピンで突くと触覚がやがて痛みに変わるように、知覚は身体に及ぼす作用の増大によって感情になり、最終的に苦痛に変ずるように見えます。逆にピンを押す力を緩めれば苦痛は徐々に減じ、苦痛の原因であった知覚の状態に戻って表象を形作るように見えます。現象をこのように静的に捉えてしまうと、感情と知覚の間には無限の段階があり、感覚とイマージュの間の超えられない溝を感情が埋めてくれるように思えなくもありません。しかしこれでは知覚も感情も苦痛も同列に並んでしまい、それらの境界線は気分次第でどうにでも変えられることになってしまいます。刺激の増大が知覚を苦痛に変えるのが事実だとしても、苦痛の生じるはっきりとした瞬間があり、感情の生じるはっきりとした瞬間があります。それらを生命活動の観点から厳密に区別しなければなりません。

すでに述べたように、原生動物の身体の各部は刺激を受容する知覚器官であると同時に、運動器官でもあります。有機体の進化とともに機能の分化が生じ、身体各部は全体の利益のために独立性を捨てて個別的活動を放棄するに至ります。こうして全体のために個別的活動を犠牲にした結果、外界から脅威が迫ってきたとき有機体全体が危険を回避すべく運動することができるのに対して、身体各部は原形質運動のような単独での運動を行うことができません。以上の考察から、苦痛とは不動性に宿命づけられた身体各部が傷付いた部位を修復したり刺激を回避したりしようとする「一種の動的傾向にほかならない」とベルグソンは考えます。逆に考えれば、有機体の各部が未分化であればあるほど、その有機体は苦痛を感じることもないといえます。つまり苦痛は、組織の分化が進んだ有機体において身体の特定の部位が外部からの刺激を受け入れる代わりに、刺激を拒否するときに生ずるのです。

したがって苦痛は、感覚にその存在理由を持つのではありません。苦痛の存在理由は生体の運動する能力(植物は総じてこの能力を放棄しています)、生物が外界の作用に抗い、これと闘う存在であるところにあるのです。

同様に今度は身体各部の代わりに、有機体全体の方に目を向けてみましょう。対象の作用が身体に反射したものが知覚だという仮説が正しいとすれば、知覚は対象への有機体全体の可能な働きかけを示す指標であると同時に、逆に対象の有機体全体への可能的作用を示す指標でもあります。身体の行動能力が高まれば知覚の及ぶ範囲もそれだけ広がり、対象と身体との距離は危険の到来や期待の実現性を図る尺度となります。それゆえ知覚が表しているのは現実的行動ではなく常に行動の可能性にとどまるわけですが、対象と身体との距離が徐々に縮まり、ついにゼロになったとき、すなわち知覚される対象が身体そのものになったとき、知覚は行動の単なる可能性から現実的作用に変じます。現実的作用に変じたこの特殊な知覚こそ感情と呼ばれるものです。知覚が常に可能性の状態にとどまり、外的対象のうちにおいて生じるのに対し、感情は常に生体の自己自身に対する現実的作用を伴い、身体内部で生じる点で知覚から厳密に区別されます。それは苦痛と同様、生物の意識と運動性にその存在理由を持ち、引き起こされた現実的作用が局部的なものであるか全体的なものであるかという点に苦痛と感情の差があるといえるでしょう。

知覚は純粋な状態では対象と身体相互の可能的作用であるにしても、事実上可能的作用と現実的作用は混ざり合っています。言い換えれば感情に浸されていない知覚はありません。知覚が最初イマージュの総体の中にあり、徐々に自己を限定して身体を中心とするようになるのは、「行動をなしとげ感情を体験するというこの身体のもつ二重の能力の経験による」のです。

こうして身体を中心に「人格の物理的基礎」が築かれ、知覚の体系が形成されるわけですが、これだけでは身体は舵のない船やハンドルのない車も同然で、真に自由と呼ぶに値する行動が生まれるのに十分ではありません。行動のうちに自由が樹立されるためには知覚から切り離しておいた記憶を元に戻す必要があります。

このあたりの事情をベルグソンは次のように述べています(「思想と動くもの」緒論)。「現実的知覚とは潜在的行動がおのれを御するために必要とする情報であり、われわれの持続の一瞬のうちに、それよりはるかに緊張度の少ない物の持続のうちに行なわれる何千、何百万、何兆という事象を凝縮したものである。この緊張の差異こそまさに物理的決定論と人間的自由との差を測るものであると共に、また両者の二元性と共存とを説明するものなのである」。

つまり知覚は主観と客観の接点であり、感情や記憶を取り除けば取り除くほどそれは外的対象と一致し、知覚に記憶が食い込めば食い込むほどそれは感覚的性質と一致するということです。外的対象と感覚は、したがって空間的に結びついたり区別されたりするのではありません。「主観と客観、その区別と統一にかんする問題は、空間よりもむしろ時間(記憶)の関数として提起されなくてはならない」(「物質と記憶」第一章)のです。

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記憶の問題が知覚の問題にどう関わっているかについて、ベルグソンは次のように述べています。

純粋知覚の理論から導かれるのは、一つは知覚における脳の役割が行動を準備することであって、表象を生むことではないということです。仮に知覚の原因を脳の活動に求めることができるとすれば、同様に記憶も脳の活動によってすべて説明がつくことになるでしょう。しかし逆に記憶が脳から独立しているということが証明されれば、知覚の原因を脳に求める仮説も根拠を失うことになり、純粋知覚の理論の方がより説得力を持つことになります。

もう一つは対象はそれ自身のうちで知覚され、身体の内部で知覚されるのではないということ、つまり知覚は脳によって作られるものではないということです。もし対象の知覚が脳によって作られるものだと仮定すると、知覚も記憶も表象には違いない以上、知覚と記憶の間には本質的な相違はなく、両者の違いはただ単に現存する対象の表象か不在の対象の表象かという点にしか求められないことになるでしょう。反対に知覚と記憶の間には本質的な違いがあるとすれば、知覚には記憶が持ち得ない属性、対象そのものの実在性が内在しているという仮説のほうがより妥当性を持つと考えられます。

これらの点を検証すべく、「物質と記憶」第二章以降記憶が主題として取り上げられます。が、そこまで話を広げるにはすでにあまりにも本題から逸脱しすぎているので、記憶に関する考察は割愛することにし、ここでは引き続き物質と記憶の接点である知覚について話を進めることにします。

たとえばある場所に発光点が存在するとき、科学はその発光点に「一定の振幅と一定の持続をもつ振動の所在」を認めます。通常考えられているように、もし運動が等質的変化に還元され、性質(感覚)が延長を持たないならば、それらが結びつくことは金輪際ないでしょう。しかしまず第一に運動は等質的変化に還元され得るものかどうか、そして性質は本当に延長を持たないのかどうか、その点を確かめてみる必要があります。この二つの点が見かけほど確かなものではなく、反駁され得るものだとすれば、おのずと精神と物質の統一への道も開けてくるでしょう。

まず運動に関して言えば、「現実的」運動は等質的空間内における変化に還元され、「相互に量的差違を示すのみであるか、それともいわば内部的に振動し、それ自身の存在をしばしば計算もできぬほど多数の瞬間に分かちつつある質そのものではないのか、ということこそまさに問題」です。ベルグソンの考えによれば、力学が扱う運動は現実的運動の抽象あるいは記号であって、「相互比較を可能にする共通の尺度、公分母」でしかありません。そして図らずも量子力学がベルグソンの直観と同様の思想に達したことは、すでに述べたとおりです。

量子力学においては、同一の実在があるときは波の形で、あるときは粒子の形でとらえられることになりますが、運動と性質が結びつくのを妨げているものこそ粒子だとベルグソンは考えます。運動が粒子の移動あるいは移転と考えられるとき、重要なのは粒子の存在の方であり、運動そのものは「もはや一個の偶発事、位置の系列、関係の変化」に過ぎません。しかし何ぴとも宇宙が変化すること、つまり「現実の運動が存在する」ことを否定することはできない以上、早晩このような無意識的思考は矛盾にぶつからざるを得なくなります。たとえばデカルトはあらゆる特殊的運動を相対的なものとみなす一方で、運動の全体を絶対的なものとして扱わざるを得ませんでした。「それはたんにデカルトが運動を幾何学者として定義しておきながら物理学者としてとりあつかっていることからくるにすぎない」とベルグソンはいいます。そして幾何学者が運動を相対的なものとして扱わざるを得ないのは、「動いているのは運動体であって、それを関係づける基軸や原点ではないということをあらわせる数学的記号が存在しない」という記述上の都合、つまりは人間的事由からでしかありません。

このように運動をあるときは絶対的なものとして、あるときは相対的なものとして扱わざるを得ないことは、質と量の関係を象徴しています。つまり量とは相対的なものとして把捉された質であり、全体としての質の内部に凝縮された形で含まれているということです。

運動が空間の中ではなく性質の内部に含まれること、質と量が共存し得ることの根拠を、ベルグソンは持続のリズムの違いに求めています。運動を空間の内に置く限り、質と量が共存することはあり得ません。何故なら同じ場所に二つのものが同時に存在することは不可能だからです。しかし一定のリズムを持った持続を想定すれば、それと異なった多くのリズムが同時に存在し、「存在の系列におけるそれらの各々の位置を定める」と考えることが可能でしょう。それはあたかも複数の異なった放送局がそれぞれ違ったコンサートを同時に放送し、混線せずに共存し得るのと同断であるとベルグソンは述べています(「思想と動くもの」緒論)。故意にか偶然にか、ベルグソンはここで奇しくも様々な質を波にたとえていることになります。わかりやすく言えば、持続のリズムの違いとは周波数の違いのようなものだと考えることができるのではないでしょうか。

ベルグソンはまた、次のような例を挙げています(「物質と記憶」第四章)。可視光線の中で波長が最も大きく、振動数が最も少ない赤色光線の1秒間における振動数はおおよそ400兆です。一方人間が意識的に知覚できる最短の時間の限界は、心理学者の実験(当時)によると500分の1秒です。赤色光線の振動が500分の1秒ずつ隔たっており、500分の1秒という時間を連続して限りなく意識できるとした場合、400兆の振動を数え終えるには2万5000年以上かかります。言い換えれば人間が1秒間に知覚する赤色光線の感覚は、人間の持続に換算すると250世紀以上を占める現象の継起に対応していることになります。こんな途方もないことが考えられるでしょうか。運動を等質的時間に還元し、「量的次元」で捉えると、日常生活はこのように途方もない時空に変貌し、行動のよりどころが失われてしまいます。それはほとんど原生動物の状態にまで意識のレベルが低下し、随意運動を行うのが不可能な状況を表しているといえるでしょう。それゆえ量がすべてを支配していると考えるよりも、存在の系列に応じた持続のリズムがあり、より緊張度の高い持続(質)が緊張度の低い弛緩した持続(量)を支配していると考える方が自然です。「(意識的に)知覚するということは、要するに、限りなく稀薄化された存在の莫大な諸時期を、より充実した生活のいっそう分化したいくつかの瞬間に凝縮すること、こうして非常に長い歴史を縮約することにある。知覚するとは不動化するということである」。

人間が状況に応じて異なった持続のリズムを採用し、異なった人格を形成し得ることは、身近な経験からも推測できることです。たとえば生身の人間が数分間眠っている間に、夢の中では数時間、数日、数週間、数ヶ月、数年が経過することがあります。夢の中においてさえ人間の意識は量的次元にまで弛緩することはないでしょうが、弛緩の運動が進めば進むほど記憶は取り留めのない断片的なものとなり、知覚は記憶による収縮から解放されて物質のリズムと同調しようとするでしょう。それが極限に達したとき、知覚は知覚される対象と一致するに至ります。そこでは持続が「無数の振動へと解消され」、これらの無数の振動が「みな切れ目のない連続をなして結びつき、相互に連絡を保っていて、ひとつひとつ戦きのようにあらゆる方向へ走」っています。逆にこの無数の振動に解消された持続が緊張し、意識と生活の要求を回復するにつれ、色褪せた世界は徐々に生彩を帯び、感覚と性質を取り戻していきます。それゆえ「あらゆる想像を絶した容量をもつこの持続」(物質的宇宙)は人間の持続とは異なるにしても、一方から他方への移行が可能であるという意味で両者は明らかに紐帯でつながっており、「類似性」を持つということができます。

質と量の問題が運動の時間的な解釈に関わるものだとすれば、延長と非延長の問題は運動の空間的な解釈に関わるものであり、この二つの問題は連動していることがわかります。

(つづく)
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