画竜点睛

素人の手すさびで作ったフォントを紹介するブログです

「ジェノサイド」(14)

2012-06-24 | 雑談
たとえば身体は生命によって回避された障害物でしかないにもかかわらず、知性の目には宿命的に実在的な部分の集合であるかのように映ります。先ほど引用したジャンケレヴィッチはこれを「「…であるから(quia)」という意味をもった「…であるにもかかわらず(quamvis)」」という面白い表現で表しています。つまり知性は裏返しになった世界を見ているわけで、この世界では逆再生のように時間は過去に向かって流れていくのです。知性は自分の見ている世界が唯一可能な世界だと信じていますが、量子力学はそれが単なる思い込みに過ぎないことを明らかにします。「彼(プランク)は物質と輻射線との間の相互作用を突きとめるのに熱輻射を扱ったのだが、この現象に関する実験の示すところを厳密に記述しようとすれば、物質は、振動数vと所謂プランクの常数hとの積に等しい有限の量ずつしかエネルギーを失う事は出来ない、という仮定の導入を必要とするという結論に達した。この発見は、誰よりも発見者自身を最も驚かしたようである。彼は、当時、ベルリン郊外の森を、長い間散歩しながら、自分の感じでは、これは恐らくニュートンの発見だけが比較できる第一級の発見だ、と息子に語ったと言われる。それを考えれば、この時既に、プランクは、自分の黒体輻射の法則が、自然の記述の基礎に触れたものとしての将来の発展をはっきり予感していた筈だ、とハイゼンベルクは書いている。物質が輻射エネルギーを不連続的に失うとしても、輻射線自体が、必ずしも不連続的実体とは言えぬ。せめて、物質は、輻射エネルギーを、連続的に吸収すると考える逃げ道はないものか。プランクは自身の不気味な直観に、人為的な思索を以って、いろいろと戦ってみたが徒労であったと言われる。真に天才的な発見とは、そういうものであろうか」(「感想」)。この発見が意味していることの一つは、物的世界が知性からはみ出しているということでしょう。つまり世界は一元的ではなく、多元的なものだということです。事実量子力学には多世界解釈と呼ばれるものがあり(ただしこれは拡大解釈されている場合もあるようですが)、またベルグソン自身多世界解釈と一見似たような発言をしています。「われわれが生きている世界、その諸部分が相互に作用と反作用とを及ぼしあっている世界は、量的段階における一定の選択すなわちそれ自身われわれの行動能力に限定された選択によって、現にあるがごときものとして存在しているのである。別の選択に対応する別の世界が同じ場所と同じ時間とのうちに存在していてもなんらさしつかえはないのである」(「思想と動くもの」緒論)。むろんベルグソンはSFで描かれるようなパラレルワールドがあると言っているのではありません。持続が多様なものであり、物質もまた持続するものであると言っているのです。この持続の多様性こそ精神と身体の統一、すなわち一元論への道を開くものではないでしょうか。古典物理学が物質を、形而上学が精神を知性の内に閉じ込めることによって精神と身体、精神と物質とを永遠に断絶させてしまっていたとすれば、現代物理学は両極の一端(物質)が知性の枠内には収まらないことを明らかにすることによって心身並行論の円環を破ると同時に、精神の身体からの独立性をも間接的に裏付けたことになります(逆に精神の独立性を証明しようとした「物質と記憶」は量子力学の登場をある意味で予見していたとも言えます)。しかしこの問題に深入りするのは止め、次に本能における最も核心的な部分について見ていくことにしましょう。

知性が「生命を生まれつき理解できないことによって特徴付けられる」とするなら、本能は一言でいって生命の働きの延長線上にあると言えます。生命の働きとは「物質を有機的組織化する」ことであり、物質に自由を挿入することですが、本能はもっぱら「行動に外面化」し、「知識に内面化する」ことはありません。しかし知性ももともとは行動を目指した機能だったわけで、このこと自体は知性との決定的な違いとはならないでしょう。一つの個体を構成する細胞はすべてが共通の目的のために働き、おのおのが全体のために生きると同時に、全体から命を通わせてもらってもいます。ここでは全体と部分の区別が明確ではなく、おのおのの細胞を機能させているのは本能だとも言えますし、その機能は生命活動の一環に過ぎないと言えなくもありません。他方、ミツバチの巣では各個体が組織化されて高度な社会が形成されています。この社会から何らかの事情によって弾き出されたりはぐれた個体はたとえ生存の条件が整っていたとしても一定期間以上生き永らえることができないのを見ると、ミツバチの巣そのものが一個の有機体であり、個体としてのミツバチはそれを構成する細胞の一つと看做さないわけにはいきません。つまり各部分がどこまでも外的なままにとどまる無機物とは違い、生命の領域においては各部分が浸透し合い、内的に共存しています。部分が単独でも全体たり得、全体がより大きなシステムの構成要素となり得るのが生命の特質なのです。

では生命と本能の違いはどこにあるのでしょうか。生命の流れは特定の支流、すなわち特定の種に「収縮」すると、「その生まれたばかりの種に係る一つか二つの点を除けば、自分自身の残りの部分との接触を失ってしま」います。この「収縮」した生命が本能です。ベルグソンはこのような生命の分岐を記憶の働きになぞらえています。「われわれの記憶が現在に注ぎ込むのは、われわれの現在の状況をある側面で補足することになる二、三の思い出だけである」。「別の言い方をすれば、どこでも本能は完全だが、多少なりとも単純化されている」のです。

実を言うと、本能についてベルグソンが語っていることはさほど多くはありません。彼が主に述べているのは、本能は単なる反射ではなく、「知性とは全く別物である」ということ、本能の知は対象の内からの把握であるということに尽きます。「本能の本質的なものは、知性の言葉によって表現されえないし、したがって分析されえない」以上、これは仕方のないことでしょう(その点生まれたばかりの知性の生態が詳細に分析されている「道徳と宗教の二源泉」の方が、力としての本能の存在をより身近に感じさせてくれます)。たとえばいくつかの種類のスズメバチは、神経中枢を針で刺して麻痺させた獲物の体に卵を産み付け、生まれてくる幼虫に新鮮な生きた餌を提供します。麻痺させるやり方は獲物によりまちまちで、ハナムグリの幼虫を獲物とするツチバチは運動神経節だけが集中している点を一刺しします。コオロギを獲物とするアナバチは「まずその虫の首の付け根を刺し、次に前胸の後ろを、そして最後に腹部が始まるあたりを刺」します。ジガバチはアオムシの九つの神経中枢を次々と九回刺した後、獲物が死なない程度に頭に噛み付きます。これらの行動に共通しているテーマは「殺さずに麻痺させる」ことです。「アオムシの神経系の発生となって現れている力がどのようなものであれ、自分の眼と知性をもってする場合、われわれは、神経と神経中枢の並列としてしかその力に達することができ」ません。逆におのおののスズメバチは「神経系の発生となって現れている力」を直かに感じ取ることができるからこそ、獲物の構造に応じて麻痺させるやり方を変えることができるのでしょう。本能にとって最初にあるのは構造の理解ではなく、機能への直観なのです。そして重要と思われるのは、この場合ジガバチとアオムシ(スズメバチと獲物)は二つの独立した有機体というよりも、「二つの行動性とみなされる」ということです。言い換えれば個体という閉じたシステムではなく、「それ自体開かれたものである全体に対して」(「ベルクソンの哲学」)開かれたシステムと看做されるということです。

そう考えると、ベルグソンが本能と知性の関係は視覚と触覚の関係に等しいと述べていることも理解しやすくなるでしょう。Pという発光点から発せられた光が網膜に作用を及ぼすとき、「点Pも、それが発する光線も、網膜も、かかわりのある神経要素も、緊密に結び合った全体をなすのであり、発光点Pはこの全体の一部をなしていて、Pのイマージュが形成され知覚されるのは、他の場所ではなく、まさにPにおいてなのだ」(「物質と記憶」第一章)。科学(知性)の役割は点Pにおいて知覚されたイマージュを触覚の言葉に翻訳することにあります。感覚と呼ばれるものは、科学によって触覚の言葉に翻訳された知覚以外のものではありません。本能が有機体を内側から把握するように、「物質の感覚的諸性質そのものは、もし、私たちの意識を特徴づける持続の特殊なリズムからそれらをとり出すことができるならば、それ自体において、内から認識される」(同上)のです。したがって生命と本能の関係は、物質と知覚の関係に等しいとも言うことができます。

このような本能の働きの根底にあるものをベルグソンは「ともに苦しむ」という語源的な意味でのシンパシー(sympathie)という言葉で表現しています。翻訳ではこれは「共感」と訳されていますが、確かに「共感」という言葉以外に適当な訳語は見つからないにしても、シンパシーには「想像力」というニュアンスもあるのではないでしょうか。「共感」という言葉がどちらかというと受動的な働きを連想させるのに対して、シンパシーは能動的な作用だからです。「本能とはプロチノス的意味での恍惚(extase)である。本能的認識の中で精神は、全面的に我を忘れ全面的に外に向かっている(extroversus)。だからこそベルクソンも精神の無意識を語りえたわけだ。無意識とは恍惚としている(extatique)思考の状態のことなのである。そもそも恍惚状態(注=ギリシア語表記でエクスタシス)という言葉は、自分に同情してくれる愛の恩恵を個人が受動的に待つのではなく、逆に自己の外へ出て行くことを意味しているのではないか」(「アンリ・ベルクソン」)。

もしこのシンパシーが対象を拡げ、意識を持ち得たとすれば、地球における進化の様相は一変していたでしょう。物質文明が栄える代わりに、限りなく精神的・神秘的な文明が出現していたでしょう(それがどんなものであるかは想像できないにしても)。以前知性以外にも意識がとり得る形態があると述べましたが、その意識の形態こそ「利害を離れ、自分自身についての意識を持ち、対象について反省しそれを無際限に拡げることができるようになった本能」、すなわち直観なのです。

ここで新たな疑問が生じます。生命は何故直観となって花開く代わりに、本能という形に縮小しなければならなかったのか、そもそも直観は可能なのか、可能であるとすれば何故それは本能の発達した昆虫においてではなく、人間において可能になったのかということです。

後者について言えば、直観は可能であるというのがベルグソンの立場であることは改めて言うまでもありません。「この種の努力が不可能ではないことは、人間のうちに通常の知覚の他に美的能力が存在することですでに証明されている」と彼は述べています。ところで知性がただ意味もなく存在するのではないように、芸術にしろ直観にしろただ意味もなく存在するのではありません。知性が「物質に適合させられ」、物質に注意を固定する機能だとすれば、直観は生命に適合させられ、生命が自分自身に注意を向ける機能だと言えます。行動性の二つの異なった傾向が本能と知性とに分岐する裏で、直観と知性とに分裂した意識もそれぞれ本能と知性とに割り当てられますが、昆虫の社会においては意識は「行為の遂行に引きずり込まれ」、すぐに行き場を失ってしまいます。生命が自然界に自己の雛形を完璧に再現すればするほど、行動性と意識が中和し合って直観からは遠ざかってしまうというジレンマに陥るのです。それは前にも言ったように、一つの新しい習慣が有機的に組織されればされるほどそれに伴う意識が希薄化してしまうのにも似ています。人間においても昆虫においてと同様、直観はいわば休眠状態にあることに変わりはありません。人間において知性が光り輝く太陽だとすれば、直観は昼間の星のごとく、その光はあまりにも弱々しいものでしかないのです。しかし昆虫の社会と違う点は、人間という種においては行動性と意識のバランスが明らかに崩れているということです。バランスの崩れは知性の発達とともに大きくなり、その不均衡が一定の限界を超えたとき、知性は自己を意識として意識するに至ります。直観と知性は異なるものだとはいえ、どちらも意識であることに変わりはない以上、対象から解放された意識である知性は意識の「内部へと向かい、自分のうちでまだ眠っている直観の潜在性を目覚めさせることができ」ます。激しい水流が水底に沈んでいた沈殿物を巻き上げるように、知性の運動は眠っていた直観を発動させる機縁となり得るのです。直観を呼び覚ますことができるのは本能ではなく、むしろ知性の方だという理由は、おおよそ以上のようなものであると思われます。

このように意識を行動の結果と考えるか原因と考えるかによって、物事の様相が大きく違ってきます。意識を行動の結果と考えた場合、意識は実際になされる行為となし得る行為との差として定義されます。「それゆえ意識は、外から検討されると、行動の単なる付属物、行動がともす光、つまり実際の行動が諸々の可能的行動との間に起こす摩擦から生じる束の間の火花」のようなものだとややもすれば思われがちです。実際人間を除いた動物の意識はそのようなものだと考えても大きな間違いではないでしょう。そして最終的に行動を決定する(ように見える)のは脳ですから、脳の状態が意識を決定する、あるいは脳の状態と意識との間には厳密な並行関係があることになります。このいわゆる心身並行論は動物実験によって容易に追認され、メカニズムもわかりやすいことから、昔も今も広く一般に受け入れられています。しかしこの仮説に従えば、動物の意識と人間の意識の違いは脳の容量や構造の複雑さの違いにしか求められないことになります。人間の意識と動物の意識の隔たりは果たしてその程度のものなのでしょうか。両者の間には越えがたい懸隔があるのではないでしょうか。

逆に「意識が帰結ではなく原因である」と仮定した場合、わかりやすく言えば意識が行動の道具であるのではなく、行動が意識の道具であると仮定した場合も、脳と意識の間には対応関係が成立します。ただしそれは脳の状態が意識の状態を一から十まで説明できるような厳密な並行関係ではありません。ベルグソンの有名な比喩を借用すれば、脳と意識の関係は指揮者の指揮棒とオーケストラの演奏の関係にたとえることができます。オーケストラの演奏は指揮棒の動きによって制御されていますが、指揮棒の動きそのものが演奏を作り出しているわけではありません。同様に、脳が精神活動を制御しているのは間違いないにしても、精神活動そのものは限りなく「脳のはたらきからあふれ出して」(「心と身体」)いるのです。では「最も未発達な動物においてさえ、意識は権利的には広大な領域を覆っている」にもかかわらず、何故事実上人間の意識だけが脳という重石から解放されたのでしょうか。一言で言うと、人間の持つこの特権の起源は脳における「刺激と反応との分離」(「ベルクソンの哲学」)にあります。この分離には「とくに複雑な物質の物理・化学的性質を越えるものは何もない。しかし、すでに述べたように、この分離のなかに降りてきて現実的なものになるのは記憶全体」(同上)なのです。人間の脳以外に、この「刺激と反応との分離」を成し遂げたものはありません。たしかに動物の脳も「運動のメカニズムを組み立て」、それによって新しい習慣を身に付けることができる点では人間の脳と同じです。しかし組み立てることのできる運動機構の数は限られており、身に付けた習慣は「これらの習慣に描かれ、これらのメカニズムに蓄積されている運動を遂行すること以外に、何の目的も結果も」持ちません。一方人間においては、運動習慣はあらかじめ下書きされていた結果と「いかなる共通の尺度も持たない」結果(反応)を持つことができます。というのも人間の脳は「より多くのメカニズムを互いに争わせて、意識がメカニズムのいずれの束縛からもみずからを解放し、独立を獲得するに至るのを可能ならしめる」からです。人間の脳においては言語中枢が広い領域を占めていますが、「言葉に対応している脳のメカニズムには、例えば事物そのものに対応している他のメカニズムと争ったり、自分たち同士で争いあったりするという特殊な点が」あります。人間の意識はこれらの葛藤の間隙をついて自己を取り戻し、たとえ一時的にせよ脳の束縛から解き放たれるのです。

したがって人間とたとえば犬がかつて見たことのある光景を目にするとき、その光景の記憶が「結び付いている脳の局在的な変化」はほぼ同じでも、両者に現れる記憶は全く別物と考えてよいでしょう。犬の意識は脳に縛り付けられているため、記憶も知覚に縛り付けられたままです。それは記憶そのものの再生というよりも、「現在の知覚の再認」でしかありません。現在の知覚の再認は表象という形をとるのではなく、運動機構の発動という形でなされるのです。これに対して人間は記憶を現在の知覚とは無関係に思い出すことができます。「人間は過去の生を演じるにとどまらず、その生を表象し、夢見る」ことが可能なのです。もちろん人間も「現在の知覚の再認」で済ます場合もあれば、動物が夢を見ないわけではありません。しかしこと意識という観点から見る限り、両者の間にあるのは単なる程度の差異ではなく、有限と無限との間にあるのと同じだけの差異があるように思えます。

事実がこの通りだとすると、進化には新たな意味が加わることになります。人間の出現以前は単なる進化でしかなかったものが、人間の出現によって「創造的進化」へと変貌を遂げるのです。人間においては意識は常に直観と知性とに二重化されています。人間は、というより人間だけが「それらの対立について、そしておそらく同様にそれらの共通の起源について観念を形成すること」ができるのです。それは人間だけが「生命の運動」に再び合流し、「生命の運動を無際限に続け」られるということもであります。
(「ベルクソンの哲学」の最終章でこの問題が詳しく分析されています。抜粋では論旨がわかりづらいと思いますが少し長めに引用してみます。「ここでわれわれはベルクソンの哲学に固有の問題にぶつかる。つまり、二つのタイプの分化があって、両者を混同してはならない。第一のタイプの分化によれば、われわれは混合されたもの、たとえば、空間と時間、イマージュと知覚、イマージュと記憶内容といった混合物から出発する。この混合物をわれわれは実際に異なった二つの線に分割する。この二つの線は質的に異なるものであり、それをわれわれは経験の曲がり角の向こう側まで延長する(純粋な物質と純粋な持続、あるいは純粋な現在と純粋な過去という二つの線である)。――しかし今やわれわれは全く別のタイプの分割について語っているのである。われわれの出発点はひとつの統一性・単一性であり、潜在的な全体性である。(中略)たとえば純粋な持続は、それぞれの瞬間において二つの方向に分割される。この二つの方向のうちのひとつは過去であり、もうひとつは現在である。(中略)第二のタイプの分割においては、第一のタイプの分割にしたがって規定された差異と、同一または類似した質的な差異が見出される」(たとえば純粋な持続、現在と過去のように)。「この二つの場合、質的な差異のあるもろもろの傾向のあいだの二元論が規定され」ますが、「それは決して二元論の同じ状態ではなく、決して同じ分割では」ありません。生命体(有機体)の植物と動物への分化、動物の本能と知性への分化は第一のタイプの分化に属します。有機体は潜在的な全体ではなく、エラン・ヴィタルと物質の混合物であり、また動物は運動性と固定性の混合物だからです。ドゥルーズはこのタイプの二元論を「反省された二元論」と呼んでいます。このタイプの二元論は対立または二重性についての観念を与えます。一方エラン・ヴィタルから出発するとき、あるいは運動性から出発するとき、つまり第二のタイプの分化においては、対立する傾向の共通の起源についての観念が与えられます。このタイプに属する二元論をドゥルーズは「発生論的二元論」と呼んでいます。対立または二重性の観念が「経験の最初の曲がり角の向こう側に達している現実的な諸傾向、現実的な諸方向のあいだで」作られるのに対して、共通の起源についての観念は「第二の曲がり角」、つまり持続のすべてのレヴェル(ドゥルーズの用語では「差異の段階」)が「それ自身が性質であるところの唯一の時間のなかに共存している」潜在的な地点で形作られます。意識が知性と直観に分裂(分化)するというとき、先に述べたように意識の意味は二通りに解釈することができます。意識が行動の結果である場合、動物的生が動物的知性と本能に分化します(反省された二元論)。人間の出現によって意識が行動の原因となった場合、すべての意味が一変します。動物的知性は「物質の外在化と支配(注=意識的知性)」(「ベルクソンの哲学」第五章の図)、「生命の転換と包括(直観)」(同上)という二つの傾向に分化し、このうち直観から出発することによってこれら二つの対立する傾向の共通の起源についての観念、すなわち個々の意識ではなく意識一般についての観念を持つことができるのです(発生論的二元論)。――しかしこの分析の根底にある二元論と一元論の調和の問題は極めて複雑で、ドゥルーズの分析を基にしたこの解釈がどこまで正しいものか自分でも自信がありません。したがってこの問題についてはいずれまた改めて考え直してみたいと思います)。

さて、今「ベルクソンの哲学」を引用することによって議論を少し先取りしてしまいましたが、「創造的進化」第二章ではまだそこまで話は進んでいません。人間において知性が自己意識となったこと、「意識は進化の動的な原理」と考えられること、要するに合目的性の言葉で言い表すと次のように言えることが確認されているだけです。「意識は、自分自身を解放するために、有機的組織化を二つの補完し合う部分、つまり一方で植物、他方で動物に分けざるをえなかった。その後、意識は出口を、本能と知性の二重の方向に探した。意識は本能の方に出口を見つけることはなかったが、知性の側でも、動物から人間への突然の跳躍によって初めて出口に辿り着くことができた」。ところがベルグソンは、これは理解しやすいということ以外に取り柄のない一つの便宜的な言い回しに過ぎず、「現実には、ある存在の流れとそれに対立する流れがあるのみである」と述べています。ドゥルーズ流に言うと、ここでベルグソンが述べている二つの流れの「対立」は「発生論的二元論」を構成するものと考えられます。が、この段階ではまだベルグソンはそこまではっきりと意識していたかどうかは定かではありません。何故なら「ベルクソンの哲学」の最終章の解釈自体「創造的進化」の後に出版された「持続と同時性」(特殊相対性理論を論じたもの)から着想を得ている面があるからです。いずれにせよこの対立する二つの流れの方向は一方は知性に、他方は直観に示されています。この二つの流れを延長していくと一方は一つの認識論に、他方は一つの形而上学に行き着きます。この二つの流れは永遠に交じり合うことはないように思われます。実際カントは認識論を極限まで推し進めた末、「物自体」について「われわれは何も知ることはできないと主張」します。しかし「実を言えば、これらの探求の一方は他方へと導かれる」のです。言い換えると「これらは円環をなし」、お互いが離れ離れになる向きに進むのではなく、逆にお互いが抵抗を受け合う向きに進むのです。「互いに含み合っている」この認識論と形而上学を経験から適切に抽き出すことによって「進化の全体に光を投げかけ」るのが「創造的進化」第三章の目的です。

(つづく)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿