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極東国際軍事裁判【東京裁判】

2008-04-26 04:23:19 | Weblog
極東国際軍事裁判(俗称:東京裁判)
本文
産経新聞は 平成6年8月18日の オピニオンアップで 大きく 「パール判事に学べ/見直したい東洋の誇り」と題する主張を 尾崎論説委員の署名入りで 発表した。パール判事とはいうまでもなく 極東国際軍事裁判 (俗称・東京裁判)のインド代表判事ラダビノード・パール博士の事である。この裁判で十一人の判事のうちただ一人、被告全員無罪の判決(少数意見)を下した判事で、尾崎氏は次のごとく述べている。パール博士の外貌をわかりやすくデッサンしているので、やや長文であるが引用させていただく。 《ラダビノード・パール(1886年~1967年)。 現在、どれほど 多くの 日本人が この恩人の名を ご記憶 だろうか。 東京裁判(1946年~1948年)で、日本は 満州事変(1931年)から 盧溝橋事件(1937年)を経て 日中戦争(日中戦争なんかやつていない支那事変=東京裁判でこう書いてあるからこう書いただけ)に 突入し、 日米開戦(1941年)、 そして 終戦に 至る迄の プロセスを 「侵略戦争」と 判定され、 この「侵略戦争」を 計画し、 準備し、 開始し、 遂行した事は、 「平和に対する罪」に 当たるとして 東條英機ら 7人の 絞首刑が 執行された。 パール判事は、 この 東京裁判で 日本が 国際法に 照らして 無罪で ある事を 終始 主張し続けてくれた インド人判事である。 田中正明著『パール博士の日本無罪論』によれば、 同判事は 日本の 教科書が 東京裁判史観に 立って「日本は 侵略の 暴挙を 犯した」 「日本は 国際的な 犯罪を 犯した」などと 教えていることを 大変に 憂えて 「日本の子弟が、歪められた 罪悪感を 背負って 卑屈、 頽廃(たいはい)に  流されて行くのを 私は 平然と 見過ごすわけには いかない。」 とまで 言って 励まして くれたのである。 日本が 敗戦で 呆(ぼう)然自失し、思想的にも 文化的にも、 日本人の アイデンティティーを 失っていた時代に、 パール判事の 言葉は どれだけ 日本人に 勇気と 希望を 与えて くれた事か。 私達は 決して この 恩義を 忘れてはなるまい。 この パール判事の 冷静かつ公平な 歴史観と 人権に 感服し、 義兄弟の 契りまで結んだ 平凡社創設者 下中弥三郎は、 世界連邦アジア会議を 開催して その ゲストとして パール博士を 招致した。 その没後 二人を 記念する 建設委員会によって 創設されたのが、 箱根町の 丘の上にある パール記念館である。 正式には「パール下中記念館」と 呼ばれている。》 以上が 産経新聞の 要約である。最初、私事で恐縮だが、私は極東国際軍事裁判(以下東京裁判と略称)で東條元首相と共に処刑された松井石根(いわね)陸軍大将の秘書として、また松井大将が会長をされていた「大亜細亜協会」に勤務していた。その私が、インド代表判事パール博士の事を知ったのは、松井大将の密葬の夜の事であった。当日は大亜細亜協会理事長下中弥三郎、幹事長中谷武世両先生と共に私もお招きいただいた。その夜の直会(なおらい)の席で、弁護団副団長の清瀬一郎先生と大将の弁護人伊藤清先生のお二人から11名の 連合国判事中 ただ1人 インド代表の パール判事のみが、 この裁判は 国際法に 違反するのみか、 法治社会の 鉄則である 法の 不遡及(ふそきゅう)まで犯し、 罪刑法廷主義を 踏みにじった 復讐裁判に 過ぎない だから 全員無罪であると、 堂々たる 法理論を 展開された旨のお話を承(うけたまわ)った。その日から私は、ものの怪に取り憑かれた様に、まずパール判決書を手に入れ、これを上梓して、戦後の罪悪感にひしがれている国民に警鐘(けいしょう)を鳴らしたいとひたすら思う様になった。当時私は、敗戦後、大陸から帰還し、郷里の信州飯田市の新聞社に勤務していたが、志業達成のため居を東京に移した。そして早速、清瀬、伊藤両弁護士の事務所をお訪ねした。両先生に秘密保持の念書を入れて、和訳タイプしたパール判決書を借用した。悪質の仙貨紙に不鮮明なタイプ印刷で、しかも所々欠落があり、お二人のを合わせて漸く完全なものとなった。私は学生アルバイトを雇い、これを原稿用紙に筆写させた。原稿用紙にして二千二百枚、九十万語にも及ぶ長文である。 多数判決ー清瀬弁護人(東京裁判被告側弁護団副団長)の言う 六人組判決(アメリカ、イギリス、ソ連、中国、カナダ、ニュージランド)ーの六カ国の判事の 判決文よりも、 パール判事一人の 意見書(判決)の 方が 浩瀚(こうかん)な 法理論の 展開である。 ついでながら東京裁判は、 法律なき裁判ゆえ、 その判決も 6つに 分かれた。 前記6人組の 多数判決の 他に、 5人が それぞれ 別の 意見書 (判決) を出している。 オランダの レーリング判事は 「廣田弘毅元首相は無罪、 他の 死刑も 減刑せよ。 ドイツの ナチスの 処刑に 比して 重すぎる」。 フランスの ベルナール判事は 「この裁判は 法の 適用及び 法手続きにおいても 誤りがある」とし、 「11人の 判事が 一堂に 集まって 協議した事は 1度もない」と 内部告発まで している。 ウェッブ裁判長まで 6人組から のけ者扱いにされ、 量刑について 別の 意見書を 出している。 比島の ハラニーヨ判事のみが 量刑が 軽すぎるとし、インドの パール判事は 前述の通り 全員無罪、 無罪というより この裁判は 裁判にあらず 「復讐の儀式に 過ぎない」 として 根底から 否定する 意見書である。 欧米先進国では 少数意見は 必ず 発表される事に なっており、 東京裁判所条例も 少数意見は 公表すると 明記していたが、 時間が ない事を 理由に 発表を 禁止した。 当時 GHQによって 言論統制を 受けていた 日本の 新聞は ただ数行 「 インドの 判事が 異色の 意見書を 提示した」 と 発表したに過ぎない。 かくして、 ついに パール判決書は 日の目を 見る事なく 葬り去られて しまったのである。 ついでながら、 オーストラリアの ウェッブ判事と フィリピンの ハラニーヨ判事は、 法廷に 持ち出された事件に 前もって 関係していた 判事で 不適格、 必要な 言葉 すなわち 協定用語である 英語と 日本語が わからない ソ連の ザリヤノフ判事と フランスの ベルナール判事、 また 本来 裁判官でない 中国の 梅汝傲判事の 5人の 判事は 不適格判事であつた。 国際法で 学位を とった 判事は パール博士 1人 のみである。 ある日、拙宅に太平洋出版社の天田編集長が来訪され、「田中さんはえらいことをなさっているそうですね。」と言う。私が言葉をにごしていると、「わが社の社長鶴見裕輔が、あなたの原稿を是非、わが社で出版したいと申しているのです。」と言う。鶴見氏は太平洋協会の会長で、GHQの中にも多くの知友を持つ国際人である。占領下の当時すでに海外の情報も入手されていた。パール判決書はニューヨーク・タイムズやロンドン・タイムズ等では大々的に報道され、米英の法曹界ではパール旋風が巻き起こっている事を氏は承知していたのである。私はパール博士に書簡を呈(てい)し、出版に際しての版権についてお訪ねした。博士からのご返事は「判事の判決文はパブリックなものである。しかし勝手に改ざんなどなきように…」との事で出版をご快諾下さった。そこで私は清瀬、伊藤両先生とも相談のうえ、鶴見邸を訪れた。先生は病中を起き直られこう言われた。「田中さん、残念ながらこの本はマッカーサーの占領中は絶対に出版できません。内々調べてみたが、出版すればあなたも僕も即刻逮捕された上、発売禁止です。占領が解かれ、日本に主権が回復する日まで待つより外ありません。それまでお互いに秘密厳守で、潜行して作業を進める事です。」後に江藤淳さんの本で分かったが、占領軍は ポツダム宣言に違反して、 物凄く厳しい 言論統制を 行っていた。 表現活動で 厳禁した 三十項目の 第一の 禁止事項は、 占領軍総司令部(マッカーサー)の批判、 第二が 東京裁判の批判、 第3が新憲法、 第4が 検閲制度への言及…等々、 三十項目である。この内、東京裁判の批判は第二位の禁止事項なのである。パール博士の全員無罪の判決文は、東京裁判批判の最大最高の、しかも権威ある法理論による批判である。占領下にこんなものを出版したら、それこそ首がいくっあっても足りない程の処罰を受けるのは当然で、鶴見先生はすでにこれを承知していたのである。そこで日本が独立を回復する日、すなわち昭和二十七年四月二十八日を期した。それまでは内密に印刷し、製本し二十八日に全国一斉に書店で発売した。これが太平洋出版社発行の『パール博士述・真理の裁き・日本無罪論』である。この本の新刊紹介は各新聞に取りあげられ、大変な反響を呼び、ベストセラーズになった。パール博士の名が広く日本人に知れ渡ったのは、この著述によってである。この出版を一番喜んで下さったのは、私の恩師である平凡社社長下中弥三郎先生である。先生は自ら主催して出版記念会を開いて下さった。その席上先生は、パール博士を日本に招聘(しょうへい)し各大学や全国各地で講演していただき、『パール博士の日本無罪論』を普及しようではないかと提案された。その年(二十七年)の十一月、原爆の地広島で「世界連邦アジア会議」が開催される事になっていたが、そのゲストとして、アジア会議の実行委員長であった下中先生が私費をもって博士をお招きする事になったのである。先生は博士の歓迎委員会も組織され、その代表者にもなられた。博士は十月二十六日に来日された。東京では法政、明治、早稲田、日大など各大学のほか日比谷公会堂でも講演された。さらに京都、大阪、神戸で講演されて広島の『世界連邦アジア会議』に臨まれた。さらに博士は福岡で頭山満翁の墓に詣でられ、九大でも講演された。帰京後も中村屋のビハリ・ボースさんの墓や、熱海の興亜観音にも参詣(さんけい)された。…この一ヶ月余りにわたる全国遊説に下中先生、中谷武世先生、そして私と通訳のÅ・M・ナイル君の四人が終始同行した。パール博士と下中先生はこの一ヶ月余りの旅行ですっかり意気投合された。年齢も近く(下中が八歳年長)、二人とも幼少にして父を喪い、母の手一つで、極貧の中にあって刻苦し、独学で勉学した経歴を持つ。しかも大アジア主義、世界連邦による恒久平和の確立といった思想・信条の共通から、義兄弟の契りを結ぶにいたったのである。ついでながら東京裁判の評価について触れておきたい。マッカーサー 創るところの 「極東国際軍事裁判所条例(チャーター)」に基づき、 いわゆるA級戦犯 28人が 起訴されたのは 昭和21年4月29日(昭和天皇の誕生日)であつた。 全ての 審理が 終了したのが 昭和23年4月16日。 以後判決の為 七ヶ月の 休憩に入り、 判決は 同年(昭和23年)11月4日から始まった。 判決文の 朗読が終わり、 最後の「刑の宣告」が 行われたのが 11月12日であつた。 東條元首相以下7人(東條英機、土肥原賢二、廣田弘毅、板垣征四郎、木村兵太郎、松井石根、武藤章)が 処刑されたのは 12月23日(今上天皇の誕生日)であった。 つまり 東京裁判は 昭和天皇の 誕生日に 起訴し、 当時皇太子殿下であられた 今上天皇の 誕生日を 期して 処断したのである。 この一事を もってしても、 いかに 執念深い 復讐のための 裁判だったかが わかろう。 だが、東京裁判が 終わって 2年後の 昭和25年10月15日、 マッカーサーは ハワイと 日本の 間にある ウェ-キ島において トルーマン大統領に 「東京裁判は 誤りであった」 旨を 告白して、 すでに この 裁判の 失敗を 認めている。 その翌年(昭和26年)の5月3日、アメリカ上院の 軍事外交合同委員会の 聴聞会で 「日本が 第二次大戦に 赴(おもむ)いた目的は、 その殆どが 安全保障の 為であった」と、東京裁判で 裁いた 日本の 侵略戦争論を 全面的に 否定しているのである。 後に、 「この裁判の 原告は 文明で ある」 と 大見得を 切った キーナン主席検事も、 あの 傲慢な ウェッブ裁判長も、 この裁判は 法に 準拠しない 間違った 裁判で あった事を 認める 発言を している。 現在名ある 世界の 国際法学者で、 東京裁判を まともに 認める 学者など 一人もいない。 パール判事の 立論こそが 正論であるとし、 パールの 名声は 国際的に たかまった。 1953年(昭和28年)、 パール博士は ジュネーブにある 国際司法委員会の 議長の 要職に 推挙された。 1960年(昭和35年)には インド最高の 栄誉賞である PADHMA‐RRI勲章を 授与された。同時に インド国際法学会の 会長に 就任され、後(のち)世界連邦カルカッタ協会長にも 就任した。 1967年(昭和42年)1月10日カルカッタの 自邸に おいて 多彩な 生涯を 終えられた。 死の前年、すなわち 昭和41年(1966年)10月、パール博士は 清瀬一郎、岸信介両氏の 招きに 応じて 4たび 来日され、天皇陛下から 勲一等瑞宝章の 受賞の 栄誉に 浴されたのである。  パール博士の二度目の来日は 東京裁判からちょうど4年後(昭和27年1952年)の事である。博士は東京裁判の期間,帝国ホテルの一室に閉じこもったまま、他の判事や検事が休日ごとにドライブやパーティを楽しんでいる時、博士は自宅からあるいは弟子や知友に依頼して参考文献を取り寄せ、もっぱら読書と思索にふけられた。その読書は三千巻にも及んだといわれる。下中先生は私や伊藤千春、大山量士、金子智一氏などを集めて、パール博士歓迎委員会の結成と必要な手配を命じた。そして私をともない、財界を回り、さらに各大学や弁護士会を回って講演会、その他の打ち合わせをされた。「パール博士歓迎委員会」のメンバーは、日印協会会長一万田尚登氏(日銀総裁)を筆頭に、財界では藤山愛一郎,永野重雄、石川一郎、高橋龍太郎、鮎川義介氏ら…。政界では尾崎行雄、岸信介、高崎達之助、安井誠一郎氏ら…法曹界では東京裁判で活躍した鵜沢総明、清瀬一郎、林逸郎、菅原裕、三文字正平、伊藤清氏ら…。学者・文筆家では田中耕太郎、鶴見祐輔、神川彦松、前田多門、賀川豊彦、小野清一郎、中谷武世氏ら…。ともかく錚々たる当代一流の四十八人からなる委員会が結成された。私はその事務局長を仰せつかった。博士は十月二十六日、パンナム機で来日され、十一月二十八日に離日された。この間、下中、中谷両先生と私と通訳のA・M・ナイル君(京大出身)は博士の全日程に行を共にした。この一ヶ月余にわたる滞日中の博士の言動は、私の生涯忘れ得ぬ尊い記録である。そのトピックスのいくつかをご紹介したい。羽田空港に降り立った博士は、出迎えの一人一人と握手して、待ち構えた記者団の会見室に臨んだ。博士は開口一番こう言われた。「この度の極東国際軍事裁判の最大の犠牲は《法の真理》である。我々はこの《法の真理》を奪い返さねばならぬ。これが上陸第一歩、博士の唇をついて出た言葉であった。「たとえばいま朝鮮戦線で細菌戦がやかましい問題となり、中国はこれを提訴している。しかし東京裁判において法の真理を躊躇してしまったために《中立裁判》は開けず、国際法違反であるこの細菌戦ひとつ裁く事さえ出来ないではないか。捕虜送還問題しかり、戦犯釈放問題しかりである。幾十万人の人権と生命にかかわる重大問題が、国際法の正義と真理にのっとって裁く事が出来ないとはどうした事か。「戦争が犯罪であるというなら、いま朝鮮で戦っている将軍はじめ、トルーマン、スターリン、李承晩、金日成、毛沢東にいたるまで、戦争犯罪人として裁くべきである。戦争が犯罪でないというなら、何故日本とドイツの指導者のみを裁いたのか。勝ったのがゆえに正義で、負けたがゆえに罪悪であるというなら、もはやそこには正義も法律も真理もない。力による暴力の優劣だけがすべてを決定する社会に信頼も平和もあろう筈がない。我々は何よりもまず、この失われた《法の真理》を奪い返さねばならぬ。」 博士はさらに言葉を改めて、「今後も世界に戦争は絶える事はないであろう。しかして、そのたびに国際法は幣履(へいり)のごとく破られるであろう。だが、爾今(なんじいま)、国際軍事裁判は開かれる事なく、世界は国際的無法社会に突入する。その責任はニュルンベルクと東京で開いた連合国の国際法を無視した復讐裁判の結果である事を我々は忘れてはならない。」と、語調を強めて語られた。それから今まで約半世紀、米国のベトナム戦争、アフガニスタンへのソ連の侵略戦争、四回にわたるイスラエルによるアラブ侵略戦争、イラン・イラク戦争、さきの湾岸戦争等々、世界に戦争は絶えない。