一箪の食、一瓢の飲

歴史(とくに世界史)に関する雑談がメイン・・・のはずですが、最近は読書感想文になっています

zhangtan文庫更新情報:塩野七生『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』上

2013年12月29日 | 
『ローマ人の物語』や『ローマ亡き後の地中海世界』(これについては以前感想を書いています)を世に出した塩野七生先生が満を持して完成させた本です。それも私の大好きな歴史上の人物で3本の指に入る人物・神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(プロイセンのフリードリヒ2世(大王)と混同しないよう!)の生涯を描いたものだから面白くないはずがありません。また体裁は小説ではなく伝記的な書き方をしているので読み応えは十分であり、かつ歴史研究書ではないため史実の検証にとらわれることなく生き生きと描かれています。本書は上下に分かれており、上巻はフリードリヒの誕生からシチリア王、神聖ローマ皇帝に即位し、第6回十字軍(いわゆる無血十字軍)を教皇と対立しながら乗り切ったこと、そして北イタリアのコムーネ(自治都市)によるロンバルディア同盟を破ったところまでが扱われています。
それにしても12世紀後半〜13世紀のヨーロッパは豪華ですね。12世紀後半は教皇インノケンティウス3世、イギリス王リチャード1世(獅子心王(ライオンハート))、フランス王フィリップ2世(尊厳王(オーギュスト))、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(赤髭王(バルバロッサ))、そして13世紀のフランス王ルイ9世(聖王)、そして主人公のフリードリヒ2世etc
確かに当時のヨーロッパは暗黒の中世を抜け出ようとする右肩上がりの時代だったかもしれませんが、イスラーム圏や東アジアとは繁栄の度合いが違うユーラシアの辺境だったかもしれません。しかしこれだけの個性豊かな人物たちがぶつかり合った時代は、歴史家でなくても興味をそそられるでしょう
さて、本書は歴史の研究書ではなく文芸書であるため、あまり概略を書くとネタバレをしてしまう恐れがあるので、勉強になったところ、気になったところを備忘録がわりに書きとどめておきたいと思います。

中世の間中ヨーロッパを、まるで余震の絶えない地震でもあるかのように震駭しつづけていた法王派(グェルフィ ※高校世界史ではゲルフ)と皇帝派(ギベリン)の抗争だが、その実体は、宗教上の考えのちがいでもなく、統治面での考え方のちがいでもなかった。ドイツの「法王派」とは、コンラッド、その甥で赤ひげと呼ばれたフリードリヒ1世、赤ひげ皇帝の息子のハインリッヒとつづいてきたホーエンシュタウヘン一門への反撥だけで終結したような諸侯で成っており、彼らが「法王派」の旗をかかげたのは、ホーエンシュツヘン家出身の皇帝たちのイタリアへの野心に危機感をつのらせていたローマ法王庁と、この一事に関してならば利害が一致したからにすぎない。(24〜25頁)

良きキリスト教徒になる道を説くことだけに熱心な聖職者や自分の学説のみに執着する傾向のある高名な教師陣に囲まれて育てられなかったことが、また一般の人々から隔離された環境で大切に育てられなかったことが、フリードリッヒにとっては幸いをもたらすことになる。(28頁)

(フリードリッヒ2世について)800年後に彼とは同じドイツ人の学者の評した、「ドイツ人の君主の中では唯一と言ってよい創造的天才」(33頁)

13世紀初めのこの時代、文章が書けて法律にも精通している人々の供給先は、イタリアの中部から南部に集中していた。なぜなら、ある意味では専制君主国家であった法王庁という、需要先が常にあったからである。中部イタリアのボローニャに最初の大学が創設されたのも、単に神学を極めるためだけではなかった。ローマにある法王庁に、組織化されているからには必要な、“法王庁官僚”の供給先でもあったのだ。(89頁)

シチリアを支配したアラブ人は、イスラム教徒である彼らにとっては異教徒であるにかかわらず、ギリシア人やラテン人の居住継続を認める。ただし、これら被支配者は、「ジズヤ」(jizya)と呼ばれる人頭税が課された。言葉上では、イスラム社会で暮らすキリスト教徒の保護のため、となるが、ほんとうのところは、異教徒であっても居住を耐えてやる代わりに払う税金、である。これがイスラム教徒が自画自賛する「イスラムの寛容」の実態だが、この程度の寛容すらも拒否していたのが同時代のキリスト教世界であった。(100〜101頁)
※イスラームがキリスト教徒やユダヤ教徒に対してジズヤの支払いの代わりに支配圏での居住を認めるという史実は、世界史教員にとっては「(イスラームが狂信的で頑迷な宗教という)生徒の誤解を解く格好の材料」ではありますが、塩野先生はこれを「この程度の寛容」と切り捨てます。逆に新鮮な見方ですね。

28歳になっていた皇帝は、ルチェラに移住させたこれらサラセン人(ヨーロッパ人の言うイスラーム教徒)に対して、完璧な新興の自由を認めたのである。ルチェラには数多くのモスクが建てられるようになり、そのモスクの尖塔からは一日に5度、祈りのときを告げるモアヅィンが響きわたるようになった。キリスト教世界の俗界の最高位者の王宮のある町から、わずか18キロしか離れていないところで、法王領内最大の修道院でもあったもんて・カッシーノの大修道院からは、100キロしか離れていないところで。(104頁)

ヨーロッパ最古の大学として知られるボローニャ大学の設立は、1088年。学を修めたい若者たちが集まって組合を作り、教授たちを招聘し、その教授たちには学生組合が授業料を払う、という形で始まった。つまり、大学があって学生組合ができたのではなく、学生組合のほうが先にできて、それが大学になったのである。(111頁)

神学や教会法が主要課目を占めていた他の大学とちがって、それも教科には入っていたにしろナポリ大学では、ローマ法が主要課目になる。また、哲学も論理学も修辞学も教える。その中でもとくに、アラブ人の研究によってフリードリッヒ自らが学んだ、アリストテレスの哲学は重視された。古代には教養全般という意味で重要視されていたアルテス・リベラーレス(リベラル・アーツ)をすべて教えるのが、ナポリ大学を設立したフリードリッヒの考えであった。
わざわざ自分で大学まで作ってしまったフリードリッヒの意図は、教授陣を俗界の学者で固めるというやり方によってキリスト教のフィルターを排除し、そのうえで課目のすべてを教えることにあったのだ。そして、それをどう活かすかは学ぶ側の自由。実際、ナポリ大学で学び卒業後もしばらくはナポリで教えたトマソ・ダクィーノ、ラテン語読みならばトマス・アクィナスは、「中世神学の祖」になるのである。(113頁)

ローマ法王側の考えでは、聖地パレスティーナと聖都イェルサレムは、キリスト教徒が血を流すことによって、「解放」されねばならなかったのである。だからこそ、それに参加した者には全員、完全免罪という、中世の信心深いキリスト教徒にとっては何よりも嬉しい報酬が約束されていたのであった。(185頁)

ヨーロッパでは、ドメニコ宗派の修道僧たちを、「神の忠実な犬」と呼んでいた。(228頁)

フランチェスコが実行した「革命」とは、「働く人」たちからこれまで彼らが持っていた劣等意識を取り払ってやったことである。彼は言う。わたしたちは、修道僧になる道を選んだ。だから、一生を不幸な人々の救済に捧げる。このわたしに賛同してくれる同志たちも、わたしと同じ人生を送ることになるだろう。だが、修道僧ばかりになったのでは、社会は存続していけない。それに、われわれが行う慈善事業にもカネはいる。だから、わたしの考えには同意でも修道僧になるのには抵抗感があると思っている人たちは、堂々と俗人の生活をつづけてよいのだ。この人々を、「第三階級(テルツァ・オルディネ)」と名づけよう。世の中には貧しく不幸な人々がいるということを常に忘れず、その人々の救済のためには精神的にも物質的にも援助を惜しまないが、常日頃は利潤の追求を目指した工業や商業に専念する生活を送る人々をまとめた組織、とでもいう意味だ。そして、得た利潤の一部をわれわれの修道僧に寄附してくれれば信者の義務も果せる。(中略)
このフランチェスコの教えが、またたくまに北伊と中伊のコムーネに広まったということでは、歴史研究者たちも一致してる。心臆することなく金もうけに専念してよいのだ、と言われて、イタリアの「働く人」たちは安堵しただけでなく、勇気づいたにちがいない。資本主義は16世紀のプロテスタンティズムから始まった、とするマックス・ウェーバーを待たなくても、資本主義は13世紀の聖フランチェスコから始まった、と言いたいくらいである。(278頁)
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