箔屋町だより

-ギャラリーこちゅうきょオフィシャルブログ-

忘れ得ぬひとー5

2017年06月30日 | ブログ

今日は「夏越の大祓」、わが陋屋に近い七社神社様には立派な茅の輪が設けられ、17:00より神事が執行されます。残念ながら、仕事中ゆえに参加出来ませんので、先日、フライングながら、家内と一緒に粛々と潜らせていただき、半年の穢れを自己流で祓わせていただきました。

今年前半は、実父もそうですが、訃報に種々接することが少なくなく、無常はもとより、深い感慨に浸る時間が目立ちました。

去る4月1日、畏敬します林屋晴三先生が逝去されて、同先生と出会って今に至るまでの無数の思い出=忘れ得ぬ出来事に思いを馳せるものです。

林屋先生は1928年生まれ、享年90歳(数え年)のご生涯は、私が知る範囲でも相当アクティブでして、お付き合いの幅も深さも、常人の数倍はあったかと恐察するものです。今日手許に届いた日本陶磁協会機関紙「陶説」7月号(通巻772号)では追悼特集を組まれ、由縁の深い5氏が同先生を偲ぶ玉稿を寄せらています。早速眼を通しますと、私も知る同先生の面影と、未知のお姿・言動が手に取るように活写されていますので、改めて故人の肉声に接する気がしてなりません。

私は1990年4月1日付で壺中居と当ギャラリーに奉職しました。入社したその週末だったかと振り返るのですが、午後早々に林屋先生がご来駕されて、当時の笹津悦也社長が応対しました。応接間にお通して早々に呼ばれましたが、「ああ、きみ、ご足労だけど〇〇(煙草のブランド)をひとつ、買ってきてくれませんかねー!」と命じられて、ソレッとお使いに参り、ご注文通りに調達して同先生に手交しました。

このとき、いまだに忘れ得ぬ先生のお一言が、耳の底=脳裏にこびりついて離れません。笹津社長が、「kiyoと申しまして、新入社員です。どうか、お見知りおきをお願いいたします。」と私を紹介しますと、先生は一瞬目をピカーッと光らせて、やがて例のニコニコ顔に戻り、「ああ、そう…、健闘を祈りますよ。それでも、いますぐここを辞めて、僕のかばん持ちになったほうがヨリ良いよ!どうだい?」とおっしゃられるのです!

私も笹津社長も一瞬呆然となりましたが、笹津さんが、「先生、それだけは勘弁してください、ウチで育てますから!」と返事されて、先生も社長も呵々大笑してお開きになったのでした。

お帰り際に、「とにかく、眼力と胆力を養って、いつか僕をアッと唸らせる仕事をしてみなさいよ!」と莞爾(にっこり)と微笑まれ、手をさし伸ばされて、「大名物」の熱い握手を私に求められたのでした。いまから27年前の昔語りです。

幸か不幸か、私は爾来ズッといまの職場に居るのですが、もしも林屋先生の「ご厚意=お言葉」に甘えて、先生の秘書のようになったならば、果たしてどうなっていただろうかと、苦笑交じりに想像を逞しくすることがたびたびです。

晩年に至るまで、同先生のご謦咳に接する好機に恵まれたこと、人後に落ちぬと信じますが、それはそれは厳しくも、やさしさ=慈愛に満ちたお言葉を沢山頂戴しまして、いまの自分の立脚点の重要部分として消化=昇華しています。

滅多にひとを褒めぬ先生から、たった一度だけ過分のお褒めを頂きました。

それが、2008年に企画実施した『-モノクローム- 秋山陽+北村純子』展で、先生から、「お前さんにしては上出来だ。これからもどんどん工夫してやりたまえ!」とお声を掛けられ、例の「熱くて勁(つよ)い」握手をしてくださいました。

林屋晴三先生の立派さ、偉大さを理解される向きは、私の想像以上だと容易に理解できます。今後も同先生が残された有形無形の偉業が、漸次明らかになってゆくものと蔭ながら期待しております。

私も、苦言を呈されたときのこと、叱られたこと、発破をかけられたこと、そして入社時に頂戴した「天使の声」を思い起こし、かみ砕いて、天国に召された先生を唸らせる仕事を実現すべく、これからも精進したく存じます。(by kiyo)

 

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