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豊洲の始まりは関東大震災の瓦礫処理場、近年は東京ガス工場跡/少数派

2016年11月07日 | マイ学習レポート
Nminoritytp 少数派シリーズ/マイ学習レポート
豊洲新市場の危険性 (移転すべきではない) 2
豊洲の始まりは関東大震災の瓦礫処理場、近年は東京ガス工場跡

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■豊洲一帯は東京ガスを始め高度経済成長を担った一大重化学工業地帯だった
豊洲新市場は言うまでもなく様々な有害物質発生の恐れ、「食の安全」を確保するための盛り土がなされてなかったなど、都の怠慢・無責任さが批判されています。それらの問題を早く説明したいのですが、前号の築地の変遷と同様に「豊洲」の成り立ちからお伝えして参ります。ご覧になれば、“そもそも論”としてなぜ水産物・食品を扱う大事な場所に、この地を選定したのか極めて憤りを感じざるを得ません。さて豊洲は、元々が1923(T12)年の関東大震災の瓦礫を処理するために、埋め立てられた土地です。近辺の五輪会場予定地の有明を始め、東雲(しののめ)も埋め立てが進みました。豊洲の成り立ちからして、当時は木造の瓦礫が多かったにせよ化学製品も混じり、元来、有害物質が含有する土地だったのです。

戦後の1948(S23)年に本格的な埋め立て工事が始められ、その後、豊洲石炭埠頭として使われました。当時は、「石炭」が重要なエネルギーだったのです。当時のガスは、石炭を燻して作りました。その関係もあって、1956(S31)年には東京ガスがガス製造工場として進出、さらなる埋め立てがなされ豊洲ガス埠頭に生まれ変わりました。近隣には東京電力の火力発電所も稼動しており、今で言う臨海部(東京ベイエリア)一帯は、公害を伴いながら戦後復興や高度経済成長を担った一大重化学工業地帯だったのです。今でも石炭埠頭の面影が残る港湾近くの建築物、石炭を運んだ貨物列車の線路跡も見受けられます。私は豊洲と同じ江東区在住ですが、豊洲とはだいぶ離れています。それでも当時は街中至る所に高い煙突が立ち、子供の頃は煙突からもうもうと吹き出す煤煙で、1日中青空が見えない日が多々ありました。

■有害物質は今後も揮発や毛細管現象によって地上や建物に充満する
主力エネルギーは、その後、石油・天然ガス・原子力に置き換えられ、豊洲の東京ガス製造工場は、1988(S63)年に役目を終え操業を停止します。従って豊洲市場の水産卸売場棟・水産仲卸売場棟・青果棟の下は、元はガス発生装置と燃焼炉、石炭やコークス置場です。現在、盛り土がされていない事実が論じられていますが、2011年の東日本大震災後、豊洲のこの場所100箇所以上で、「液状化現象」が起こりました。例え完全な盛り土をしたとしても、長い年月と繰り返す地震を経て、揮発や毛細管現象によって有害物質が地上や建物に充満する恐れがあります。一連の説明のように、後号で誰がこんな場所に強引に移転させようとしたかをお伝えします。

どうせ跡付けでしょうが、「豊洲」は、将来、豊かな洲になるよう名付けられたと聞きます。近くにある「夢の島」という地名と同様に、近代になるまで「地名がなかった」ことを指します。両所の土地を掘り返したら、何が出るか分かりません(夢の島は都内のゴミを埋め立てた)。同じ豊洲でも、北西エリアは超高層ビルの林立・ららぽーとやその他「トヨススポット」として人気ある場所に変わりました。新市場予定地はここから離れた、言わば南西に伸びる巨大な人工島です。両者は同じ豊洲でも、全く趣が違います。余談ですが、店舗数1.9万店を誇るセブンイレブンの第1号店が、現在も豊洲に健在です。1974(S49)年、酒屋から転じた店で、最初に売れた商品はサングラスだったそうです。初期のコンビニは、雑貨と加工された食品を扱う“よろず屋”的な位置付けでした。

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