とりさんの社会人生活日記

日々の雑感や趣味の歴史についてつらつらと書き並べるブログ

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ボーナストラック?

2007-03-08 21:58:28 | 雑感


そして時の最果てへ・・・

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最終回だよ!

2007-03-07 21:37:20 | 雑感
 ババンババンバンバン

ハァ~ビバノンノ 

ババンババンバンバン 

 ハァ~ビバビバ

 最終回が文章で書けないから顔芸でオチか?プギャー

だってしょうがないじゃないか・・・ 

 こんな終わり方で許されると思ってんのか!?

うるへー、最後ぐらい好きにやらせろヴォケ 

てなわけで、「とりさんの社会人生活日記」、最終回です!

ああ、終わった終わった 
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白髪 その二

2007-03-06 22:12:29 | 雑感
1ヶ月前、ふとしたことから「このブログの最終回はどんな文章を書けるのだろうか?」ということを考えました。


・・
・・・

何も思い浮かばない。

「前の最終回」は何を書いたんだろうか?そう思って2006年3月の記事を読み返して見ますと、あくまでも自分の中で、ですけど、全体的にマシな文章を書いてました。

昔の記事を読んでたりすると、未熟が目に付いていやになります。エゴが前面に出ているといいましょうか・・・。

それでも、2006年3月はまだマシな文章でした。

原因は何か?イロイロ考えた結果、修士の研究が終わって考える時間が長くなったこと、および「3月で終わる」と期限を自らに設定していたことが思い当たりました。

時間をとるのは無理だが、期限を設ければそれなりに納得できる文章が書けるようになるんだろうか?―そう思って1月前に「後1月でブログをやめます」という宣言をしました。(ついでに卒業式シーズンと重なるという理由もありますけど)

さて、それなりの最終回が書けるようになったか?

・・・書けない。

最近の記事は事物の表面的な解析ばかりで、学生時代のように自分の内面と向き合ったような文章が書けない。体調不良が精神面にまで影響しているのか、会社に入って人間として乾いてしまったのか、あるいはその両方か・・・。

とにかく「これ」とか前回の最終回のようなものは、現在のワタシでは書けません。

1年前の3月、白髪が生えたという記事を書きました。そこでワタシは自分の白髪に、未来へ歩みを進める自分自身の足音と、死へと続く死神の靴音を同時に聞いていました。

今、鏡の中のワタシにも白髪が生えているのに気が付きました。

ワタシにも意味がわかりませんが、死神が鏡に映り込んでいるようでしたよ。

頭から白くなった毛を抜き、自分の足元から伸びる暗く、濃い影をじっと見つめました。

宇宙の果てよりも黒い影では、ワタシの白髪を染めることはできませんでした。
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セルフSM?

2007-03-06 22:09:30 | 雑感
最近体調が悪いです。

やはりあの時からか?会社の実験室に入るたびに頭痛・吐き気・目眩なんかを感じるです。

だからと言って、体調悪いなんて会社に言うと今の仕事からひきずりおろされちゃうからなぁ。とりあえず定年退職までは化学者であることを胸に決めたワタシとしては、化学の現場から引っぺがされることは「死ぬ」に等しいのである。
(。・ε・。)

ま、このブログの初期の頃に書いた「野菜生活」の時もそうだったんですが、「自分が蝕まれていく感覚を楽しむ」ことができる人間のようなんで。

多分、ほとんどの人に理解してもらえないでしょうけど、自分が壊れていく感覚、なかなか興味深いモンですよ。

ただ、精神まで蚕食されてる気がするのは癪に障りますし、ワタシをこれまで支えてくださった方々、特に両親に対しては親不孝してるな~、と思いますけど。
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歴史カテゴリーを振り返って

2007-03-05 22:19:53 | 歴史
誰がなんと言おうと、歴史カテゴリーの記事こそがこのブログのメインだ!

(全員無視)

歴史カテゴリーを振り返ってみますと、チンギス=ハーンとかアドルフ=ヒトラーなど最強・最悪の殺人鬼なんかも取り上げてきましたけど、紀貫之に始まってカントで終わった。

なんとまぁ平和的なことでしょうか!
゜+。:.゜ヽ(*´∀`)ノ゜.:。+゜
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永遠の平和のために

2007-03-05 21:07:05 | 歴史
マジメな記事を書くのは今回が最後。今回のタイトルは大上段に構えた「永遠の平和のために」にしました。


世界を変えたフランス革命が始まってから6年後の1795年、71歳になっていたドイツの哲学者イマヌエル=カントは「永遠の平和のために」という著作を世に問いました。戦争に明け暮れていた当時のヨーロッパで「永遠の平和」を説く事は、およそ現実離れした夢想のように思われていました。いや、現在の世界では、ますますそう思われているのではないでしょうか。

そんなわけで、カントは「永遠の平和のために」というタイトルを初めから「諷刺的な表題」とことわっています。ただし、その風刺が「人間そのものに対するものなのか、戦争に飽く事を知らぬ国家元首に向かってのものなのか、それともそんな甘い夢を見ている哲学者についてなのか」を読者の判断に委ねてますけど。

そのうえで、カントは自分の意見がけっして机上の空論でないことを証明するために、彼一流の厳密な論理で歴史的・現実的・具体的にその可能性を検討し、提言していきます。

「人間のありのままの姿というのは、平和ではなく、むしろ戦争状態である。」
カントはここから出発し、だからこそ人間はそのような自然の状態から脱して平和を求めるべきなのだ、と説きます。そして、人間をそう仕向けるのも、実は「自然の意図」に他ならない、と考えます。つまり、戦争とは自然が人間に下した鞭なのであり、それによって人間が平和を希求し、その現実へ向かって努力するように仕向ける「自然の摂理」だ、ということです。

では、人間はそのために何をなすべきなんでしょうか?

カントは具体的に9つの条項を挙げて論じています。その条項の中には現代につながる重要な指摘が含まれています。

例えば「いかなる国も他の独立国を奪ってはならない」「どんな国も他国の体制や統治に対して暴力で干渉すべきではない」「常備軍は段階的に全廃すべきである」、そして永遠の平和を確保するために「自由な諸国家の連合制度を設けるべきだ」といった提案です。諸国家の連合という提言は、後の国際連盟、現在の国際連合の実現を予見したものと言えましょう。

さらにカントは最終的に世界国家(世界の統一政府)を心に描いていましたが、それは強大な一国の支配によって普遍化―現代風に言うならグローバル化―を押し進めることではなく、あくまで多様な国家の自由な連合であるべきことを強調しています。そして、国家間の紛争解決に当たっては、絶対に戦争を手段としてはならない、と力説しました。これなどは日本の平和憲法を予告していると言っていいでしょう。

カントの死後200年。彼の平和論をよそに戦争は相変わらず続き、20世紀に至っては、2度にわたる世界大戦まで引き起こしました。その後も「冷戦」が緊張を高め、ようやくそれをくぐり抜けて迎えた21世紀は、またもや「戦争の世紀」になろうとしています。カントの提唱した諸国連合が実現したと思われた第一次世界大戦後の「国際連盟」は効なくして終わり、第二次大戦の反省から生まれた現在の「国際連合」も、いまや危機に瀕しています。

カントに代表される啓蒙的、理性的な平和理論は、「正義」を掲げて世界秩序の「保安官」を自任する超大国アメリカによって「古いヨーロッパ」と一蹴され、その圧倒的軍事力の前に、世界は同調するか、座視するか、妥協をはかりつつ異議を申し立てるか、一挙にテロという蛮行に走るか、「核兵器」という毒薬に手を出すか・・・他にほとんど為す術を見出せぬ始末です。カントの言う「自然の鞭」はますます厳しくなっているのではないでしょうか?

そうであれば、なおの事、ワレワレは「戦争」とは何か、「平和」とはいかなるものなのかを問い続ける「義務」があるでしょう。

21世紀の運命を切り開く新たな「意志」をもって。
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Wikipediaネタ

2007-03-04 18:11:59 | 雑感
同期のS君(巨人ファン)から、
「とりと言えばWikipedia」
という(アタマの)おかしなレッテルを貼られてしまいましたので、今回はWikipediaに関するネタを2つほど。


ウィキペディア頼み、誤答続々 米大学が試験で引用禁止(2007年02月23日アサヒ・コム)

 米バーモント州にある名門ミドルベリー大学の史学部が、オンラインで一定の利用者が書き込んだり修正したりできる百科事典「ウィキペディア」を学生がテストやリポートで引用することを認めない措置を1月に決めた。日本史の講義をもつ同大教授がテストでの共通の間違いをたどったところ、ウィキペディア(英語版)の「島原の乱」(1637~38)をめぐる記述にたどり着いたことが措置導入の一つのきっかけになった。
 日本史を教えるニール・ウオーターズ教授(61)は昨年12月の学期末テストで、二十数人のクラスで数人が島原の乱について「イエズス会が反乱勢力を支援した」と記述したことに気づいた。「イエズス会が九州でおおっぴらに活動できる状態になかった」と不思議に思って間違いのもとをたどったところ、ウィキペディアの「島原の乱」の項目に行き着いた。

英語版 Wikipedia の「島原の乱」の項に誤った記述があり、それを元に複数の学生がテストで回答しちゃったいうお話。ネット上にある情報は、テレビや新聞と同じく過信できめへん。
 あるあるwwwwww


もう一つ。

Wikipedia:珍項目

珍項目はウィキペディア上にある項目で百科事典としての体裁(正確性、簡潔な文章、中立性など)を保ちつつも、読み方によってはどことなく珍妙さやユーモアなどを感じさせる文章を備えたものをリストにした物です。


個人的には「DHMO」や「Fujiaire」、「折田先生像」、「コンダラ」、「シクロアワオドリン」、「ソニータイマー」、「竹内文書」、「マンガ物理学」などが好きでしたね。

その他にもこのブログ内で「サザエさん症候群」、「シュレディンガー音頭」、「ジョシュア・ノートン」などを紹介しましたねぇ・・・
(´・ω・`)ナツカシス

巨人ファンのS君には「メークドラマ
ブラックなU君(うめさん)には「又吉イエス
運動バカのT君(ぶっちー)には「エクストリーム・アイロン掛け
猫ぴ先生は気にされていたようですので「バールのようなもの

こんな記事を一生懸命書くヤツラ!ワタシはお前たちを愛しているぞ!!!

ついでなんでこっちも。

Wikipedia:削除された悪ふざけとナンセンス

ちょwwwwwおまwwwww
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最大幸福

2007-03-04 16:20:13 | 雑感
今回は「功利主義」と呼ばれる哲学的立場と「カルネアデスの板」について。

地中海のゴザ島というところで、下半身がつながった双子の女の子が生まれました。片方(ジョディー)は元気な女の子だが、もう片方(メアリー)はジョディーの肺と心臓の力で細々と生きていました。このまま放置すればやがて2人とも死んでしまうことが判明したため、医者は分離手術を両親に提案しました。しかし両親はクリスチャンであり、神の意志に従い、そのまま死んでゆくのに任せたいと主張しました。結局裁判で医者達が勝訴し、分離手術を経てジョディーは生き残り、メアリーは殺されました。

ワレワレはこういった場合、1人を殺して1人を生かすのが正しいか、2人とも見殺しにするのが正しいか、どう判断すればよいのでしょう?

さて、この事件で医師たちは「功利主義の立場を取った」と批判されました。

功利主義を平たく説明しますと、道徳的に決断を下すときには、常に幸福を最大にするのが正しい、という主張です。功利主義に従うと、2人とも死んでは誰も幸福にならないが、手術すれば少なくとも1人は助かる。ならば当然手術しよう、と明確に答が出ます。功利主義は正しいように思えます。

しかし、次の例では功利主義は間違っているように感じます。
末期ガン患者と心臓病患者がいます。末期ガン患者の心臓を心臓病患者に移植すれば、確実に1人は助かるとします。この場合2人とも死ぬに任せるのと、末期ガン患者を殺して心臓病患者を救うのと、どちらが正しいのでしょうか?

功利主義ではガン患者を殺して生きた心臓を取り出すのが正しいという答えになりますが、ワタシの直観ではガン患者を殺すのは間違っているように思えます。

殺人を善にしてしまうケースが発生する点で、功利主義は粗野であると言われています。「殺人は絶対悪である。以上!」というもの。功利主義が使えないとなると、やはりジョディーは見殺しにするべきなんでしょうか。

次の例を考えましょう。
ボートで水難事故の救助に行ったら、ボートの定員が残り1人しかないのに2人の人が溺れているのを発見しました。
ワレワレはこういった場合、1人を見殺しにして1人を救うのが正しいか、2人とも見殺しにするのが正しいか。

ワタシの直観では1人でも助けたほうがいいというジャッジになります。

ジョディーとメアリーのお話は、臓器移植の例よりも、水難救助の例に近い気がします。殺人は悪であるが、常に悪であるとは限らない。人は生まれながらにして他人から殺されないという権利を有していると思います。しかし、時にはその権利が侵害されても仕方がない場合が存在する。これは功利主義によらない、ワタシの直観が導き出した答えです。やはりメアリーを殺してでもジョディーを救うべきだと思いますよ。

ここまできて問題になるのは、溺れている人1人を見殺しにして1人を助けるのが受け入れられるのに、ガン患者を殺して心臓病患者を救うのは受け入れられない合理的な理由は何か?生命を救うために無辜の命を奪うことが正しい場合と正しくない場合が存在するならば、それを区別する根拠は何か?

人間はいまだ明確な回答を得られていません。しかし、明確なガイドラインがない限り、現在取りざたされている腎臓移植のような問題や、「戦争を早く終わらせるために原爆を使用した」という言い訳の正当性を正すことができないワケです。

ま、以上の議論はワタシの直観が正しいことを前提にしていますから。
(´σー`)ホジホジ
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前提を疑え!

2007-03-04 11:10:42 | 雑感
Aさん「冷温庫って不思議よね。冷蔵庫はわかるけど、その隣であっためるなんて」
とり「物燃やせばあったかくなるでしょ?じゃあ物冷やすほうが難しいんじゃないかなぁ・・・」

食堂で、ウドンをフォークで食べている人を見ました。
とり「あれ、なんで違和感を感じたんだろうか?」

Bさん「全ての物事には因果がある。ビッグバンで宇宙が開闢された原因は、神がいるからだ」
とり「じゃあ神が存在するようになった原因は何?」
Bさん「神は最初から存在していました。神は特別なのです」
とり「神を特別視するのなら、それより前に宇宙開闢を特別視してもいいんじゃないの?原因がなくても宇宙は開闢した、ってね」

とり「測定結果が変になりました」
Nさん「それ、装置の測定限界超えてるだけじゃないの?」
とり「あ゛」

Cさん「遺伝子操作はけしからん!」
とり「教育を通じて子供の知性や健康を向上させるのは賛成なのに、遺伝子工学を使って子供の知性や健康を向上させようと願うことは果たして間違ってることなの?」

Dさん「我々が善悪を決めてしまっては、道徳が恣意的なものになってしまう。道徳は個人の好みではない。だから神の定めた道徳に従うべきなんだ」
とり「じゃあ、Dさんが他の神様じゃなくてその神様を選んだ理由は?」
Dさん「自分の中の道徳と照らし合わせて、最もよく合致していたから」
とり「自分の中の道徳と照らし合わせて?なんだ、結局あなたの好みじゃないか」

Eさん「明日もまた日は昇るんだ」
とり「地球が誕生して46億年間朝日が昇ってるけど、明日が特別で太陽が昇らないことだってあるんじゃないの?」
Eさん「オマエ、本気でそんなこと信じてるのか?」
とり「これっぽっちも信じてないよ。だけど明日突然力学法則が変わっちゃう可能性を、どうやって否定する?『これまでそうだった』という帰納法は、『明日太陽が昇る』ことの根拠にはならないんだ。『明日太陽が昇る』と信じることは『明日太陽が昇らない』と信じることと同等に根拠がない」
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「普遍・一般」と「特殊・個」の相克

2007-03-03 16:44:19 | 歴史
もうすぐこのブログも終わりますので、歴史カテゴリーもまとめの方向に入ります。今回は「民族」というくくりについて考察を加えてみます。


「ガイジン」という言葉があります。これは日本人と、そうでない人を線引きする言葉です。英語でも「フォーリナー」とは「ガイジン」という意味ですし、「ストレンジャー」に至っては「奇人変人」という意味です。古代ギリシャでも「バルバロイ」=「マトモに言葉も喋られない奴ら」であり同時に「ガイジン」を指す単語でした。「バーバリアン(=野蛮人)」という英単語もバルバロイが由来です。

上の例に限らず、どの民族でも自分の流儀、自分の風俗を人間の正常なものと考え、他民族の特性を変則的なもの、不規則なものと考え、さらには劣っているものとさえ考える傾向があります。

ギリシャの大哲人・タレスもソクラテスも
「私は獣でなく人間に、女でなく男に、そしてバルバロイではなくギリシャ人に生まれたことを運命の女神に感謝する」
と言ったそうです。
聖書の中にも、ラビ、エライの子、イェフダの発言として
「人は毎日三つの感謝を唱えねばならない。神はほむべきかな、彼は私を女に創られなかった。神はほむべきかな、彼は私を無知なものとして創られなかった。神はほむべきかな、彼は私を異教徒として創られなかった。」
(女性蔑視発言も併せて、)高度に文化的だと言われる民族にも、この「優越感」は見られます。

こうした独善的な優越感に対して、ドイツの思想家・オスワルト=シュペングラーは「西洋の没落」という本の中でこんな指摘をしました。
「異なった人間には異なった真理がある。そして、それを認めることこそが、人間の理性であらねばならないのだ。」

しかし、皮肉なことに、人間の理性は他方で常に「一つの真理・絶対的な正当性」を主張しようとします。哲学で言えば「普遍・一般」と「特殊・個」の永遠の争いです。ワタシはここに人間の悲劇の根源があるように思えてなりません。

ギリシャはコスモポリタニズムを掲げ、ヘレニズムという形でギリシャ文化を普遍化しようとしました。ヨーロッパは西欧化というやり方でそれを模倣しました。そして今日では、グローバリゼーションの旗の下、超大国アメリカがその歴史を踏襲しようとしています。

しかし、どれほど強力な手段をもってしても「特殊」は圧殺されず、「個」は抵抗し続けます。むしろ、一つの文化の普遍化が進めば進むほど「特殊」な文化、「個性」的な文明は自己主張を強めていくことになるのです。世界史とは、まさしくそのドラマでした。そしてこれからも、そのドラマは続いていくことになるでしょう。

21世紀を歩み始めた現在、依然として地球上の様々な地域で起きている争いも、これではないでしょうか。すなわち民族の「叛乱」・・・。

アメリカの関わった戦争はもとより、アラブとイスラエルの抗争、クルド人の抵抗、インドとパキスタンの対決、スリランカにおけるタミル人とシンハリ人の紛争、トルコにおけるアルメニア人の独立活動、北アイルランドの闘争、スペイン政府とバスク人・カタロニア人との摩擦、ベルギーにおけるフラマン人とワロン人の反目、キプロス島におけるギリシャ人とトルコ人の対峙、エチオピアとソマリアの軋轢、西サハラにおけるモロッコとポリサリオ戦線の対立、ミャンマーにおけるシャン族など少数民族の独立運動・・・

例を挙げるだけで文字通り「画面が黒く埋まってしまう」ほどの、想像を絶する怨念、憎悪、呪詛、恐怖、敵愾心。

世界の紛争のほとんどが、民族の主張に由来します。端的に言うなら、それは「国家」と「民族」とのズレであり、すなわち国家権力の民族支配に起因しているようです。さらに別言すれば、ある民族が別の民族を統治・抑圧し、差別化するという人類史の古来からの構図がいよいよ顕在化してきたと言えましょう。

民族と国家の矛盾こそが、20世紀前半を血の色に塗りつぶした2度にわたる世界大戦の引き金となったのではなかったか。もし、この矛盾を放置し続けるなら、それが次の世界大戦の起爆剤にならないと、誰が保証することができるでしょうか。

この意味で、第一次大戦の教訓としてアメリカ大統領・ウィルソンが執拗に強調した「民族自決」の原則を再考する必要があると思います。そのために必要なことは、「バルバロイ」という不遜な観念の一掃であり、その延長線上にある「ガイジン」という素朴ながら偏狭な考えを改めることです。そして、個人と同様、いかなる民族にも同等の権利、自治の権利があるのだ、という確信を、威信や蔑視や恐怖に代えることです。

それなくして、人類は輝かしい21世紀を絶対に創り出す事はできない、とワタシは思うのでありますよ。

(´_ゝ`)フウ
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