『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

石ころと星、宇宙の誕生と死⑧

2017年07月08日 | 学ぶ

 立体授業「クワガタ探し」の頁、一部紹介しています。
ドンコの保護色
 休憩時間に学の『でっかい水槽』をのぞき込んでいたF君が、「アレッ、ドンコの色が変わった・・・」と呟きました。ちなみに、ふだんの水槽の微細な変化に気づくのもほとんど彼です。

 「『観察する』習慣が日常化しているので、集積された「データ」との比較(つまり、感じること・考えること)が「知らず知らずに」行われていくのです。もちろん、これらの成長は、本人の資質・小さい頃からの周囲のかかわり方の積み重ねにもよります。子どもたちの「脳の発達」つまり、頭の良さを決定するのは、こうした何気ない日々だ、と子どもたちとの日々を振り返りながら、ぼくは感じ考えています。
 一般的には、『勉強をして(するから)頭が良くなる』と思われがちですが、日々の何気なく「感じ、考える習慣」が「何気ないが故に」見逃され、忘れられ、それゆえ途方もない差になってしまう、ということに、ぼくたちはもっと着目すべきだと思います。

 たとえば、小さい頃からの日々の生活・生活習慣の中で、「蝉のこえ」や「蛙の水の音」や「白妙の衣」を、「そのときの気温や空気感とともに耳にし、目に留める日々がもたらす成長」と、「判別もつかない猥雑な音やがなり立てる音楽の中で日々を送るだけの生活」が、感じることや考える幅・奥行き・深さに、いかに大きなちがいをもたらしてしまうのか。「『自然に』考えてしまっている」ことが日々続いてゆくのです。
 いつも話している『環覚』は、こういう「考える」日々を用意することになります。「無意識のうちに積み重なる(!)こと」で、「テキストとノートと『講義(!)』だけの毎日」とは比較にならない「差」ができてしまうのであろう。
 気づかなければ、それは単純に「生まれつき」や、『あの子は頭が良い』だけで片付けられてしまうことがほとんどだと思います。「頭が良い」のではなく『頭を良くする習慣がきちんと身についている』のです。「『考える環境』がきちんとできあがっている、整っている」のです。

 日ごろから「感じ考える機会が多いこと」以上に、頭を良くする方法は他にありません。それこそ「脳のトレーニング」そのものです。「落ち着いて感じ考えることを続ける(けてしまう)」機会があるから、考えをまとめたり、整理することもできる。自然に生活の中でそれが行われていく、身についていく。こういう視点から考えると、ノートとテキストだけによる勉強は、頭をよくする方法のほんの一部分だとよくわかります。
 こうした視点は、ぼくが学習指導だけではなく、「立体授業や宿泊などによる子どもたちとの生活をそれぞれの子と何年も送ること」で、その成長をトータルに感じ、総合判断もできるからだと思います。
 ふつうは「生活の中で子どもを感じる」親と、「学習指導の中で子どもを見る」先生との『どちらも一面判断』ですが、ぼくの場合は総合する機会、日々が何年も続くわけです(団OB諸君との「付き合い」のリストをご覧ください)。それらがあることで、「生来の頭の良さ」と「指導の結果予測」との総合判断が可能になり、「京大へ行ける子が小学4年生でわかる(見込める)」というようなことができるのだと思います。

 「本来の資質の高さ」があれば(実は、ほとんどそんな子なのですが…環境が潰してしまう場合が多いと、ぼくは感じています)、家庭環境の条件(経済的側面より、お父さんやお母さんの指導に対する理解度・信頼性)が整っていれば・・・と、すべて「見えてくる」わけです。
でっかい水槽の役割
 さて、先日「蛍狩り」で、ぼくが眼鏡を山の中で落とし、F君がすばやく見つけてくれたことを話しました。学力の発達や成長に欠かせない「環覚」は、こうした、周囲の微細な変化や推移に気づく「目」・「気配」を感じる心の発現が、その定着具合のバロメーターになります。 

 今回の「ドンコの色のちがいに気づいたこと」がよい例ですが、そういう変化に気づいてこそ、「考えるきっかけ」や「新しい発想」が生まれます。「それらの継続」の行きつく先がすばらしい大学進学や「天職」・「一生をかけるべきおもしろい仕事の発見」につながっていくとぼくは思います。
 彼はそれからどうしたか?
  「保護色やろ」というぼくの一言で、水槽掃除用の菜箸(!)を使ってドンコの尻を突っつきながら、「水中ポンプの隅の陰」になっているところ、次に「砂の上」に移動させ、その体色の変化を観察するということを「自然に」始めます。
 おもしろいのです。知りたいのです。その結果で自らの判断の結論や解明を求めていくのでしょう。それも「遊び」の一環として

 ぼく自身が、団の教室のど真ん中にある、「学の住まい」のために設置したはずの「でっかい水槽」は、こうしたことにも大いに役立つのだ、と改めて気づきました。団の子どもたちの成長は、日々、こうした行動の振幅とともに進んでいきます。
 繰り返しになりますが、教科書とノートを使っての、いわゆる「学習」は、そんな「頭をよくする成長」の全体に比べたら、些細な一部分であることに、ぼくたちは日ごろからもっと目を向けなければならないのではないか、そんな気がします。今までもおつたえしている、OB諸君の明確に目的意識をもった行動と成長は、そんな中から生まれたことにまちがいありません。そこでY君のエピソードです。

OB生Y君の成長
 奈良の難関校NY学園にすすみ、現役で京大進学、院にすすみ、今「言語の発生」の研究目的で、単身一年間予定のベトナム留学をしている団OBがいます。高校時代の同級生の知人の息子さんから団の話を聞き、という関係で約15年前、小学校4年生のときに入団してくれました。
 彼は課外学習での行動も、日頃の宿題でも、裏表なく真摯な態度が印象的でした。「団の宿題は、以前もお話ししたように、受験学年になっても毎日一時間強ですむ」くらいの量で、日曜日の宿題はなく、完全休日(課外学習があるときは別ですが)です
 今までの実績をご覧いただいてもわかるように、ぼくの判断では、受験するにも必要で十分なボリュームです。しかし集中力は要求しなければいけないので、「やっつけ仕事(!)」ではなく、指示通りに遂行することがたいせつです(別にむずかしい方法を強制しているのではありません。きちんとやるということだけです)。

 それぞれの諸君の学力や志望校を見きわめながら、個別に課題を提案していきますが、Y君はその課題を的確に実行してくれました。ちなみに、Y君の家は両親で散髪屋さんを経営されていて、お母さんも決して『教育ママ』ではありません。小さいころにきちんと、しつけをされていた。そういうお母さんです。
 ところで、塾の宿題と言えば、「毎日寝る時間を削る」という話や、「宿題だけで一日3~4時間」とかいう話を聞くと、「宿題の量を指導の穴埋めやいいわけに使っているのではないか」という疑念が消えません。ぼくの指導経験から、そんな必要はまったく感じないからです。「下手な鉄砲」式の提案ではないのか。そんなにやる必要があるのか。そういう『無理矢理勉強』が大きな原因として、難関校からの大学受験「現役半数」、という状況を招いているのはまちがいないでしょう。

 さて、Y君は「光るもの」はありましたが、6年生のときの偏差値だけでいえば、いわゆる京大・東大への進学率を誇る難関校にすすむ予定の、天狗の面をかぶった子どもたちから見れば、「歯牙にもかけない(!)だろう」レベル(掲示)でした。
 それでは楽に現役合格できた、偏差値では測れない「光るもの。頭の良し悪し!」を何によって判断すればよいのか。「学習」指導の上でも、よく観察していれば確認できる判断基準がいくつかありますまず、関連をとらえられること、類推ができること。いわゆるセンスのよさです。系統立てて整理できること。ポイントを整理し同条件を考え、応用することができること

 これらの条件は、トレーニングによってもある程度鍛錬できますが、やはり、それは一定レベルまでです。周囲がきちんと判断できず、本人も周囲も「誤解したまま」、不確定な小学生時の偏差値でトップ校に進学すれば、悲惨な結果が待っています。
 ところが、一般的には、進学校やネームバリューばかりが目につき、偏差値一辺倒で「頭の良さ」まで判断が追い付かないことが多いのではないでしょうか(この点は、子どもたちのために、周囲は是非もう一度振り返るべきだと思います)。ごり押し・無理押しは、いずれにしろ、そのしわ寄せがどこかに現れます。
 さて、先の条件の芽生えが見られたら、後は「学体力」です。「わからないこと・知りたいこと・解答が見つからない答えを追い詰める力」=学体力です。「学体力」は躾や子育ての中で、家庭で身につけることも十分可能です。甘やかさなければ
 Y君には思い出がたくさんありますが、その「学体力」にまつわる話を。

 小学校五年の時、彼のもっている「算数のセンス」に気づいた僕は、宿題に「計算問題の特訓」(学研)を課しました。やはり5年生では難しく、できなくて悔しく、彼は考えながら机の下の畳をけり続けて脚から血が出てしまったということがありました。あきらめない力、挫折しない力です。
 その後も「特訓」をやり続け、トータル1時間強の宿題量で、彼はNY学園に進みました。「特訓」はNY学園受験の学力レベルから見れば、程遠いレベルに見えるかもしれませんが、「量から質への転化!」は指導力次第だと思います。
 そうそう・・・そうだった。京大に入学してすぐ、彼は一級下で同じOB教室で学んでいた後輩たちの受験のようすが気になり、「得意の数学で応援できないか」と後輩の自宅まで足を運び、学習補助をしていたやさしさがありました。

 彼は、その時、ぼくに「T(私立K大附属から神戸大工学部)とYO(私立N学園から阪大歯学部)では、今は、Tの方が、数学わかっていますね・・・」と冷静に分析できるほど、力がついていました。ちなみにI社の6年時の偏差値では、二人は算数も国語も10以上の差があったのです・・・。Y君は二人の解答を見比べ、ベテランの数学教師のような判断を下せるほど、数学力がついていたということです。
 さて、ついでに、Y君のエピソードをもう少し紹介しておきます。

 京大受験前、英文読解の「苦手」を打ち明けられ、ヘミングウェイを一緒に読むという、「ぼくが英語をもう一度勉強しようと思ったきっかけ」をもらい、彼のきっかけのおかげで「受験勉強ではかなわないままだった原書が一応読めるようになれたこと」。
 渓流教室の手伝いでは、後輩諸君にほんとうにやさしく接してくれたので、お礼を言うと何ともうれしそうに微笑み、ぼくもその心がわかり、お互いに目頭が熱くなったこと…。
 そして、理科系の方が断然いいのに、どういうわけか文学部に進学した理由。
 あとで、おぼろげながら記憶をたどってみると、高校3年のOB教室の英語のヘミングウェイの時だったか、確か「Yは理科系の科目の方が優れているけど、本来は文系の頭かもしれんな…」とつぶやいたことが、ひょっとして・・・。

 京大進学後、何を思ったのか、音楽にはそれほど興味がなかったはずなのに、「アカペラ」のクラブに入り、その発声や発音が「言語の発生」に興味をもつきっかけになったこと・・・。
 ベトナムから、まだ連絡はないのですが、しっかり自らのやりたいことに目を向け、努力を続けている姿に、ぼくはいつも教えられました。どこかY君を彷彿させる「ドンコのF君」をはじめとする諸君たちも、きっとたくましく後を追ってくれるでしょう。「無理矢理勉強」を知らない姿で…。

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