『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

うそじゃありません⑨

2016年10月01日 | 学ぶ

「考えられない」子ども(続)
 タイトルのテーマについては、以前二度ほど考えてみました。だから「続」編です。

 一回目は、小学校の宿題の「本読み」の弊害(面)に関して。上手に(間違えたり、つっかえたりせず)音読できる子が、必ずしも読解力がともなっているとは限らないこと。つまり、宿題などで、「上手に本を読むこと」を「奨励? 賞賛?」されるので、「読みなれていない子」は「意識」がその方に向かい、「内容把握が伴わないままの子」が少なからず存在すること。解決法としては、聞いているお父さんやお母さんが聴き取った後、「読んだ内容」に関して訊ねてみること。そうアドバイスしました。
 二回目は、「ひどい先生」の話でした。先生方、まさか同僚にはいないと思うのですが…。

 団に来ている子(5年生)に、かんたんな文章題の計算問題で、「割り算やかけ算の判断ができない子」がいました。「小学校での指導の有無」を尋ねてみると、びっくりするような答えが返ってきました。「どういうときにかけ算をして、どんな時に割り算をしなければいけないかを教えてもらえなかった? 」というぼくの問いに対して、「宿題の計ド」などで計算の仕方がわからないときに訊くと、満足に指導しないで、「ページのタイトルに『割り算』とあれば『割り算』をして、『掛け算』とあれば『掛け算』をしろといわれた」というものです(男の先生、新任ではありません。いい年です)。
 ちなみに、その子は「きちんと説明しても計算の種類がわからないほど知能が低かった」わけではありません。「基本的な計算技能の習熟」は社会人としての最低限の条件のひとつです。「そんなことも教えないで小学校を送り出す」では、「笑い話」ではすみません。
 ここ5~6年の間に、こういうことが稀とは言えなくなっています。以前はそういうことがほとんどありませんでした。つまり、そういう教育環境が地域に少しずつ浸潤しているということなのでしょう。ぼくのように「個人指導」ではない先生方のご苦労は並大抵ではないと思いますが、先生という職業に携わっている以上、どんなことがあっても決して崩してはいけない一面があると思います。

 ぼくたちは全員が「ひとりの人間を社会に送り出す責任」の一端を担っています。また、最近の都庁の諸問題を見るまでもなく、先生という職業は、ぼくたちが生きている社会(みんなが生きている、世話になり、世話をする社会)に、「みんなにできるだけ迷惑をかけない」、「自分だけではなくみんなが生きている」という意識をもてる人材を、どれだけ多く送り出せるか、という使命をもっているのではないでしょうか? 「みんなが望む、個を尊重できる社会」にするためには、『個をたいせつにできる社会を、能力で担え、心情で理解できる一人一人の個』がいなくては到底不可能」です。子どもを指導しているぼくたちは、それらの原点をもう一度見直すべきではないでしょうか?

停電になれば・・・
 さて、「考えられない(考えない)子」に対する新しい視点です。
 一時「指示待ち」という言葉がはやりましたが、今は『当たり前』になったのか、それほど問題視されなくなりました。そんなときには既に問題が根深くなってしまっているのが「世の常」です。ヒントをもらっても手をこまねき、「自ら考えるという姿勢が育ってこない」子が、ここ十年ぐらいで急速に増えてきています

 現在は食べ物や着るものさえ十分ではなかったぼくたちのころとちがい、経済的にも恵まれ、「少子化」という条件によって、「豊かな?!環境」が用意されるようになっています。多くの場合、自ら行動したり我慢しなくても、先回りして用意され準備がととのい、「自らで手を下す」必要がなくなっています。
 つまり、「考えられない」のは、「考える必要に迫られない」からです。何もないところから始める「遊び」のための「創意工夫の必要性」なんかもほとんどありません。たとえばゲーム機があれば用は足ります。「どこへ行って、何をとってきて、どう手を加えるか」等という、昔の子どもたちが自ら積極的に行動する必要に駆られたきっかけもありません。
 さらに、共働きのお母さんたちは、日ごろから時間に追われる関係上、子どもの対応や行動を待ちきれないで、先に手を出してしまう。その結果、「子どもは自ら率先して問題を解決することをおぼえない(覚えられない)、解決することができなくなる」という構図です。これらの習慣が、おおもとの「脳のはたらき」にまで大きな影響を及ぼしているような気がします。

 「問題に向かっていけない」、「問題を読んで中に入り込めない」。つまり、子どもたちに見られるそれらの姿勢の多発は、「自ら問題に向かうこと、そして自らの現在の能力を駆使したり、頭を使って工夫したりする必要がなくなった状況下にいる」ということが大きく影響しているのではないか
 これらの問題は、ふつう、生来の性格(たとえば消極性)に帰されることが多いと思いますが、日ごろの子どもたちとのやり取りや指導の中に、それらの原因を求めていくことの方が「より科学的なのではないか」とぼくは感じています。
 猛獣や野生動物たちとちがって、「生きていくのに必要になる力」も満足にもてないまま(無防備なまま)生まれてくる人間は、知力や行動力の発達面で、相当な可塑性や可能性が、進化の過程で用意されているであろうことは、他動物と比較した前頭葉や脳の大きさから判断しても明らかです

 さまざまな日々の行動の成功体験や失敗経験を重ねて、それら能力を身につけられるよう準備されているのではないかと想像しています。いつも推奨する自然体験や野外体験に限らず、もっと身近な例では「留守番」や日ごろの「お使い」・「お手伝い」など、さまざまな日常行動を繰り返すことによって、独り立ちできるバランスの良い、生きる力を身につけて育つというふうに考えることが自然ではないでしょうか。
 類人猿に始まる歴史を省みれば、ぼくたちは猛獣たちとちがって、そうした能力と創意工夫によって、食べるものや安全を確保してきました。そうして自らの進化の歴史を築いてきたわけですから。
 ところが、小さいころから今のようにボタンやスイッチ一つで用が足せたり、金さえ払えば「多くのもの」が苦も無く手に入ったり、自ら何をしなくても周りに手伝ってもらえたりして成長できる状況が続けば、自ら問題に向かい、それを解決しようとする努力の必要性を自覚できず積極的な姿勢をもつ能力の高い子が育つ可能性は、どんどん低くなります
 時代は、『代用をするしくみ』を次々生み出す「すこぶる高い能力をもつ一握り」と「停電になれば何もできないその他大勢のバカ」をつくるような方向に向かっていることだけはまちがいないでしょう。こういう「危惧」を子どもたちの教育や日ごろの指導の中に反映させなければならない時代が来ていると考えられます。

石ころとぼくたちは親せきかもしれない
 25日、雨天で一週延期した「石ころ」の課外学習に行ってきました。
 「みずから手を下す」必要がなくなっている環境が『指示待ち』や『手をこまねく』子どもたちをつくっていると反省しましたが、提唱している課外学習や自然体験は、子どもたちに全く逆の刺激を与えてくれます。野外活動では、「自ら手を下したり、工夫することがつきもの」だからです。
 風が吹き、雨が降り、雲が流れる自然環境のなか、高い気温と噴き出る汗を感じながら、子どもたちはたくさんのイメージを頭の中に蓄えていきます。それらが地下水のように脳裏深くしみとおり、やがて日々のテキストによる学習にも理解の深化や発想の広がりという大きなアドバンテージをもたらします

 また、課外活動ではハプニングがつきものです。たとえば、今回の「ガーネット探し」では白っぽい花崗岩を探し、それを割らなければいけません。金づちや子どもたちの力では、なかなか割れません。硬い大きな石を手に入れ、「割る石」の『枕』を探し、「ぶつけて割れるしくみ」を工夫・準備しなければなりません。砂鉄やガーネットのパンニングでは、川の流れの速さに注意し、盆を振るスピードを手加減しなければ望みは果たせません。

 指導する側に、こうした指導経験がなければ、野外活動・さまざまなハプニングで子どもたちが要求される「頭のはたらきの変化」にまで考察が届きません。自然体験や野外活動が、子どもたちの「環覚」を養い、工夫することによる頭のはたらきや学習や発想・連想に対するイメージ作りに大きく影響するという「子どもたちの成長のたいせつなしくみ」に、指導者はもっと目を留める必要があります。日常行動の一つ一つが子どもを賢く育てるために、役に立っているわけです。こうした活動が『指示待ち族』をなくし、「ひとりで手をこまねく姿勢」を克服できる大きな手掛かりにもなるとぼくは信じています。

海辺の家
 先週も「ブラス!」や「陽のあたる教室」などのよい映画を見ることができましたが、今週も素晴らしい作品に当たりました。まず「海辺の家」。
 夢を失い、人生に「行き暮れた」中年男が、とあるきっかけで人生でやり残したことを「残りの数か月」で「完遂」させようとします。「身につまされる」部分もあり、心を打たれました。

 ぼくたちは日ごろ寿命や「生命の限り」のことを真剣には考えません。しかし「誰もが避けきれないこと」だから、時に「真面目に向かい合う」ことで自らの人生を良い方向に変えられるきっかけになってくれるのではないか。一度は真剣に向き合い、だから「自分は何をしたいのか」、「何をしなければいけないのか」という「問い」は誰にとっても、いつでも必要なことではないでしょうか

 心がそれほど強くないぼくたちは、必要なことも、往々「怠け心」が先に立ち、「いつでもできる」「そのうちできる」と逃げを打ったり、後回しにしてしまうことが度々です。そして、「いつもあるもの」「いつまでもあるもの」は、たいせつにすることはできません。つまり、「たいせつなもののたいせつさ」がわかりません。年を重ねるほど「反省の念」が浮かびます。しかし、それは実は逆で、本来は、こうした自覚は「年をとった人」ではなく「若い人」こそ身につけておくべき感覚ではないでしょうか。それがこれから送る長い人生の豊かさにつながるからです。

 かつて、特に田舎では「身内の死を家で看取る」ということが珍しくありませんでした。ところが今は「核家族」、「病院で死を迎える」という場合が多く、人が次第に身体が弱り、「生命の火」が消えていくという、厳しい現実を眼にすることがあまりありません。寿命の限りや生命のたいせつさを「感得」する機会がなくなりつつあります。
 子どもたちが大好きな「カブトムシ」や「クワガタ」は貴重な捕獲の機会を逃したり、死んでしまっても、売っているので、いくらでも「代替」が利きます。たいせつにする必要は感じません。魚や鶏、生きたものを家庭で捌くという機会も少なくなり、「限りある生命」がどんどん見えにくくなってしまっています。

 先ほどの『指示待ち』や『手をこまねく』という問題でも、今「生きている」ということのたいせつさがわからなければ、「いつまでも待っていられる」し、「いつか誰かがやってくれる」ということになってしまいます。「時間がある(なくなることに気づかない)から、今やらなくてもいい」のです
 「海辺の家」のような映画は改めて、生命の限りや人生の大切さを考える機会や、親子で話し合うチャンスを用意してくれるでしょう。
 もう一つの傑作は、「縞模様のパジャマの少年」。ナチスによる悲劇を思いもよらぬ視点から描いた作品です。それによって悲惨さが際立ちます。「海辺の家」も「縞模様のパジャマの少年」も大きな賞や栄誉には恵まれていませんが素晴らしい作品です。

今週は他に「GATTACA」と「ザ・インターネット」を推薦しておきます。

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