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ずいずいずっころばし ・・・・・!!     № 5,364

2016-12-09 09:20:45 | 日々の出来事 その1

12/09       金曜日      アラーの神が頑張っている・・・。。。東京から発信です。

・・・・コントラストのイチョウの黄色の葉も少しづつ落ち葉に!! 
今のあなたに解るはずがないの・・・。サヨナラをするために・・・。どこかで誰かがぁぁぁキット待ってくれる・・・。。 
そんな・・・師走も・・。。三分の一・・過ぎてしまったぁ・・。

ずいずいずっころばし・・・・。
ごまみそずい

茶壺に追われて
とっぴんしゃん

抜けたら、どんどこしょ

俵のねずみが
米食ってちゅう、
ちゅうちゅうちゅう

おっとさんがよんでも、
おっかさんがよんでも、
行きっこなしよ

井戸のまわりで、
お茶碗欠いたのだぁれ

麻味噌を摩っていると、お茶壺道中が来ると言うので、家の中に入り戸をピシャリと閉めて(=トッピンシャン)やり過ごす。お茶壺道中とは新茶を将軍に献上する行列のことで、切捨御免の時代柄、庶民は粗相の無いように細心の注意を払っており、子どもたちは両親に呼ばれても決して外に出てはならないと教えられた。

そしてお茶壺道中が通り過ぎるとやっと一息つけたのである(=ぬけたらドンドコショ)。ところで家の中で息を潜めていると、米を齧っているネズミの鳴き声や、井戸の近くで茶碗が割れたような音まで聞こえてくる。


知らず知らずのうちに・・。こんばんわぁ・・。となりには・・・" かっぱ " 店長である。12/07 pm 20:00
オクラ・・胡麻和え &  枝豆子持ち昆布。。 ¥200-。野菜で攻める。







一方、国語学者などの中には、この歌に性的な意味が含まれていると解釈する場合もある。「茶壺」は女性の意味であり、男が女に追われて家に逃げ込み、戸をぴしゃんと閉める(「とっぴんしゃん」)、というふうにである。「ずいずいずっころばし」、「ごまみそずい」、「俵のねずみが米食ってちゅう」も同様に性的なものだとする説もある。

  

店長より・・白鳥を一羽プレゼン・・。 肴が・・ない・・!! ならば・・塩辛を。

ずいずいずっころばし ・・の、いちにちであった。

 

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吾輩は猫である ・・・・!!!      № 5,363

2016-12-09 08:46:23 | 日々の出来事 その1

12/09     金曜日     ・・・連日晴天!! 本日も晴天なりの・・・。東京から発信です。

漱石没して、今日で・・・百年である。 神経衰弱に苦しんでいたと聞く。・・それで " 吾輩は猫である " などを書き上げる。

今日の漱石「心の言葉」
顧みれば、細き糸の上を歩みて深い谷を渡ったようなものである(『日記』明治43年9月26日より)


 今から106 年前の今日、すなわち明治43年(1910)9月25日の朝、伊豆・修善寺の菊屋旅館内で病床についている43歳の漱石は、睡眠不足を感じていた。きのうの夜、観光で宿泊している一団が、夜通し騒がしかったため、よく眠れなかったのだ。

風呂にも、終夜、人が出入りする物音がしていたし、朝は朝でまだ暗いうちから顔を洗う音が聞こえてきていた。
午前11時頃、寝不足気味の漱石の枕頭に、友人の畔柳芥舟(くろやなぎ・かいしゅう)と門下生の岡田耕三(のちの林原耕三)のふたりが挨拶にきた。

「それでは、われわれは、そろそろ引き上げますから。先生、くれぐれもお大切に」
前日、東京から見舞いに駆けつけ1泊した両人は、これから一緒に帰京するというのだった。漱石は礼を言って、寝たままふたりを見送った。

お昼頃、門弟で朝日新聞社勤めの坂元雪鳥と長与胃腸病院副院長の杉本東造、それから友人たちの計らいで漱石の診療の応援にかけつけていた医学博士の宮本叔(はじめ)も、東京へ引き上げていった。
「あと2週間くらいすれば先生も東京へ帰れるでしょう。そう、20日ほどみておけば、まず間違いないでしょう」

宮本は、漱石を慰めるように、そんな言葉をいい残していた。確かに漱石は、床の上で読書をしたり句作をしたりできるほど、健康を回復していた。
昼飯には、鯛の刺身4切れ、ソーダビスケットに水を塗って塩をつけて焙ったものが出た。漱石は、どちらも「うまし」と思って噛みしめる。

午後1時頃には、朝日新聞の同僚の杉村楚人冠も帰京した。

人が出入りすると床についていても何かと慌ただしいのだが、自分のことをこれだけ大勢の人が心配して動いてくれているのかと思うと、自ずと感謝の気持ちがわいてくる。危篤状態にまで陥ったからこそ、噛みしめ直している感情であった。

この日、漱石が詠んだ句。

《古里に帰るは嬉し菊の頃》
《静なる病に秋の空晴れたり》

夕食時、病後はじめて起き直ってみて、漱石はまたひとつ、新鮮な感覚に打たれた。言葉にしてみれば、横に見る世界と縦に見る天地の異なる事を知る--そんな気分であった。

食事もおいしく、夜になっても自分ながら元気だと感じる。漱石は妻の鏡子から、自分が意識を失っていた最中の様子を、ようやく聞き出してみる気になった。

聞いてみて、漱石は驚いた。漱石は意識を失う前、一度血を吐いたことを自分でも覚えていた。ところが、気を失ったあとも、鏡子の肩につかまるようにしながら、さらに大量の血を吐いたという。30分ほども意識不明の状態が続き、その間、16本余りの注射をしたという話も聞いた。漱石は驚きつつ、あとで日記に書き留めた。

《余の見たる吐血はわずかに一部分なりしなり。なるほどそれでは危険な筈である。余は今日まであれほどの吐血で死ぬのは不思議と思うていた》 

12/07 一昨日 吾輩はトマト &  砂肝である。 御用達/阿波路 pm 20:30
砂肝の唐揚げ。。歯ごたえとレモンと塩が絶妙な・・・逸品を作りあげていた。
 

携帯が・・・壊れたため。・・・壊れかけていたため。au ショップに・・・pm 18:20 ~ pm 19:50
自分ご褒美は。。。手羽塩 & つくね塩 &  レバたれ2本 &  砂肝から揚げ &  トマトマチーズであった。
タイトな一日・・・Lunchi 抜きであった。
 

大正5年秋、4度目の胃病が生じた。 12月2日の午後、排便の際自ら腹圧を試みた瞬間、また急に倒れて昏睡状態に陥った。絶対安静をはかるも 12月9日午後 6時に危篤状態となり、不治の客になった。享年49。

翌日、東京帝大病理の長与又郎博士の執刀で病理解剖が行われ、胃潰瘍からの大量出血による失血死と判明した。

近年、豪州のマーシャルとウオーレンは胃炎や胃十二指腸潰瘍の成り立ちにピロリ菌の感染が深く関わっていることを発見し、2005年度ノーベル医学・生理学賞に輝いた。最近の新聞報道によれば5万8000年前のアフリカの人類にもピロリ菌が見つかったという。とすると漱石の胃壁にもピロリ菌が巣食っていたことは十分考えうる。







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