ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

幸せは何処にでも

2014年02月21日 | ガジ丸の日常

 大学の何年生だったか覚えていないが、ある年、帰省すると、「家を建て替えることにした。」と両親が言った。私は反対した。無駄なことだと思ったのだ。

 「今の家で十分住めるだろう?」
 「雨漏りがする、修理しても直らないから建て替えた方が良いのだ。」
 じつは、当時の実家の私の部屋は、家の玄関を通らずに外へ出入りできる別のドアがあって、私は両親や祖母に知られることなくいつでも自由に外へ出られたし、いつでも自由に友人たちを部屋に入れることができた。私にとっては住み心地の良い家であった。それともう一つ、私はどちらかというと森や林のある環境が好きであった。なので、
 「建て替えるよりここを売って、ちょっと田舎、母さんの郷である南風原に畑もできるような広さの土地を買って、そこに家を建てた方が良いよ。」と意見を述べた。が、
 「那覇から田舎へ行くのは落ちぶれた者みたいでダメだ。」と却下された。
     

 次に帰省した時には、両親はおおよそ出来上がっている新築建物のプランを話してくれた。建物は敷地一杯の大きさにし、下駄履きで1階は全面駐車場。2階にキッチン、ダイニング、リビングなどがあり、3階はそれぞれの寝室となっていた。当時の家には小さいながらも庭があった。新築のプランには庭がまったく無い。それと、寝室のある3階へ上がるには内階段しかない。つまり、両親に知られることなく自由に出入りできない。

 「この計画、俺は好きじゃない。」と言うと、
 「じゃあ、あんたの意見を聞かせてよ。」と母が応えたので、
 「小さくてもいいから庭はあった方が良い、それと、3階はアパート型式にして、俺と弟がそれぞれ住めるようにした方が良い。」と意見を述べた。
 次に帰省した時にはもう新築建物が建築中であった。両親と祖母は近くで借家住まいしていた。その借家は平屋の瓦葺で庭があり、門から建物までの間に大きな木(ガジュマルだったかも)があって、「いかにも沖縄」という雰囲気。「こんな家がいいなぁ」と思いつつ、新築建物の設計図を見た。前回の私の意見はまったく無視されていた。
     

 私は大学卒業後、沖縄に帰って実家に住むようになった。それから4~5年後に父が定年退職となった。父はその数年前に脳梗塞(または脳溢血)で倒れ、以来、右半身に麻痺が残っていた。その体で、毎日が日曜日となった父は屋上にたくさんの鉢物やプランターを並べ、果樹を育てたり、野菜を作ったりしていた。
     
 「農業やりたいの?」
 「あー、もっと広いところでやりたいなぁ。」
 「俺が農業やりたいと言ったら反対したじゃないか。」
 「趣味としてならいいんだよ。」
 「なら、この家土地を売って、南風原に広い土地を買えばいいじゃないか。」
 当時はバブルの頃、実家は那覇市の住宅地としては一等地にあり、坪単価は現在の約3倍、160万円以上はあった。まだ新しい建物も含めれば1億円を超える。田舎なら広い土地が買えて、家も建てられる額になる。その計算も私には働いていた。
 「それはダメだ、田舎には落ちたくない。それに、母さんが反対する。」

     
 母は確かにこの土地から離れたくないと思っている、というのは私も感じていた。母の郷は那覇市の東隣にある南風原町、字(あざ)の中でも商店やムラヤー(公民館)の並ぶ通りに面した賑やかな場所に母の実家はあるが、そこから少し行くと畑が広がり、森と呼べる大木の鬱蒼と茂った原野もあり、那覇から見ればずっと田舎であった。
 「田舎は嫌」と母が思っていたのかどうかは知らないが、「街中は好き」ではあったと思う。母はよく動く人で、ボーっとしていることはほとんど無かった。その腹から生まれた私がボーっとばかりしている子供なのが不思議なくらいである。私のボーっとばかりしている性質は、大人になってからもそのまま続き、今でもそうである。

     
 母の活動は、免許資格を得ることから始まる。若い頃に運転免許を得ている。沖縄の女性としては早い方だと思う。もしかしたら「もっとも早い時期に運転免許を得た沖縄女性トップ10」に入るかもしれない。今度、公安へ行って調べてみよう。
 話が逸れた。母の免許資格は、洋裁和裁、着付け、お茶(煎茶)、生花、書道、詩吟に及ぶ。洋裁和裁、着付けは仕事(つまりプロ)となり、書道、詩吟は師範にまでなっている。生半可では無く、身を入れてやっていたということだ。
 母の活動はそれだけでは無い。地域のボランティアに参加し、民生委員になり、地域の子供たちの安全を守る活動や、独居老人を訪ねる活動などもやっている。

     
 「生きているということは何かをやるということ」と母は思っていたのかもしれない。若い頃にある宗教団体に属し、それは死ぬまで、おそらく50年以上続いた。母の部屋には聖書があり、仏典もいくつかあった。般若心経の母の手による写経もあった。信心深い人だったのだ。なので、「努力を惜しまず、我が身を高める」とか、「他人のために身を尽くす」という想いを持っていたのだろう。ボーっとしている暇は無いのだ。
 そんな母なので、田舎に引っ込んでのんびり過ごすなんてことは考えられなかったのかもしれない。都会にいて、多くの団体と関わり、多くの催し物に参加し、多くの付き合いをすることが母の幸せだったのかもしれない。「いつも何かをやっている、一所懸命やっている」充実した人生だったと思う。走り続ける幸せがそこにはある。
 田舎暮らしは母が反対、ということで父も納得なのであった。「母さんがそう言っているからそうしよう」というのが、母に対する父の愛情だったのであろう。田舎暮らしは母が反対、ということで私も観念し、バブルの頃に「家土地を売って、田舎に広い土地を買って・・・」と提言したが、それ以降はもう両親と一緒の田舎暮らしは諦めた。

 父が76歳の年、母が死んだ。右半身が不自由な父なので一人暮らしは大変であろうと思ったが、都会の真ん中の実家に住むことは私にとって精神衛生上よろしくないので、ある提案をした。首里のまだ緑の多く残る場所に従姉の家がある。家は相当古くて「建て替えしたいが金が無い」と従姉が言っていた。そこで、実家を売って、その金で従姉の土地にアパート型式の家を建てて、1階に父が住み、介護の経験豊富な従姉が2階の1室に住み、もう1室には私が住むという計画を、設計図まで書いて父に提案した。
     
 その設計図、以前に紹介したかもしれないが改めて説明すると、2階はアパートになっていて2DKベランダ付きの部屋が2室、1階はその分の広さがあって、父の部屋以外に客間も2間設けている。駐車場は2台停められ、別途、道路から玄関までのアプローチは車が通れる幅があり、玄関前に車を停めることができる。介護車用である。もちろん門から建物1階内部はトイレ浴室も含め全てバリアフリー。父が車椅子生活になっても困らないようにだ。車椅子で一人で外に出て、車椅子での散歩もできるわけだ。庭は10坪ほどあり、果樹も含め緑を茂らす。その一角に5坪ほどの畑もある。畑で作物を育て、木々の緑にやってくる鳥、花に集まる蝶などとユンタク(おしゃべり)もできるわけだ。


 その計画に最初父は肯いてくれたが、結局は却下となった。娘(私の姉)に反対されたのだ。娘は都会が好きみたいであった。父のことを想って姉が反対したとは、私は思えない。人付き合いの少ない父だ、都会にある実家ではほとんど外に出なかった父だ。畑の土をいじり、作物を育て、収穫を喜び、収穫を息子や姪たちに分けて喜ばれることを喜び、鳥や虫たちとユンタクすることが父の幸せであっただろうと私は思う。
 幸せは何処にでもある。何処にいてもそれなりの幸せを感じることができるだろう。だけれども、その人の好む環境にその人がいればもっと大きな幸せとなるだろう。
 都会暮らしを好んだ母はその環境にいて幸せだったに違いない。田舎暮らしが好きだったと思われる父だが、母が生きている間の父にとっては、田舎暮らしよりも母のいる環境が最も大きな幸せを感じる場所だったのだと思う。
     
 父と母は二人で、またはツアーでよく旅行した。父のパスポートを見ると台湾へ4度、アメリカへ1度行っている。国内旅行にも何度か行っている。それを考慮すれば、まあまあの夫婦仲だったと思われる。ではあるが、「おしどり夫婦」とまでは言えない。お互いに不満はあったようで、たまには喧嘩もしていた。

 あの世へ行って、自由になって、互いに遠慮するようなことも無くなっているとしたら、・・・今頃あの世で2人、
 「今日もまた出かけるのか?どこへ?何時に帰ってくるんだ?」
 「今日は友達とカラオケ、帰りは遅くなるよ。」
 「毎日毎日出かけて行って、たまには家にいろよ。」
 「煩いわねぇ、私はそれが好きなのよ、ボーっとするのが好きなあんたは田舎に引っ込んでいた方がいいと思うよ。そうすれば?」
 「えーっ、お前、俺と別れるつもりか!」
 などと、喧嘩していないだろうか。仏になってまでも夫婦喧嘩するのかな?
     

 記:2014.2.9 島乃ガジ丸 →ガジ丸の生活目次

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