告別式というと、山之口獏の詩が、先ず思い浮かぶ。
金ばかりを借りて
歩き廻っているうちに
僕はある日
死んでしまったのだ
と始まる。この後、告別式があって、あの世で死んだ長男に会って、長男と会話して、それで、「あの世もこの世もないみたい」と「僕」は思うのだが、興味のある方は、山之口獏詩集を買うなり、図書館から借りるなりして、じっくり読んでみてください。
同じ題で、内容もほぼ同じものを昨年亡くなった高田渡も歌っている。
お金ばかりを借りて
歩き廻っているうちに
僕はとうとう
死んでしまったのだ
と、始まりはほぼ一緒。最後の「僕」の思うところも一緒。ただ、高田渡の場合は、あの世で会う人が長男では無く、親父となっている。あの世で会うのが親父なら普通だが、それが息子では、軽快なリズムに乗せて歌うにはちょっと重たいと思ったのであろう。この歌に興味のある方は、高田渡のCDを買うなり、借りるなりして下さい。
倭国の告別式に参列したことが無いので、沖縄のそれとどういう違いがあるのか知らなかったのだが、茅ヶ崎生まれのM女によると、沖縄の告別式はびっくりするようなことばっかりだという。祭壇に向かって左右に席が分かれているのが変、その席が祭壇を横に見て向かい合っているのが変、右の席に男、左の席に女と別れているのも変、とのこと。
焼香台は祭壇の正面にあるが、祭壇との間には10メートルばかりの空間がある。焼香する者は正面の遺影に手を合わし、右前方の席に並んでいる親族の男性に目礼し、左の女性親族にも目礼する。親族もまた、いちいち礼を返す。1000人の参列者がいると、1000回の礼をすることになる。親族も大変である。
私は、「常識を知らない男と思われている」という甘えからだが、たいていは自分なりの焼香で済ませている。右にも左にも礼はせず、ただ正面の遺影に向かってだけ手を合わせ、頭を下げている。告別式は、その通り儀式なのではあるが、その形式は普遍的なものではなかろう。地域によって、宗派によって形は違うであろう。であるならば、どこへいっても通じるような普遍的なもので対処しても良かろう、と思う。「あの人はいい年して常識も知らないねー」と言われているのかもしれないが、一応、私は心を込めている。
記:ガジ丸 2006.2.24 →沖縄の生活目次
参考文献
『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行