ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

現実的ゲーム

2011年03月04日 | ガジ丸通信-社会・生活

 学生の頃、ゲーム屋さんでバイトしていたことがある。インベーダーゲームの余韻がまだあった頃だ。ゲーム機のマスターキーを持っていたので、暇な時は只で遊んでいた。
 その頃は、只だから遊んでいたし、只で無い場合でも、友人たちから「ゲームしに行こうぜ」と誘われて、たまにはゲームセンターにも行っていた。
 それから数年後、従姉の子供がファミコンを購入し、ファミコンなるものがあるということを知ったが、私はやらない。従姉の子供が父親のパソコンで「信長の野望」とかサッカーゲームをやっていたが、それにも参加しない。大学卒業後沖縄に帰ってから、私はたぶん、ゲームセンターへ行ったことが無い。パソコンを購入して最初の頃はマージャンゲームに興じていたが、それもすぐに飽きてしまった。

  ゲームとは「遊戯。勝負事。競技。試合。」と広辞苑にある。コンピューターゲームはこの内の「遊戯、勝負事」ということであろう。この「遊戯、勝負事」の面白さを私は知らない。新発売のゲーム機を買うために徹夜で並ぶなんてニュースを見ても、それほど熱中することか?と不思議に思うだけ。画面の中の勝負事に「勝った、負けた」と大騒ぎすることにも、「だから何だっていうんだ?」と思うだけ。
 と言いつつ、じつは私は一昨年までコンピューターゲームをたびたびやっていた。一昨年12月に会社のパソコンがウィンドウズ7に替わるまでは毎年何度もやっていた。こっちはでも、現実的ゲームだ。パソコンが故障して、それをいかに直すかというゲーム。故障したパソコンを自分で修理して回復させたことが何度もあるが、その時は嬉しい。ついにお手上げとなり、パソコンが死んだ時は残念であった。
         

 現実的ゲームと言うと、私の場合は10年に1回しか訪れてこないが、恋愛もその内の一つになる。「ゲーム感覚で恋愛しているからフラれてばかりいるんだ」と言われるかもしれないが、この場合のゲームは「試合」、それもオリンピックのような大事な試合、人生の大勝負となる。なので、毎度毎度、真剣に試合に臨んでいる。しかし、奮闘努力の甲斐も無く、勝負に破れて、深い悲しみに沈んでいるだけのこと。
  さらに言えば、日常の生活でも現実的ゲームはそれこそ日常的にある。例えば、畑の作物が順調に生育し、収穫できるかなんてのも私にとっては大きな勝負だ。植付時期が間違っていたとか、堆肥の混ぜ方が悪かったとか、その都度その都度反省し、次はこの手を使おうなどと新しい戦法を考え、再チャレンジしたりする。
 毎日の料理も勝負と言えば勝負となるが、これはリスクが少ないので、ほとんど緊張感のない現実的ゲーム。私は料理がまあまあ上手であり、私の舌は許容範囲が広いので、たいていは美味いと思う。美味ければ合格、で、勝率はたぶん8割を超える。

 大政奉還すれば命は救われる。しかも、財産があるのでその先の生活も心配無い。ならば、多くの民の命を救うためにその地位を失っても、それは負けでは無い。むしろ、誇っても良い棄権だと思う。砂漠の狂犬は、民衆との命のやり取りを「遊戯。勝負事。競技。試合。」と捉えているのかもしれない。しかし、私の考えでは既に勝負はついている。民心が離れた時点で現実的ゲームは終了している。「お前は既に負けている」だ。
         

 記:2011.3.4 島乃ガジ丸

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