ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

西武門節(にしんじょうぶし)

2010年12月18日 | 沖縄03音楽芸能・美術工芸・文学

 西武門節という古い沖縄民謡がある。私の好きな民謡の一つで、高校生の頃から知っていて歌ってもいる唄なので、工工四(クンクンシイ、琉球民謡の楽譜)を見なくてもだいたい歌詞は覚えている。辻遊郭の娼妓と首里のサムレー(侍)との情歌。
 男 イチュンドヤー(もう行くよ)カナシ(哀し:愛しい人という意)
 女 マチミソーリー(お待ちください)サトゥメー(里前:恋人の二人称、注1)
   ニシンジョウ(西武門)ヌ(までの)エーダーヤ(間は)
   ウトゥムサビラ(お供しましょう)
以上が一番の歌詞。7番まで続き、ひたすら別れを惜しむ。

 西武門、ウチナーグチ(沖縄口)の発音でいうニシンジョウは、現在も、物理的には残っていないが、人々の意識の中にはあり、西武門交差点とか西武門交番として名が残されている。『沖縄大百科事典』による西武門の記述。「久米村を東西に二分する久米村大通りの北口付近をいう。南口は現在の泉崎橋陸橋付近にあたり、久米村大門(ウフジョー)と称された。南北にのびる久米村大通りは竜身にたとえられ、竜頭は大門、竜尾は北口の北門とされた。西武門は北門(ニシジョー)の意。現行の那覇市久米2丁目にあたる。」とある。その西武門は、辻遊郭の入口であった。
 女は辻遊郭のジュリ。ジュリは尾類と書き、遊女、娼妓を指す沖縄の言葉。『沖縄大百科事典』による記述では「ジュリは紹介者のいない振りの客(注2)や、嫌な客は断ることができ、一夜に一人の相手をして手作りの料理でもてなすなど、他の遊郭には見られない雰囲気を持っていた。」とある。この話は以前にも聞いたことがある。辻遊郭は下半身の欲望を満たすだけの場所では無く、一時的ではあるが、擬似的な夫婦関係となり、心の癒しをも求める場所であったのだろう。一夜だけでも互いに心を通わせていたのだ。だから、客は身元のしっかりした人でなければならず、心を通わすことができないような嫌な客であれば、尾類の方も断ることができたのである。そして、一度引き受けた客ならば自分の大切な人と思い、そのように一夜をもてなしたのだ。
 またも、婦人団体から抗議を受けそうなことを言うが、プラダのバッグや、クリスチャンディオールの服や、ティファニーのネックレスなどを欲しいがために、いとも簡単にパンツを脱いで股を開く現代の若い女たちに比べれば、我と我が親兄弟の生活のために体を売っていたジュリたちは、はるかに崇高であると思う。しかも、ただ単に体を売るのでは無く、心を尽くしたもてなしをするなんて、想像しただけで涙が出そうになる。こんな場所が今でもあったなら、私は月1回でもいいから、そこへ通いたい。通うために相当の金がいるのであれば、そのために余分に働くのでさえ全然厭わない。

 注1、男の恋人をサトゥ(里)と呼ぶ。サトゥメー(里前)と前が付くとさらに丁寧な言い方になる。文語、主に琉歌の中で使われる言葉。詳細はいずれ別項で。
 注2、振りの客:紹介者のいない初めての客。京都などでよく聞く「一見さん」と同じような意味。広辞苑によると、振りは「(通りすがりで)なじみでないこと。」とあり、一見は「初対面。もと、遊里で、その遊女に初めてあうこと」とある。
 辻遊郭の歴史を『沖縄大百科事典』から少し抜粋。
 薩摩進入(1609年)後、貢租の取立てが厳しくなって、農村の貧困家庭の娘が身売りをする例が多くなり、私娼が増えたため、1672年、摂政、羽地朝秀によって、辻・仲島の遊郭がつくられた。昭和10年代まで、辻は沖縄の社交の中心であり、政財界の要人、教育界の指導者、商工業、農漁村にいたるあらゆる階層の男たちの出入する場所であり、料理屋、宿泊所として栄えた売春と遊興の地だった。明治30年代の新聞には遊女の数は約900人とある。1908年、仲島、渡地が辻に合併。以後、辻は唯一の遊郭となったが、44年10.10空襲で消失。270年の歴史を閉じた。

 記:ガジ丸 2005.3.11 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行

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